朝、教室に入る前から分かっていた。
今日は、逃げられない。
理由はない。ただ、昨日までと同じでいられないことだけが、はっきりしている。
扉を開ける。視線が動く。自然と前を見る。
いる。
蒼が。
いつも通りの席。いつも通りの姿勢。何も変わっていないように見える。
それが、一番怖い。
何も壊れていないみたいに、そこにいる。
その現実が、胸の奥を強く締めつける。
「おはよ」
先に声をかけられる。
一瞬、反応が遅れる。
「……おはよ」
やっと返す。
声が少しだけ、掠れる。
蒼は、何も気にしていないみたいに笑う。
その笑顔が、昨日までと同じで。
だから、壊れる。
――なんで。
責めてくれた方が楽だった。
怒ってくれた方が、まだ息ができた。
でも。
何も言わない。
何も変えない。
それが、一番逃げ場をなくす。
席に座る。隣に気配が来る。
「ねえ」
凛の声。
振り向かなくても分かる距離。
「顔、やばいよ」
小さく笑う。
その軽さが、逆に刺さる。
「……平気」
短く返す。
「嘘」
即座に否定される。
視線が合う。
逃げられない。
「ちゃんと見てる?」
静かに言う。
「今の自分」
胸が締まる。
見たくないものを、突きつけられる。
「……見てる」
やっと答える。
「そっか」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
否定も、慰めもない。
ただ、受け入れられる。
そのことが、余計に苦しい。
授業が始まる。黒板の文字が流れていく。
でも、頭の中は別のことでいっぱいになる。
さっきの笑顔。
何も知らないみたいな顔。
それが、何度も浮かぶ。
自分は知っているのに。
壊したことを。
選んだことを。
それでも、向こうは何も変えない。
その差が、痛い。
休み時間。
「これ、昨日の続きなんだけどさ」
蒼が話しかけてくる。
自然に。
昨日までと同じテンションで。
「……うん」
返す。
会話が続く。
何も変わらない。
普通のやり取り。
でも、その“普通”が、一番きつい。
自分だけが、普通じゃない。
自分だけが、壊れている。
その事実が、会話の一つ一つに刺さる。
「七瀬ってさ」
ふいに名前を呼ばれる。
心臓が強く跳ねる。
「優しいよね」
その一言で、呼吸が止まる。
否定したい。
今の自分が、そんな言葉に値しないことを知っている。
「……違う」
やっと出た声は、小さい。
「え?」
聞き返される。
「……優しくない」
絞り出すように言う。
沈黙が落ちる。
一瞬だけ。
でも、その一瞬が長い。
「そっか」
蒼は、軽く笑う。
「でも、俺はそう思うよ」
そのまま続ける。
否定しない。
押し付けない。
ただ、そう思っていると伝えるだけ。
それが、逃げ場を完全に潰す。
胸の奥が、崩れる。
優しくなんかない。
そう思いたいのに。
そう思わせてくれない。
昼休み。
自然と三人になる。
でも、昨日とは違う。
誰も何も言わないのに、空気が重い。
それでも蒼は、変わらない。
普通に話す。
普通に笑う。
その一つ一つが、刃みたいに刺さる。
「それ、食べる?」
差し出される。
少しだけ間が空く。
昨日、断ったことを思い出す。
そのせいで、余計に苦しくなる。
「……うん」
今度は、受け取る。
逃げたくて。
でも。
それを見た瞬間。
凛が、ほんの少しだけ笑う。
その意味が分かる。
逃げている。
そう言われている気がする。
口に運ぶ。
味なんて、分からない。
ただ、喉を通るだけ。
「どう?」
蒼が聞く。
「……おいしい」
嘘をつく。
その嘘が、自分で分かる。
それでも、そう言うしかない。
放課後。
帰る時間。
「七瀬」
呼ばれる。
振り向く。
蒼が立っている。
「ちょっといい?」
静かな声。
断れない。
「……うん」
頷く。
少し離れた場所に移動する。
誰もいない廊下。
「ごめんね」
先に言われる。
思考が止まる。
「昨日、なんか変な空気にしちゃって」
違う。
違うのに。
「俺のせいで、やりづらかったでしょ」
違う。
全部、違う。
でも。
「……違う」
それしか言えない。
「いいよ」
すぐに返される。
