あなたが愛しすぎて…



​翌日、昼休みに一通のメールが届いた。圭佑からだった。

​『明日、18時にあの喫茶店で待っている』

​「あの喫茶店」とは、3年前に、私たちが最後の日を過ごした場所だ。

返信はしなかった。行かなければいい。そう自分に言い聞かせても、耳の奥では一昨日のあの「声」が、呪いのように再生され続けている。

​夕食のあと、章男は私の隣に座ると、私の顔をじっと見つめた。

彼は私が何を隠しているか、その詳細を知る由もない。けれど、私の心に「ノイズ」が混じっていることだけは、誰よりも敏感に感じ取っていた。

​翌日の朝、私はいつものように章男の隣で目覚め、いつものように穏やかな朝食の時間を過ごした。

章男が淹れる深煎りのコーヒーの香り、庭の紫陽花が雨に濡れる音(それは私にしか聞こえないけれど)、そして、視線が合うたびに交わされる柔らかな手話。

 音のない世界には、虚飾や駆け引きが紛れ込む隙間などない。言葉を介さないからこそ、相手の瞳の揺らぎや、指先の微かな強張りが、何よりも雄弁に真実を物語る。私は、この凪いだ海のような日々こそが、人生の終着駅なのだと信じて疑わなかった。

けれど、私の心はすでにここにはなかった。

​仕事へ向かう間際、玄関で靴を履く私の背中に、章男がそっと手を置いた。振り返ると、彼は少し心配そうに眉を下げ、手話で私に問いかけた。

​『今日は、帰りに甘いものでも買ってこようか?』

​「……ごめんね、章男。今日も仕事が忙しくて、残業になりそうなの。遅くなるから、先に食事していて」

​声に出した嘘は、驚くほど滑らかに口から滑り出した。

章男は一瞬だけ、何かを言いたげに口元を動かしたが、すぐにいつもの優しい微笑みに戻って頷いた。

​『わかった。無理しないで。気をつけてね』

​そう描く彼の手が、私の嘘をそのまま信じて送り出してくれる。その無垢な信頼が、今の私にはどんな刃物よりも鋭く、胸の奥を切り裂いた。

​夕暮れが完全に溶け落ち、街灯が灯り始めた18時。

駅裏にある、地下へ続く階段を降りた先にある古い喫茶店。

​かつて、私たちが何度も待ち合わせ、そして最後には「さよなら」さえ言えずに終わった場所。

店内に流れる低いジャズと、隣の席の客の話し声、カップが皿と触れ合う音。

今の私にとって、それは暴力的なほどの「音」の奔流だった。

​「残業で遅くなる」

そう章男に伝えた嘘が、胃の奥で冷たく固まっている。

​店内に足を踏み入れると、数ある座席の奥、琥珀色の珈琲をじっと見つめている圭佑の姿が目に飛び込んできた。

彼は入り口をずっと気にしていたのだろう。私の姿を見つけた瞬間、その強張っていた表情が、堰を切ったように安堵の色に染まった。

​彼と目が合った瞬間、私の心臓は不規則なビートを刻み始める。

​「……来てくれたんだ」
​その「声」が鼓膜を震わせた刹那、私の背筋に抗いようのない熱が走った。忘れていたはずの熱。忘れてはいけなかったはずの罪。

​私は吸い寄せられるように、彼の正面の席へと腰を下ろした。

​「来てくれたんだね……」
​噛み締めるような彼の言葉に、私は短く「久しぶり」とだけ返す。それ以上の言葉を紡げば、声の震えで何もかもが崩れてしまいそうだった。

​「……話って何?」
​真っ直ぐに彼を見ることができず、私は視線を卓上に落とした。

​「なんか飲む?」
「要らない」
​差し出されたメニューを、遮るように拒む。

喉が酷く渇いているはずなのに、今は水の一滴さえ、この喉を通るとは思えなかった。

章男の世界には存在しない、この「声の響き」という麻薬。

​「……何の話しがあるの?」

