あなたが愛しすぎて…


章男に導かれるようにして、私は冷え切った足を引きずりながら寝室へと戻った。

​暗い部屋の中、シーツの擦れる微かな音だけが響く。章男は先にベッドに入ると、隣のスペースを空けて私を待っていた。私が横たわると、彼は吸い寄せられるように私の肩を引き寄せ、布団の上から大きな手で、ゆっくり、ゆっくりとリズムを刻み始めた。

​それは、まるで壊れやすい宝物をなだめるような、慈しみに満ちた手つきだった。

​(……章男、ごめんなさい)

​心の中で何度も繰り返す謝罪。

彼の指先から伝わってくるのは、混じりけのない純粋な信頼と、私を守ろうとする確かな意思だけだ。その温もりに包まれていると、冷え切っていた体温が少しずつ戻ってくる。本来なら、世界で一番安心できるはずの場所。

​けれど、目を閉じれば、暗闇の中にあの掠れた声が浮かび上がってくる。

​『……会いたい』

​章男の規則正しい鼓動の音を遮るように、圭佑の声が耳の奥で何度もリフレインする。

章男が私の背中を優しく叩くリズムと、圭佑の言葉が刻む不穏な拍動。二つのリズムが私の中で激しく衝突し、火花を散らす。

​章男は、私が眠りについたと思ったのか、最後に一度だけ、私の額にそっと唇を寄せた。その柔らかな感触に、心臓が潰されそうなほどの痛みが走る。

​やがて、章男の呼吸が深く、静かなものに変わった。

彼が深い眠りに落ちたことを確認しても、私の意識は冴え渡る一方だった。

​隣で眠る夫の温もりを感じながら、私はシーツの下で、自分の指先を強く噛みしめた。

私の心の一部は、リビングの片隅にそして電話の向こう側の湿った熱の中に、取り残されたままだった。

​一睡もできないまま、窓の外が白み始めるのを、私はただ、章男の腕の中でじっと待っていた。


​心の中で叫ぶ。怒ってほしかった。問い詰めてほしかった。
​そうすれば、私は章男を「ひどい人」に仕立て上げて、自分の罪悪感から逃げられたのに。

もし彼が怒鳴ったり責めたりする「ひどい人」であれば、「こんな夫だから私は外に癒やしを求めたんだ」という言い訳ができたはずだ。

けれど、章男はどこまでも静かで、誠実なままだった。

電話越しに聞いた圭佑の声が、まだ耳の奥にこびりついている。

吐息に混じった熱い言葉、理性を溶かすような低い響き。その鮮烈な残響に比べれば、目の前にある章男との生活は、あまりに穏やかで凪いでいた。

​波風ひとつ立たない、静かで満ち足りた毎日。それは何物にも代えがたい幸福なはずなのに、どこか現実味のない淡い色彩に包まれているように感じてしまった。

朝、向かい合って座る食卓。
食器の触れ合う音だけが響く、穏やかで非の打ち所のない時間。かつてはそれを安らぎと呼んだはずなのに、圭佑の「声」を知ってしまった今の私には、その完成された静寂がひどく寒々しく感じられた。

​「行ってきます」という私の声に、彼は柔らかな微笑みだけを返してくれた。

​家を出て、喧騒に満ちたオフィスへと向かう。デスクに座り、淡々と仕事をこなしている間も、私の心の一部はあのリビングに、そして電話の向こう側の湿った熱の中に、取り残されたままだった。

​周囲の同僚たちには、私はいつも通り「仕事も家庭も順調な、幸せな妻」に見えているのだろう。その視線を感じるたびに、心の中の空白が、冷え冷えとした輪郭を持って広がっていく。

​夕方、溜まった書類を片付けながら、私は章男にメッセージを送る。
『今日は残業になりそう。先に食べてて』
すぐに返信が届く。

​章男に送った短いメッセージ。すぐについた既読のマークが、彼の誠実さを物語っている。
『了解。無理しないでね。気をつけて帰っておいで』
​画面に躍る優しい言葉が、鋭いナイフのように胸を刺す。