「気にしないで」
優しく言う。
その優しさが、限界まで刺さる。
気にしないで。
そんなこと、できるわけないのに。
「俺さ」
少しだけ間を置く。
「七瀬が楽しそうなら、それでいいよ」
その一言で、全部が崩れる。
視界が滲む。
「……なんで」
やっと出た声は、震えている。
「なんで、そんなこと言えるの」
問いかける。
責めるように。
でも、本当は。
縋るみたいに。
「だって」
少しだけ笑う。
「そう思ってるから」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
「じゃあね」
軽く手を振る。
そのまま、背を向ける。
止めなきゃいけない。
分かっているのに。
動けない。
声も出ない。
ただ、見ているだけ。
遠ざかる背中。
完全に、離れていく。
その時。
後ろから、気配が近づく。
振り向かなくても分かる。
「ねえ」
凛の声。
すぐ近く。
「いいの?」
静かに聞く。
何が、とは言わない。
でも、全部分かる。
追いかけるか。
残るか。
その選択。
「……っ」
息が詰まる。
足が動きそうになる。
でも。
その瞬間。
手が、掴まれる。
強く。
逃げられないくらいに。
「ほら」
低く囁かれる。
「もう分かってるでしょ」
視線が合う。
逃げ場がない。
「どっちが、楽か」
その一言で、全部が止まる。
楽な方。
苦しくない方。
それは。
もう、決まっている。
「……こっち」
小さく答える。
その瞬間、手が強く握られる。
「いいよ」
優しく言う。
「それでいい」
その言葉に、安心してしまう。
最低だと分かっているのに。
胸の痛みが、少しだけ軽くなる。
その代わりに。
何かが、完全に壊れる。
遠くで、扉の音がする。
きっと、もう戻ってこない音。
それでも。
手を離さない。
離せない。
離れたら、何も残らないから。
罪悪感が、消えるわけじゃない。
むしろ、もっと重くなる。
でも。
その重さごと、抱えたまま。
この温度に、縋る。
逃げない。
逃げられない。
全部、分かっているまま。
沈んでいく。
今日は、逃げられない。
理由はない。ただ、昨日までと同じでいられないことだけが、はっきりしている。
扉を開ける。視線が動く。自然と前を見る。
いる。
蒼が。
いつも通りの席。いつも通りの姿勢。何も変わっていないように見える。
それが、一番怖い。
何も壊れていないみたいに、そこにいる。
その現実が、胸の奥を強く締めつける。
「おはよ」
先に声をかけられる。
一瞬、反応が遅れる。
「……おはよ」
やっと返す。
声が少しだけ、掠れる。
蒼は、何も気にしていないみたいに笑う。
その笑顔が、昨日までと同じで。
だから、壊れる。
――なんで。
責めてくれた方が楽だった。
怒ってくれた方が、まだ息ができた。
でも。
何も言わない。
何も変えない。
それが、一番逃げ場をなくす。
席に座る。隣に気配が来る。
「ねえ」
凛の声。
振り向かなくても分かる距離。
「顔、やばいよ」
小さく笑う。
その軽さが、逆に刺さる。
「……平気」
短く返す。
「嘘」
即座に否定される。
視線が合う。
逃げられない。
「ちゃんと見てる?」
静かに言う。
「今の自分」
胸が締まる。
見たくないものを、突きつけられる。
「……見てる」
やっと答える。
「そっか」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
否定も、慰めもない。
ただ、受け入れられる。
そのことが、余計に苦しい。
授業が始まる。黒板の文字が流れていく。
でも、頭の中は別のことでいっぱいになる。
さっきの笑顔。
何も知らないみたいな顔。
それが、何度も浮かぶ。
自分は知っているのに。
壊したことを。
選んだことを。
それでも、向こうは何も変えない。
その差が、痛い。
休み時間。
「これ、昨日の続きなんだけどさ」
蒼が話しかけてくる。
自然に。
昨日までと同じテンションで。
「……うん」
返す。
会話が続く。
何も変わらない。
普通のやり取り。
でも、その“普通”が、一番きつい。
自分だけが、普通じゃない。