​私は、自分の声が微かに震えているのを自覚しながら、あえて突き放すように言った。

​「……あの時の話をしたくて」

​「あの時?」

​聞き返した私の脳裏に、いくつもの苦い記憶がフラッシュバックする。

彼は一度、言葉を切った。そして、琥珀色の珈琲を一口含み、喉を鳴らす。その微かな嚥下音さえ、今の私には酷く生々しく響く。

​「……、最後の日話したことは嘘なんだ 、今更だけどそれを話したかった…絵里を傷つけるつもりはなくて守りたくて着いた嘘なんだ」

​圭佑は、珈琲カップを見つめたまま、絞り出すように言った。

「守りたかった? 嘘って何が?」

​「妊娠なんてしていなかった。話をしようと思った夜に倒れたんだ…救急車で運ばれた先で、彼女が僕に黙って、不妊治療に通い詰めていたことを知ったんだ。必死になって、僕との子供を望んでいたことを。そして絵里とのことも知っていた…別れてくれるなら慰謝料は請求しないと…俺とも離婚はしないと…」

​地下の喫茶店に流れる低いジャズが、急に不快な雑音に変わる。

​「俺は絵里とのことを慰謝料とか不倫という言葉で片付けたくなかった。そして弱っている彼女を放り出すことができなかったんだ。だから俺を確実に嫌いになってくれる『妊娠』という嘘を選んだんだ、」

​圭佑の声は、震えていた。

​「それでも絵里を傷つけたことを、ずっと謝りたくて……。勝手だとは思うけれど、どうしても謝りたくて……」

「絵里、ごめんな。傷つけてごめんな……」

​耳の奥で、カチリ、と音がした。

3年前、私が抱えていたあの時の虚無感も、自分を責め続けた夜も、すべては彼の「身勝手な優しさ」という名の嘘に振り回されていただけだったのだ。

​彼は「謝りたい」と言いながら、結局は今も、自分の過去を浄化するために私に「聞く」という役割を押し付けている。

​18時の喫茶店。

私は、この独りよがりな「声」を聞くために、章男に「残業だ」と嘘をついてまでここに来たのだろうか。

章男の世界には、こんな卑怯な言葉は存在しない。彼はいつだって、掌から伝わる確かな熱だけで、私と向き合ってくれるのに。

「……どうして今さら、そんなことを言うの」

「…絵里を忘れることができなかったからだ」

​「……もう、いいわ」

​私は立ち上がった。

​「謝ってほしかったわけじゃない。あなたのその『声』が、どれほど自分勝手なものかを確認したかっただけみたい。もう、満足でしょ」

​「絵里……!」

​背後で私の名を呼ぶ声を無視して、地下の階段を一段、また一段と駆け上がるたび、肺の奥が焼けるように熱かった。

​『妊娠なんてしていなかった』

革靴がコンクリートを叩く乾いた音が、まるで自分を追い立てる鼓動のように響いていた。
​地上まであと数段というところで、不意に足が止まる。

踊り場を吹き抜ける冷たい風が、逆上せた頬を容赦なく撫でた。
​「……私は、何をしていたの」

​口を突いて出たのは、形にならない溜息のような独り言だった。
さっきまで、あの琥珀色の空間で聞いていた言葉が、脳内で何度も、醜いノイズとなってリフレイドされる。

​『妊娠なんて、していなかった』
​その一言が、私の3年間を根底から覆した。

あの日、彼が吐き出した「裏切り」は、私を傷つけ、遠ざけるための、あまりに拙くて残酷な嘘だったのだ。

​彼は私を守ろうとしたと言った。泥沼の慰謝料請求から、世間の目から、私という存在を切り離すために、自ら「最低の男」を演じたのだと。

けれど、立ち止まった私の胸に去来したのは、感謝などではなかった。
​(守りたかったのは、私じゃない。……あなた自身でしょう?)

