あなたが愛しすぎて…


雨上がりの午後の空気が、しっとりと肌を包み込む。
​絵里は、あの日借りたままになっていた紺色の傘を大切に抱え、章男の家の前に立っていた。高鳴る鼓動を落ち着かせようと一つ深呼吸をしてから、インターホンのボタンに指先を添える。


しばらくして、重厚な扉が静かに開いた。そこに章男が姿を現すと、絵里の胸はさらに激しく跳ねる。


​「これ……ありがとうございました!」
​差し出された傘を見て、章男は少しだけ目を細め、驚いたように、けれどどこか嬉しそうに小さく頷いた。

彼は傘を片腕に抱え、空いた手で流れるように「ありがとう」と手話をした。その指先が描く柔らかな軌跡に、春の陽だまりのような微笑みが添えられる。

​視線が重なったのは、ほんの一瞬のこと。彼は満足げに一度だけ小さく頷くと、そのまま静かな足取りで家の奥へと歩みを進めた。

​「待って……!」
​去りゆく背中に、絵里の声が重なる。思わず伸ばした指先が、彼のシャツの袖口に微かに触れた。
​章男が驚いたように足を止め、ゆっくりと振り返る。

​引き止めてしまった自分に戸惑いながらも、絵里は彼を見つめ返した。静まり返った玄関先で、雨上がりの匂いと高鳴る鼓動だけが、二人の時間を繋ぎ止めていた。


​「この前のお礼、させてください」と絵里は持ってきたメモ帳に書いた文字を章男に見せた。
絵里の見せたメモを視界に入れた瞬間、章男は一瞬だけ視線を彷徨わせ、それからなだめるように静かに首を振った。

章男は絵里からメモ帳を借りると、流れるような、しかし迷いのない筆致でこう記した。
​『 お礼をされるようなことは何もしていない、それより、絵里さんが風邪をひかなくて本当に良かった』

​書き終えると、彼はそっとペンを置き、困ったような微笑を浮かべてメモを返した。その文字は整っていて美しいが、どこか他所他所しく、絵里の手元に戻ってきたメモ帳は、先ほどよりも重く感じられた。


静かだが頑なな拒絶。彼はそうやって、自分と絵里の間に透明な境界線を引いていた。
​絵里は食い下がるように、空いたスペースへ思いを書き込む。
​「4人なら? 基樹君と未知と章男さんと私の4人なら、ご飯一緒に行けますか?」
​メモを覗き込んだ章男は、眉間に微かな陰を落とし、ためらいを飲み込むように静かにペンを走らせた。

​「ほんとに気にしないで」
​差し出されたメモの文字には、これまでの冷ややかな拒絶とは違う、どこか不器用な優しさが滲んでいるようだった。


​「気にします。あの時、私……本当はすごく落ち込んでいました。
でも、章男さんと、お母さんのおかげで、また元気になりました。
だから、どうしてもお礼がしたいです。
迷惑ですか?」

絵里は震える指先で、メモの余白を埋めていった。一文字書くたびに、胸の鼓動が耳の奥まで響く

​書き終えると、弾かれたようにメモを章男の前に差し出した。
章男はそれを受け取ると、静かに視線を落とす。
​沈黙が流れた。
窓の外を通る車の音さえ、今はひどく遠くに聞こえる。
彼は「お母さん」という文字のところで一度視線を止め、それから「迷惑ですか?」という一文を、穴が空くほど見つめていた。

​やがて、彼は小さく溜息をついた。けれど、それはいつもの拒絶の溜息ではない。
自分の心の頑なさが、この真っ直ぐな言葉の前に、どうしようもなく敗北を認めたような音だった。
​章男は視線を上げないまま、静かにペンを動かした。
​「……迷惑なんて、思ってない」
​不器用な、走り書きのような文字。


「4人でなら」
​メモを返そうとする彼の手が、わずかに震えていた。
絵里は、彼が自分と同じように、必死に勇気を振り絞ってくれたことを悟り、鼻の奥がツンと熱くなった。

「ありがとうございます」
声に出して伝えながら、絵里は約束のしるしに小指を差し出した。
章男は一瞬だけ戸惑うように瞬きをしたが、やがて観念したように柔らかな表情を見せると、その指にそっと自らの小指を絡めた。

ー数日後ー
賑やかな居酒屋の喧騒の中で、絵里は目の前の光景がまだ信じられないでいた。
​暖簾をくぐるまで「本当に来てくれるだろうか」と不安だったけれど、章男は約束通り、基樹と未知の後ろから静かに姿を現したのだ。