​仕事を終えれば、またあの静かな家で章男が待っている。私が今、狂おしいほどに求めているのは、章男の優しい掌ではなく、自分勝手で、弱くて、嘘までついて私を守るために遠ざけようとした、あの圭佑の体温なのだ。

夜の街灯が、アスファルトの上に長く伸びた影を揺らしている。
一歩進むごとに、身体が鉛のように重くなる。まるで、正しい場所へ戻ることを本能が拒んでいるかのように。

​マンションのエントランスを抜け、エレベーターの無機質な機械音を聞きながら、答えの出ない仮定を繰り返す。

もし、今も隣に彼がいたら。
もし、あの嘘を見逃して、強引にでも彼の手を離さなかったら。

​今頃、私たちはどんなとりとめもない会話をして、どんな風に笑い合っていただろうか。

​自室の重いドアを開けると、冷えた空気が頬を撫でた。
明かりのついていない暗がりに足を踏み入れる。そこにあるのは、安全で、平穏で、そして残酷なほどに圭佑のいない「今の生活」だった。

「ただいま」

​リビングの照明の影が動き、章男がこちらを向いた。私が視界に入ると、彼はぱっと表情を明るくして歩み寄ってくる。彼は手話で『おかえり。お疲れ様』と綴り、私の頬に手を添えようとした。私はその温もりを受け止めながら、胸の奥がひどく軋むのを感じていた。

​『夕飯は? 外で食べてきた?』

​彼は私の顔を覗き込むと、胸の前で手を合わせる仕草をしてから首を傾げた。音のない世界からの、真っ直ぐな問いかけ。私は彼の視線を正面から受け止められず、靴を脱ぎながら短く答えた。

​「……ううん、まだ。でも、食欲がないから、軽く食べる」

​声に出してから、彼には聞こえないことを思い出し、首を横に振って『少しだけ食べる』と手話で付け加えた。章男は少し心配そうに眉を下げたが、すぐにまた柔らかく微笑んだ。

​『それなら、一緒に食べよう。』

​断りきれず、私は彼と向かい合わせに食卓についた。箸を動かし始めた章男が、ふと思いついたように指を動かす。

​『そういえば、基樹と未知ちゃんから連絡があったよ。今度の土曜日遊びに来たいって言ってるんだ。夕方の予定なんだけど、いいかな? 絵里に聞いてから返事することにしてるから、大丈夫だったら連絡しておいてくれる?』

​章男が嬉しそうに続けるその問いに、私は喉の奥が震えるのを感じた。私を尊重し、私の都合を一番に考えてくれる彼の誠実さが、今は鋭い刃のように胸に刺さる。

​「……ええ、いいわよ。私から、大丈夫だって連絡しておくわ」

​私は精一杯の微笑みを作って頷いた。けれど耳の奥には、まだ圭佑の、あの湿り気を帯びた「声」の残響がこびりついている。

​食後、章男はお風呂を沸かしてくると合図して脱衣所へ向かった。

彼がリビングを離れ、浴室から水音が微かに響き始めたのを見計らって、私はスマートフォンを手に取った。

そこには、圭佑からのメッセージが届いていた。

​『昨日は突然電話してごめん。絵里、時間を作ってくれないか。話したいことがある。会いたい』

​「……私には話なんて無い」

​唇を噛み締めながら、私はその文字をなぞった。かつてあれほど欲しがった言葉が、今は私を壊すための毒薬のように思える。

​ベランダの窓に目を向けると、闇の中に自分の顔が映り込んでいた。
​音のない愛に包まれているはずの日常が、たった数分の、熱を帯びた「声」の残響によって、音を立てて崩れ始めていた。