自分だけが、壊れている。
その事実が、会話の一つ一つに刺さる。
「七瀬ってさ」
ふいに名前を呼ばれる。
心臓が強く跳ねる。
「優しいよね」
その一言で、呼吸が止まる。
否定したい。
今の自分が、そんな言葉に値しないことを知っている。
「……違う」
やっと出た声は、小さい。
「え?」
聞き返される。
「……優しくない」
絞り出すように言う。
沈黙が落ちる。
一瞬だけ。
でも、その一瞬が長い。
「そっか」
蒼は、軽く笑う。
「でも、俺はそう思うよ」
そのまま続ける。
否定しない。
押し付けない。
ただ、そう思っていると伝えるだけ。
それが、逃げ場を完全に潰す。
胸の奥が、崩れる。
優しくなんかない。
そう思いたいのに。
そう思わせてくれない。
昼休み。
自然と三人になる。
でも、昨日とは違う。
誰も何も言わないのに、空気が重い。
それでも蒼は、変わらない。
普通に話す。
普通に笑う。
その一つ一つが、刃みたいに刺さる。
「それ、食べる?」
差し出される。
少しだけ間が空く。
昨日、断ったことを思い出す。
そのせいで、余計に苦しくなる。
「……うん」
今度は、受け取る。
逃げたくて。
でも。
それを見た瞬間。
凛が、ほんの少しだけ笑う。
その意味が分かる。
逃げている。
そう言われている気がする。
口に運ぶ。
味なんて、分からない。
ただ、喉を通るだけ。
「どう?」
蒼が聞く。
「……おいしい」
嘘をつく。
その嘘が、自分で分かる。
それでも、そう言うしかない。
放課後。
帰る時間。
「七瀬」
呼ばれる。
振り向く。
蒼が立っている。
「ちょっといい?」
静かな声。
断れない。
「……うん」
頷く。
少し離れた場所に移動する。
誰もいない廊下。
「ごめんね」
先に言われる。
思考が止まる。
「昨日、なんか変な空気にしちゃって」
違う。
違うのに。
「俺のせいで、やりづらかったでしょ」
違う。
全部、違う。
でも。
「……違う」
それしか言えない。
「いいよ」
すぐに返される。
「気にしないで」
優しく言う。
その優しさが、限界まで刺さる。
気にしないで。
そんなこと、できるわけないのに。
「俺さ」
少しだけ間を置く。
「七瀬が楽しそうなら、それでいいよ」
その一言で、全部が崩れる。
視界が滲む。
「……なんで」
やっと出た声は、震えている。
「なんで、そんなこと言えるの」
問いかける。
責めるように。
でも、本当は。
縋るみたいに。
「だって」
少しだけ笑う。
「そう思ってるから」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
「じゃあね」
軽く手を振る。
そのまま、背を向ける。
止めなきゃいけない。
分かっているのに。
動けない。
声も出ない。
ただ、見ているだけ。
遠ざかる背中。
完全に、離れていく。
その時。
後ろから、気配が近づく。
振り向かなくても分かる。
「ねえ」
凛の声。
すぐ近く。
「いいの?」
静かに聞く。
何が、とは言わない。
でも、全部分かる。
追いかけるか。
残るか。
その選択。
「……っ」
息が詰まる。
足が動きそうになる。
でも。
その瞬間。
手が、掴まれる。
強く。
逃げられないくらいに。
「ほら」
低く囁かれる。
「もう分かってるでしょ」
視線が合う。
逃げ場がない。
「どっちが、楽か」
その一言で、全部が止まる。
楽な方。
苦しくない方。
それは。
もう、決まっている。
「……こっち」
小さく答える。
その瞬間、手が強く握られる。
「いいよ」
優しく言う。
「それでいい」
その言葉に、安心してしまう。
最低だと分かっているのに。
胸の痛みが、少しだけ軽くなる。
その代わりに。
何かが、完全に壊れる。
遠くで、扉の音がする。
きっと、もう戻ってこない音。
それでも。
手を離さない。
離せない。
離れたら、何も残らないから。
罪悪感が、消えるわけじゃない。
むしろ、もっと重くなる。
でも。
その重さごと、抱えたまま。
この温度に、縋る。
逃げない。
逃げられない。
全部、分かっているまま。
沈んでいく。

