まどろみの中で、章男は自分を包む柔らかな重みと、腕の中に伝わる確かな鼓動のリズムで目を覚ました。
耳で聞く「音」ではない。自分の胸板にぴったりとくっついた絵里の体から、トクン、トクンと規則正しく刻まれる振動が、章男の肌を通じて直接心臓まで響いてくる。それが何よりも、「彼女がここにいる」という一番の証拠だった。
視界に入ってきたのは、自分の腕の中で安らかな寝息を立てている絵里の横顔。少し乱れた髪の間から見える耳たぶが、昨夜の名残を惜しむようにほんのりと赤らんでいる。
章男は起こさないように、でもその愛おしさに耐えかねて、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
その微かな動きに、絵里の睫毛が震える。ゆっくりと開いた瞳が章男を捉えると、彼女は少し照れたように瞬きをして、それからシーツに顔を埋めるようにして小さく笑った。
「……おはよう、章男君」
絵里の声に合わせて、彼女の胸元が微かに震える。章男はその振動を指先で愛おしそうに受け止めた。
(お・は・よ・う)
音のない、唇だけの言葉。
その動きを追いかけていた絵里の瞳が、ふわりと細められる。
「……夢じゃなかったんだね」
絵里が章男の首筋に腕を回すと、章男はその体温を確かめるように、彼女の額にそっと自分の額を重ねた。
(だ・い・す・き)
何度も繰り返される、口の形。
絵里はその唇の動きを指先でなぞるように触れると、章男にキスのおねだりをした。
昨夜までの切実な熱とは違う、甘く、溶けてしまいそうなほど優しい、朝のキス。
「……私も、大好き。……ねえ、これからは章男って呼んでもいい?」
絵里の少し照れたような、けれど甘い提案に、章男は幸せを噛みしめるように深く頷いた。
「うん。照れるけれど」
章男が穏やかに微笑むと、彼女はさらに距離を詰め、上目遣いで彼を見つめる。
「私のことも、絵里って呼んで?」
その言葉は、まるで魔法のように二人の間の境界線を溶かしていった。
章男は、声に出す代わりに唇をゆっくりと動かした。
空気を震わせることはなくても、その動きは確かに「えり」と形作られる。
一度、そしてもう一度。
声にならないその呼びかけは、吐息とともに彼女の耳元をかすめ、真っ直ぐに心へと届いていく。抱きしめる腕の力を強めると、腕の中の鼓動がさらに早まった。言葉を超えた響きが、二人の世界をより深く、濃密に塗り替えていった。
幸せな余韻を抱えたまま、二人はキッチンに立った。
えりがコンロの前に立つと、章男がその隣にそっと歩み寄る。
「絵里、僕は何手伝う?」
「じゃあ……パン焼いて」
「わかった」
狭いキッチンで肩が触れ合うたび、どちらからともなく笑みがこぼれる。出来上がったのは、ごくありふれた、けれど最高に贅沢な朝食だ。
「いただきます」
向かい合って食べる朝の時間は、昨夜までの切実な熱を優しく溶かし、確かな日常へと変えていった。