どうして私は今さら、彼の言葉の続きを、彼の体温を求めてしまうのだろう。
心の奥底に沈めたはずの問いが、夜の静寂に溶け出して、ただただ胸を締め付けて離さない。


土曜日に友人夫婦を迎える「幸せな妻」を演じながら、心の中では元カレの「声」という麻薬を反芻している。

​その夜、章男が寝息を立て始めたのを確認してから、私は暗闇の中でスマートフォンの電源を入れた。暗い部屋に、眩しすぎる液晶の光が広がる。

​『会いたい』

​その文字を目にした瞬間、胸の奥で冷たくて固い塊が、音を立てて砕けた。

私は震える指で、自分自身に言い聞かせるように返信を打ち込んだ。

​『話したいことって何ですか?』
​その送信ボタンを押してから数秒もしないうちに、画面が再び光を放った。

​「どうしても、直接伝えたいことがあるんだ。」

「何を?私には話はありません。今は幸せに暮らしています。会いたいとかおかしなこと言わないでください」

画面に並んだ文字は、どこまでも正しく、残酷なほどに「潔白な妻」を演じている。送信ボタンを押した瞬間、一時は心が凪いだように思えた。私を地獄に突き落とした彼に、あなたのいない世界で幸せになったのだと、その事実を突きつけてやりたかった。

​……それは、章男を傷つけないための、自分への精一杯の防衛線だった。

​けれど、スマートフォンの光を消した途端、闇の中で行き場を失った本音が疼き出す。文字の上ではあんなに冷たく突き放したのに、心の中では、送ったばかりの「幸せに暮らしています」という言葉が、虚しい嘘のように響いていた。

章男との平穏な日々に溶け込みながら、私は自分自身を騙し続けていた。
圭佑との記憶は、とうに風化し、手入れのされない「過去の遺物」として私の心に埋葬されたのだと。

彼はもう私を忘れ、別の誰かの現在を生きている。そう信じ込むことで、私は今の生活を守ってきた。
​それなのに、彼から届いた「会いたい」という言葉。

​彼の中で私がまだ生きていたという事実は、凍りついていた私の世界を容赦なく熱く溶かしていく。
湧き上がる喜びを抑えられない自分に、激しい嫌悪が込み上げた。

喜んじゃいけない。章男の隣で、そんな無邪気な安堵を抱く権利なんて、私にはどこにもないはずなのに。

​切らなければならない。今すぐこの繋がりを、私の手で断ち切らなければ。
そう思うほどに、胸の奥では、彼という輪郭を失うことへの根源的な恐怖が首を絞めてくる。

​私を忘れていなかった彼と、彼を求めてしまう醜い自分。
「過去」だったはずのものが、醜悪で切実な「今」へと形を変えていく。
糸を断てないまま震えている私の指先は、章男への裏切りよりも深く、私自身の純粋さを汚していくようだった。

​私はその熱をかき消したくて、寝室へ向かった。
​暗闇の中、横たわる章男の背中にしがみつく。私の切迫した気配に、彼がゆっくりと体を巡らせた。

​「……絵里?」
「起こしてごめん…したいの……」
​掠れた声で、逃げ場を求めるように章男に縋った。

「……どうしたの?」
今の私の異様な熱量に戸惑ったのか、章男が小さく不安を口にする。

「いっぱい、キスして……」
​必死に願う私を、章男は包み込むような優しさで受け入れた。

章男の唇が、私の唇を、頬を、そして首筋を、丁寧になぞっていく。そのキスはどこまでも慈しみに満ちていて、私の焦りや、心の奥の濁りさえも包み込もうとする柔らかなものだった。


彼との距離を零にすれば、皮膚の境界線さえも曖昧になるほど密着すれば、この脳内にこびりついた「あの一言」を押し出せるのではないかと期待して。

章男は私の切実な呼吸を感じ取ったのか、ふと動きを止めた。
暗闇の中、至近距離で彼と目が合う。
「入ってもいい……?」
言葉にはせず、瞳の揺らぎだけでそう問いかけてくる章男の真っ直ぐな誠実さが、今の私にはあまりにも眩しく、そして痛かった。

​私は逃げるように目をそらし、彼を強く引き寄せることで、無言のままその問いに応えた。
​温かい手が私の腰を支え、ゆっくりと、確かめるように重なってくる。

冷たかった感覚が、彼の内側の熱に溶かされていく。
繋がった瞬間の、身体が満たされる感覚。
「ああ、これでいい。私は今、ここにいる」
そう自分に言い聞かせ、逃げ場を失くすように強く目を閉じた。

​けれど、その暗闇の向こう側で、待っていたかのように彼が笑った。
​章男の優しく規則正しいリズムが、記憶の中にある圭佑の、強引で、すべてを奪い去るような激しい揺さぶりと重なっていく。