運ばれてくる大皿料理を囲み、基樹の軽快な冗談に未知が笑い、絵里もいつの間にか緊張を忘れて声を弾ませていた。

ふと、基樹の手が忙しなく動いた。
笑いながらも、彼は流れるような手話で絵里や未知の言葉を章男に伝えている。章男はその手の動きを一つも見逃さないよう、真っ直ぐに見つめていた。

章男は多くを語ることはなかったが、絵里が取り分けた料理を残すことなく、ゆっくりと味わうように口に運んでいた。

章男は彼女が隣に並び、楽しげに唇を動かすのを見るたび、胸の奥がちりりと焼けるような感覚を覚えた。彼女が何を言っているのか、その声がどんな色をしているのか、彼は永遠に知ることができない。

基樹の通訳を介して繋がるこの空間は、あまりに心地よく、そしてあまりに遠い。
章男は、掌の中に残るペンの重みをぎゅっと噛みしめ、自分自身に言い聞かせるように目を伏せた。
​(これ以上、深く関わってはいけない)


自分に言い聞かせる言葉は、呪文のように冷ややかだった。
もし彼女が自分の静寂の中に入ってきたら、いつか彼女は退屈し、苛立ち、自分の不自由さに疲れ果ててしまうだろう。

筆談の手間や、通じ合わないもどかしさに、彼女の明るい笑顔が曇っていくのを見るのが、章男は何よりも恐いと思った。


章男が築いた防壁は、彼女を傷つけないための配慮であり、同時に、自分がこれ以上傷つかないための逃げ場でもあった。


ゆえに、この食事会を最初で最後のものにしようと、彼は心に決めていた。
​しかし、そんな彼の閉ざされた世界に、絵里はふと思い立ったようにペンを走らせた。

「章男さん、好き嫌いはないんですか?」

メモを覗き込んだ章男は、少し考えるように視線を上へ向けたあと、『出されたものは何でも。』と、迷いのない文字を書き添えた。

​境界線が消えたわけではない。けれど、その透明な壁越しに、彼の誠実な体温が伝わってくるような時間だった。
​やがて宴もたけなわとなり、基樹が「そろそろ行くか」と腰を上げた。


「……あ、あの、お会計……」
伝票を手に取ろうとした絵里を、章男が片手で制した。彼はもう、店員とのやり取りを静かに終えていた。
​「えっ?今日はお礼をするはずだったのに…」

​申し訳なさそうに身を縮める絵里に、章男は淀みのない動作でペンを滑らせ、そっとメモを差し出した。
『絵里さんが誘ってくれたから、楽しい時間になった。』

淀みのない筆跡に込められた彼の真意を読み取ろうとする間もなく、横から基樹の快活な声が降ってきた。
​「ほんと楽しかった! 章男を居酒屋に連れ出すなんて、俺でも至難の業なんだからさ。絵里ちゃん、すごいよ」

​基樹は未知と顔を見合わせ、満足そうに頷く。その視線は、ただ楽しかったというだけでなく、絵里がこの場に新しい風を吹き込んでくれたことを喜んでいるようだった。

​「また4人で飯行こうな。俺が探しとくから!」
​未知も深く頷きながら、絵里の肩にそっと手を添えて微笑みかける。

​嵐のように賑やかな二人の去り際が、重たくなりがちな「奢り、奢られ」の空気を、軽やかな再会の約束へと塗り替えていった。


​あの日、透明な境界線の向こう側にいた彼が、傘を差し出してくれたこと。そして今、こうして4人で一緒に食事ができたこと
​すべては、彼が少しずつ、自分から歩み寄ってくれた結果なのだ。
​「章男さん」
絵里が呼びかけると、彼はわずかに肩を揺らしてこちらを見た。

「本当に、ありがとうございました。……次は、絶対に私にご馳走させてくださいね」
​章男は一瞬、いつものように眉を下げて困ったような顔をしたが、やがて小さく、本当に小さく、口角を上げた。

彼は手慣れた動作でメモ帳にペンを走らせ、彼女に差し出す。
​「考えておく」
​その一言が、どんな高級な料理よりも、絵里の心を温かく満たしてくれた。


だが、彼女に向けたその穏やかな微笑みこそが、章男のつく精一杯の嘘だった。
(これで最後にする。もう、二度と会ってはいけない)
心の中でそう強く釘を刺すたびに、皮肉にも彼女を求める疼きが深くなる。

居酒屋の賑わいを後にすると、夜の冷たい空気が心地よく肌をなでた。前を歩く基樹と未知の背中を追いながら、二人の間には薄い膜のような沈黙が流れる。

​〜1ヶ月後〜
​「また4人で会おう」
別れ際、夜の静寂に溶けていったあの言葉を、絵里は何度も頭の中で再生していた。それは疑いようのない約束のはずだった。

​けれど、あの一夜を境に、章男の態度は一変した。
​絵里が勇気を出して送った誘いのメッセージは、未読のまま放置され、数日後にようやく届くのは「ごめん、立て込んでて」という、冷ややかな短文ばかり。