​彼が嘘を選んだことで、私は理由も分からぬまま虚無の底に突き落とされた。

夜も眠れず、鏡に映る自分を呪い、彼を愛したことさえ罪だと自分を責め続けた。その暗闇の中で、彼は「自己犠牲」という甘美な言い訳を抱いて、一人で酔いしれていたのではないか。

​そして何より、恐ろしい事実が鏡のように私を照らし出す。

​私が彼と過ごしたあの甘美な時間の裏側で、不妊治療に縋り、夫の愛を繋ぎ止めようとしていた奥様がいた。

私の知らぬところで、私の存在そのものが、一人の女性の尊厳をナイフで削り続けていたのだ。
​「……最低だわ」

​それは彼への言葉か、それとも自分への言葉か。
込み上げてくるのは、泥のような自己嫌悪。
章男の世界には、こんな濁った感情は存在しない。

彼はいつだって、陽だまりのような温かさで私を包んでくれる。今この瞬間も、彼は私の「嘘」を信じて、帰りを待っている。

​それなのに。
​胸の奥で、消えかかっていた熱が、堰を切ったように疼き出す。

軽蔑すべき男。誰も守れず、すべてを壊した身勝手な男。

そう分かっているのに、真実を知った今、私の心は暴力的なまでの引力で、あの地下の喫茶店へと引き戻されそうになっていた。
​たとえあの時、泥沼に沈むことになっても。
たとえ世界中を敵に回して、地獄に落ちることになったとしても。

私は、彼のその「嘘つきな手」を離したくなかった。
​肺を焼くのは、怒りではない。
もう二度と手に入らないはずだった「彼に愛されていた」という証明が、凍りついていた私の未練を、残酷に溶かしていく。

​圭佑は、後悔している。誰も守れなかった自分の弱さに打ちのめされながら、今、私の背中を追おうとしている。

そして私は、そんな彼の弱さを、何よりも愛おしいと感じてしまっている。

帰宅を急ぐ人々が吐き出される駅前、夜風が、耳の奥で鳴り止まない圭佑の声をさらっていく。
喫茶店のドアを飛び出した時の、あの重苦しいベルの音がまだ背中に張り付いているようだった。走るように歩く私の視界で、街灯の光が歪んでは後ろへと流れていく。

​「日常」に戻らなければならない。
章男が待つ、穏やかで、何の波風も立たないあの場所へ。
圭佑の言葉に揺さぶられ、奈落の底を覗き込んでしまった心臓は、いまだに肋骨を突き破らんばかりの不規則なビートを刻んでいる。破滅へと続く階段を逆戻りし、あのまま彼の「声」に身を投じていたら、今頃どうなっていただろうか。

​マンションの入り口が見えてくると、私は無理やり呼吸を整えた。
エレベーターを降り、自分の部屋の前に立つ。
バッグの底で指先が鍵に触れた。その金属の冷たさが、夜風に冷えた肌に突き刺さる。
​(……大丈夫、いつも通りに)
​自分に言い聞かせ、鍵を回した。

カチリ、という乾いた音。それはあまりにも淡々とした「現実」の響きだった。
​ドアを開けた瞬間、玄関の暖かな空気が私を包み込む。

強張っていた肌がわずかに弛緩し、張り詰めていた糸がふっと緩むのがわかった。

​「おかえり」
​リビングから、章男の穏やかな声が聞こえてくる。
テレビの微かな音、夕食の残り香、そして変わらない彼の存在。そこにあるのは、圭佑との間に流れたあのヒリつくような緊張感とは無縁の、安全で退屈なほどに優しい世界。

​「……ただいま」
​震える声を、私はいつものトーンで塗りつぶした。
靴を脱ぎ、家の中へ一歩踏み出す。フローリングの感触が、宙に浮いていた私の足を地上へと引き戻していく。

​まだ、指先は少し震えている。
けれど、章男が灯したリビングの光の中に身を浸しているうちに、あの「声」は遠い幻聴のように薄れていった。

​私はまた、いつもの私を演じ始める。
心臓の不規則な鼓動を、誰にも悟られないように胸の奥深くへと押し込めて。


​『すぐご飯温めるね。座って待ってて』
​彼はそう伝えると、キッチンへと向かった。

レンジが鳴る音。皿が触れ合う小さな音。
やがて、湯気を立てるお皿を運んできた彼は、私の向かいに座って楽しそうに手を動かし始める。


彼は今日あった些細な出来事を、身振り手振りを交えて一生懸命に伝えてくれる。

テレビの音を背景に、私たちは視線を交わし、手話で言葉を紡ぎ合う。

あの暗い階段の先にある「声」なんて、ここには届かない。
​温かい料理の熱と、章男の穏やかな微笑み。
私たちはいつもと変わらない、静かで優しい「日常」の中にいた。