結婚して半年。
朝の柔らかな光に包まれた寝室で、隣に眠る章男の規則正しい鼓動を感じる。その穏やかな寝顔は、深い海の底で微睡んでいるかのようだった。
私はそっと彼の手を握った。大きくて、温かな手。約三年前、絶望の底にいた私を掬い上げてくれたのは、この手だった。
かつての恋人・圭佑が紡いだ「愛してる」「君だけだ」という甘い言葉は、すべて嘘という名の礫となって私に降り注いだ。果たされない離婚の約束。彼の「声」に依存していた私は、それが途絶えた瞬間、生きる術を失った。
そんな私を救ったのは、一言も発さない章男だった。彼の紡ぐ手話は、言葉よりもずっと雄弁に誠実さを物語っていた。音のない世界には、嘘が紛れ込む隙間などなかったのだ。
「……おはよう」
声に出してみる。章男は気づかない。頬を指先でなぞると、彼はゆっくりと目を開け、はにかんだように口角を上げた。
『おはよう、絵里。』
胸の前で描かれる手話は、一つの完成された芸術のように美しかった。この静寂こそが私の求めていた終着駅。もう二度と、誰の声に惑わされることもない。そう信じて疑わなかった。
けれど、運命の針は静かに逆回転を始める。
その日の午後、買い物を終えて自宅のソファでようやく息をついていた時のことだ。何気なく手に取ったスマートフォンに、元同僚から一通のメールが届いた。
一通のメールに記された「今井」という二文字を見た瞬間、私の鼓膜の奥で、死んだはずの「あの声」が鮮明な熱を持って蘇ってしまった。
『久しぶり。元気かな。伝えるか迷ったんだけど、今井さんのこと。先月、正式に離婚したって聞いたよ』
そのメールの文面が、かつて張り詰めていた私の感情を容赦なく逆なでしていく。数年前なら心臓が止まるほど歓喜したであろうその一文字が、今はただ、ひび割れたアスファルトに染み込む雨水のように冷たく、ひどく無機質に感じられた。
余韻に浸る間もなく、画面の下に追記された無遠慮な一文が目に飛び込んでくる。
「今井さんが仕事の事で相談したいからって絵里の連絡先聞いてきたけれど、勝手には教えられないから連絡先送るね。」
「仕事…?」
「……今さら」
乾いた呟きが、静かな部屋に落ちた。
仕事の相談。よくある言い訳だ。あるいは、彼なりの不器用で、身勝手な「再会」への布石(ふせき)なのかもしれない。
あんなに憎んで、あんなに愛して、ようやく記憶の底に沈めたはずの男が、他人の指先ひとつで再び私の日常に引きずり出される。
私はスマホを裏返し、机に置いた。
震える指先は、まだ「今井」という名字を、そして「自由になった彼」をどう受け止めるべきか、正解を見つけられずにいた。
網膜に焼き付いたその文字が、脳内で何度もリフレインする。
――離婚した。
あの時、私が喉から手が出るほど欲しかったその言葉は、数年の時を経て、何の価値も持たない抜け殻のような響きで私の元へ転がってきた。
今さら? どうして今なの?
忘れていたはずだった。捨て去ったはずの過去だった。それなのに、一度「離婚」という言葉を意識した瞬間、心の奥底で眠っていた熱が、毒のように全身を駆け巡る。
夕食のテーブルを挟んで向かい合う章男は、何も気づいていない。
「今日も美味しい!」
彼は穏やかに微笑み、慣れた手つきで手話を紡ぐ。
しなやかに動く指先が、照明を反射して視界の端で揺れた。
私は「そう、良かった」と、口の形と手で短く応じる。自分の手がつくる動きが、どこか他人のもののように無機質に感じられた。
テレビの字幕が淡々と流れ、部屋には食器が触れ合う音だけが響く。
この静寂こそが私たちの日常だったはずなのに、今は剥き出しの神経を逆撫でするノイズに聞こえた。
「……章男」
呼びかけると、彼は箸を置き、まっすぐに私を見た。
その濁りのない、信頼に満ちた瞳。見つめられると、喉元までせり上がっていた「毒」が、行き場を失って胃の奥へと沈んでいく。
「ううん、なんでもない。……おかわり、いる?」
私は席を立ち、台所へ逃げた。
背中で、彼が茶碗を置くわずかな振動が伝わってくる。その些細な気配さえ、今の私には鋭利なナイフのように突き刺さった。
カーテンの隙間から差し込む街灯が、フローリングに細長い影を落としている。隣の寝室からは、章男の規則正しい寝息が聞こえてくる。その穏やかな音を聞くたび、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚に陥った。
「……っ、」
指先が震える。スマートフォンの画面、同僚から届いた事務的な連絡の末尾。そこに、場違いなほど唐突に記された数字の羅列があった。
かつて、すべてを投げ出してでも一緒にいたいと願った人。
削除したのに、記憶に刻まれていた、あの人の電話番号。
冷徹なデジタルの光が、見たくなかったはずの過去を鮮烈に引き摺り出す。
胸の奥が、ひりつくように熱い。
あんなに苦しんで、ようやく日常を取り戻したつもりだったのに。たった十数桁の数字が、積み上げてきた平穏をいとも容易く切り裂いていく。
「いまさら、なんで……」
声にならない呟きが、静かな部屋に溶けて消えた。画面を消せばいい。返信だけして、すぐに忘れればいい。頭では分かっているのに、視線は吸い寄せられた数字から離れることができず、ただ呼吸だけが浅くなっていく。