​章男は、絵里に悟られないよう、細心の注意を払いながら彼女を避けていた。
​あからさまに拒絶すれば、彼女は理由を問うだろう。だからこそ、彼は「忙しさ」という透明な壁を少しずつ築き、絵里との間に埋められない距離を作っていく。

​返信を待つ夜、青白く光るスマートフォンの画面を見つめながら、絵里は胸の奥に澱のように溜まっていく違和感を拭えずにいた。

彼が遠ざかろうとしている。その事実を、彼女の直感だけが残酷に告げていた。
その素っ気ない返事の裏で、彼がどれほど必死に心の平穏を保とうとしているのか。絵里には、まだ知る由もなかった。

章男が彼女を遠ざけようとしていたのは、冷淡さからではない。むしろ、あまりにも鋭利で臆病な「優しさ」が、彼に拒絶を選ばせていた。言葉を重ねれば、その指先が彼女に触れてしまいたくなることを恐れているかのように。

しかし、彼女は諦めなかった。
章男がそっけない態度をとっても、彼女は根気強く彼の視界の隅に居続けた。

​そして、あの日。
溢れ出す想いを抑えきれず、絵里は彼が働く工場を仕事終わりに訪ねた。
​この日のために、慣れない手つきで一生懸命に手話を勉強してきた。
ただ章男に会いたかった。


​工場街の夜は早い。機械の唸りが消え、重たい静寂が辺りを包み込む頃、絵里は古びた鉄扉の前に立っていた。

独学で、ただ彼に届けたい一心で身につけたこの「言葉」が、果たして彼に届くのだろうか。

​意を決して玄関のチャイムを鳴らすと、冷たい夜気に高い音が吸い込まれていった。しばらくして、内側から重い閂を外す音が響き、扉がゆっくりと開く。

​作業着のまま現れた章男の顔に、驚きが走る。工場の主を失ったような、がらんとした空間に彼の困惑した声が反響した。


​「ごめんなさい……。でも、少しだけ……どうしても見てほしくて……」
​絵里は震える声を振り絞り、章男の目を真っ直ぐに見つめた。
それから、溢れ出しそうな感情を無理やり形にするように、その両手を動かし始めた。
章男の後ろ、広い工場の奥からは、止まったはずの機械が余熱で発するような、微かな金属の匂いが漂ってくる。

​彼女はずっと、この瞬間のために練習を重ねてきた。拙くて、形もまだ歪な言葉かもしれない。けれど、胸の奥に閉じ込めていた熱い思いを、今この場所で、彼という「光」に向けて放とうとしていた。


「あ・き・お」拙(つたな)いけれど、そこには彼に歩み寄りたいというひたむきな想いが溢れていた。

「あれ? こうだっけ? 合ってる?」
​不安げに首を傾げる彼女の姿に、これまで章男が築き上げてきた「深入りしない」という防壁は、音を立てて崩れ去った。

​(……これ以上、深入りしちゃいけないのに)
​理性ではそう自分を律しようとするものの、目の前の絵里があまりに愛らしく、胸の奥が締め付けられる。章男は込み上げてくる愛おしさを必死に抑え込み、嬉しそうな顔が絵里にわからないように、わざと大げさに驚いて見せた。

​動揺を装いながらも、その眼差しは隠しきれない熱を帯びている。
章男は「仕方ないな」というふうに細く目を細めると、困ったような、それでいてこの上なく幸せそうな微笑みを、そっと絵里に向けた。


​彼は絵里の震える手をそっと取ると、彼女の目の前で、自分の指を重ねて正しい形を導き、名前の綴りを教え直した。

彼にとっては、一生懸命な絵里を放っておけず、ただ間違いを正しただけの、ごく自然な振る舞いだったのかもしれない。
少なくとも、そう見えるように彼は努めていた。けれど、指先から伝わる彼女の微かな震えと、吸い付くような柔らかな肌の感触に、章男の胸の鼓動は密かに跳ねていた。

平静を装う横顔の裏で、彼は自分の指が不自然な力を込めてしまわないよう、必死に理性を保っていたのだ。

​けれど絵里にとっては、重なる指の温度とともに伝わってくるその感触が、何よりも大切で、愛おしかった。

これまで遠くに感じていた彼の世界に、自分もほんの少しだけ触れることができた。そのことが、ただ、たまらなく嬉しかった。


​いつか彼の名前を、淀みなく完璧に指先で紡げるようになりたい。
それは、言葉のない彼が差し出してくれた静かな優しさを、ひとつもこぼさずに受け止めていたいという、絵里の純粋な願いだった。