目の前の男に抱かれているこの場所で、私の肌は、私の粘膜は、かつてのあの人が刻みつけた疼きを鮮明に思い出していた。

​「あ……」
​口から漏れた吐息は、章男への悦びではなく、遠い日の彼への追憶。
腕の中で愛されているはずなのに、私は、もう遺物であったはずの男と、再び深く繋がってしまっていた。

​章男の優しい愛撫の奥に、どうしても圭佑の感触を探してしまう。章男の吐息の中に、圭佑の声を聴こうとしてしまう。
「消えて」と願えば願うほど、重なり合った肉体を通じて、彼との記憶が鮮やかに、生々しく蘇っていく。

​章男を抱きしめているはずなのに、私は彼を使って、圭佑の残像を愛撫していた。
繋がった瞬間に込み上げたのは、充足感ではなく、救いようのない絶望。

​私は今、章男の腕の中で、世界で一番ひどい裏切りを犯している。
そして何より恐ろしいのは、そうして圭佑を思い出している自分を、心のどこかで「死んでいない」と、どこまでも肯定してしまっていることだった。

翌朝、遮光カーテンの隙間から差し込む白い光が、寝室の静寂をゆっくりと溶かしていった。

​先に目を覚ましたのは、章男だった。彼は隣で眠る絵里を起こさないよう、慎重に、羽毛布団が擦れる音さえ立てないような細心の注意を払って身を起こす。

​彼は毎朝、起き上がるとまず隣に横たわる絵里の寝顔をじっと見つめるのが習慣だった。睫毛の震え、規則正しい呼吸の上下。音のない彼の世界において、その視覚的な「生」の証こそが、一日の始まりを告げる何よりの儀式だった。

​けれど、今朝の彼は、わずかに眉を寄せた。

絵里の眉間に刻まれた微かな皺。シーツを握りしめたままの指先。眠っているはずの彼女から漂う、どこか張り詰めた空気。彼はそっと手を伸ばしかけ、触れる寸前で止めた。起こしてはいけない。彼はただ、祈るように彼女の穏やかな目覚めを待った。

​やがて、絵里が重い瞼を持ち上げる。

視界が合った瞬間、章男は花が綻ぶような、一点の曇りもない柔らかな微笑みを浮かべた。

​『おはよう。よく眠れた?』

​胸の前でゆっくりと描かれる手話。その動きは、まるで朝の光を編み込んでいるかのように清らかだ。

​「……おはよう、章男」

​絵里は掠れた声で答え、無理に口角を上げた。

​キッチンに立つ章男の背中は、朝日を浴びて温かな輪郭を帯びている。

彼は手際よく豆を挽き、お湯を注ぐ。立ち上がるコーヒーの香りと、トースターから漂う香ばしい匂い。それは、絵里が「終着駅」だと信じた、完璧な朝の風景だった。

​章男は、焼き上がったトーストを皿に並べながら、ふと振り返って手話を添えた。

​『今日は少し風が強いみたいだね。ベランダの鉢植え、中に入れておこうか』

​彼は、昨夜彼女が暗闇に紛れて、どれほどの渇望を指先に込めていたのかなど、欠片も疑っていない。

ただ、彼女の平穏が守られること、大切にしているものが壊れないことだけを、当たり前のように気遣っている。

​そのあまりに透明な優しさが、今の絵里には直視できないほど眩しく、そして残酷だった。

​「ありがとう……。お願いしてもいい?」

​絵里は手話でそう返し、彼が淹れてくれたコーヒーに口をつけた。

苦い液体の向こう側で、昨夜耳にした圭佑の「……会いたい」という掠れた声が、再び呪文のように脳内で再生され始める。

​章男の立てる、食器が触れ合う穏やかな音。

そして、耳の奥にこびりついて離れない、圭佑の湿った残響。

​二つの世界の境界線で、絵里はただ、冷めていくコーヒーの表面を見つめることしかできなかった。朝食のテーブルを囲む二人の間には、昨日までと変わらない「静寂」が流れているはずなのに、絵里の中ではもう、何かが決定的に決壊しようとしていた。