あまりに激しすぎて、自分を壊さないために心の最下層に封印したはずの熱が、今、猛烈な勢いで逆流していた。
渦巻く葛藤
画面をなぞる指が止まらない。脳内には、整理のつかない感情が濁流となって押し寄せる。
「お子さんいるのに離婚したの?」
「圭佑、何があったの。……今、大丈夫なの?」
今の生活は、間違いなく幸せだ。章男は優しく、この平穏こそが自分が手に入れたかった「正解」のはずだった。
それなのに、圭佑の不幸(あるいは転機)を知った瞬間、自分の中の理性が音を立てて崩れていく。
罪悪感という燃料。ふいに、章男の笑顔が脳裏をよぎる。その優しさを裏切ろうとしている自分への激しい自己嫌悪。けれど、その罪悪感が深まれば深まるほど、反比例するように圭佑への衝動が強まっていく。
(……声が、聞きたい、何があったのか聞きたいと)
ただ、仕事の話を確認するだけ。そう自分に何度も言い聞かせた。
たった一言、「仕事の依頼って何?」と送るだけ…
一度自覚してしまった執着は、毒のように全身の血を巡り、指先を動かしていく。
真っ暗なリビングで、メッセージの入力欄が明滅している。
幸せな日常のすぐ隣で、捨て去ったはずの過去が口を開けて、絵里を呼び戻そうとしていた。
一度だけでいい。確認するだけ。
そう自分に言い訳をしながら、震える指で圭佑にメールした。背後で私を信じ切っている章男への裏切りが、鋭い刃となって胸を刺す。
返信を待つ数秒が永遠のように感じられた。だが、戻ってきたのは文字ではなく、掌の中で激しく震え出したスマートフォンの振動だった。
画面に表示されたのは、名前のない無機質な数字の羅列。アドレス帳からはとうに削除していたけれど、今送ったばかりの、間違いなく彼からの着信。
心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。出るべきではない。そう理性が叫ぶのに、指は吸い寄せられるように画面を滑っていた。
「……もしもし」
受話器から聞こえてくる、懐かしくも残酷なほど鮮明な、あの声。
「絵里?……」
「……」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。他にも何かを囁かれた気がしたが、音として耳を通り過ぎていくだけで、何も入ってこない。ただ「会いたい」という言葉の残響だけが、今の幸せを壊しかねない凶器となって私を貫く。
こみ上げるのは、甘い感傷などではない。自分の浅ましさと、恐怖。逃げ場のない罪悪感に喉を焼かれながら、私は何も答えられず、ただ無言のまま、逃げるように通話を切った。
通話を切った後、止まっていた時間が濁流のように溢れ出した。消したはずの記憶の断片が、鋭い棘となって胸に刺さる。私はうずくまり、裸足の指先を抱え込んだ。
隣の寝室では、音のない世界で章男が眠っているはずだった。
不意に、視線を感じて恐る恐る振り返るとリビングの入り口から、章男がこちらを見つめていた。
彼はただ、暗闇の中で立ち尽くしていた。
私の「声」は彼には聞こえない。けれど、隙間から差し込む街灯の灯りに照らされた私の顔が激しく歪み、彼以外の誰かに心を奪われていることだけは、残酷なほど正確に伝わってしまったようだった。
電気も点けず、青白い闇の中で彫像のように静止している彼に、私は乾いた喉で「……起きてたの?」と、呟いた。
喉の奥でつかえていた言葉をようやく絞り出したが、それは音にもならない掠れた呟きに過ぎなかった。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、視界が急激に滲んでいく。恐怖や緊張で固まっていた強張りが、彼の静かな佇まいに触れて、音を立てて崩れていった。堰を切ったように溢れ出した涙は、もう止めたくても止まらない。
章男は何も答えず、ゆっくりと歩み寄り、私の前で止まった。
怒るわけでも、スマホを指差すわけでもない。ただ、そっと手を伸ばし、私の頬に残った涙の痕を、親指の腹でなぞった。その指先が「どうしたの?」と、無言で問いかけてくる。
章男の瞳は、言葉というフィルターを通さない分、あまりにも真っ直ぐに私の核心を射抜く。彼は私の声を聞いたのではない。私の顔が、自分以外の誰かのために熱を帯びたという「事実」を、静かな証拠として受け止めていた。
彼は一つ、小さく息をつくと、ゆっくりと空中で指を動かした。
『眠れないの?』
『冷えるから、おいで』
私を責める言葉を持たない彼なりの、精一杯の配慮。
「君を泣かせているのは誰だ」とも、「深夜に誰と話していたんだ」とも聞かない。ただ、目の前で崩れそうになっている私を、今の生活の中に繋ぎ止めようとする、切ないほどに必死な優しさ。
私はたまらなくなって、スマートフォンの画面を伏せ、彼の胸に顔を埋めた。
「……ごめんなさい、章男。起こしちゃったね」
声にならない謝罪を飲み込みながら、彼のパジャマの胸元を強く掴む。章男は何も言わず、ただ大きな手で私の背中をゆっくりとなぞった。
章男の心臓の鼓動は、ゆっくりと、規則正しく刻まれている。
私の頬に触れた彼の指先は、私の心とは対照的に温かかった。涙に気づいても、彼は何も聞かない。ただ、冷え切った私の体を温めるように、より強く、静かに抱きしめてくれるだけだった。
そのあまりに無垢な信頼が、どんな罵倒よりも深く、私の胸を抉っていった。