それは音楽のように洗練されたものではなかったかもしれない。けれど、その震える響きには、章男が恐れていた「憐れみ」など微塵もなく、ただただ「あなたを知りたい」という無謀なまでの情熱だけが宿っていた。

​完璧に理解し合えなくてもいい。声が届かなくても、心は手を伸ばせるのだと。
彼女のひたむきな熱量が、章男が何年もかけて積み上げてきた「諦め」という名の石積みを、内側から激しく揺さぶった。

​自分を守るために閉ざしていた門が、音を立てて崩れていく。
もう、耳が聞こえないことを理由に、彼女から逃げることはできなかった。

​「付き合う」という明確な言葉を交わしたわけではない。けれど、それからの二人の時間は、確実に温度を変えていった。まるで世界が新しく作り直されたようだった。

基樹と未知に誘われて出かけるダブルデートは、いつしか恒例行事になった。
​水族館の底深い青の中に沈んでいるときも、休日の公園で並木道を歩いているときも。
不意に視線を向ければ、彼が隣で私に微笑みかけている。

人混みではぐれそうになれば、さりげなく背中に手を添えて引き寄せ、私が一生懸命に想いを伝えれば、彼はその動きを一つも漏らさぬよう見つめ、ただ深く、優しく頷いてくれる。

そのたびに、私の胸の奥には、以前にはなかった温かな光が広がる。
​あの日、彼は私から目を逸らすのをやめてくれた。
音のない世界にいる彼との間に、今は確かな体温が通い合っているのを感じる。


声が介在しないからこそ、視線や指先の動き、そして隣にいる温度に敏感になる。四人で笑い合い、時に二人で静寂を共有する時間は、二人にとって何にも代えがたい大切なひとときになっていった。

​形のない「歩み寄る」という約束が、重なる思い出と共に二人の間にある頑なな氷を溶かしていった。
音のない世界で繰り返されるささやかなやり取りの中に、他の誰とも違う特別な熱が宿り始めているのを、絵里は静かに、けれど確かに感じていた。

​恒例のダブルデートのバーベキュー。網の上で弾ける肉の音や、基樹君と未知の快活な笑い声は、少し離れた場所で響いている。

二人が甲斐甲斐しく焼き係を買って出てくれているおかげで、絵里と章男は河原の木陰に並んで座り、流れる川のきらめきを眺めていた。


皿に取り分け、彼の手元を軽く叩いて合図を送る。章男はふっと表情を和らげると、まっすぐに絵里の目を見て、静かに、深く頷いた。
​声はなくとも、その眼差しには確かな温もりがある。

ふとした瞬間に、かつて圭佑と歩いた雑踏を思い出すこともあった。けれど、今の絵里の隣には、言葉を超えた確かな絆がある。過去の傷跡をなぞる暇もないほど、章男と重ねる「今」が、彼女の心を温かく満たしていた。

​その充足感が、絵里にある決意をさせた。

​絵里は隣に座る章男の手元を軽く叩き、自分に注目させると、ゆっくりと、祈るような心地で口を動かした。

「ねえ、章男さん。今度は二人だけで、もっと遠くへ行きたいな」章男は少し意外そうに眉を上げ、それから優しく目を細めて「どこに?」と手のひらを返す仕草をした。

「海の見える温泉に行きたい!」

​絵里が意気込んで伝えると、章男は少し困ったように、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。彼はしばし黙り込み、何事かを噛み締めるように川の流れを見つめていた。

​やがて、章男は再び絵里の方へ向き直る。
彼は何も言わない。ただ、ゆっくりと、けれど確かな力強さで一度だけ深く頷いた。

​そのわずかな首の動きが、絵里にはどんな甘い愛の言葉よりも深く響いた。

​二人の間に流れるのは、せせらぎの音と、穏やかな静寂だけ。
けれどその沈黙の中に、彼が初めて自分の世界へ「二人きり」で招き入れてくれたという確かな証が刻まれていた。


バーベキューの翌日、仕事帰り。絵里の足は自然と駅前の旅行代理店に向かっていた。カウンターに並ぶ色とりどりのパンフレットを眺めているだけで、自然と胸が躍る。

かつて、元恋人の圭佑といた頃は、旅行の計画を立てることさえ、どこか息苦しさが伴っていた。既婚者だった彼との遠出は、そのほとんどが彼の「出張」という名目の同行だったからだ。

仕事に関わる移動中は、不自然にならないよう隣や近くを歩くことはあっても、決して「恋人」としての空気は出せない。

駅のホームでも電車の座席でも、視線が絡めばすぐに逸らし、会話もどこか事務的で、決して指先一つ触れ合うことさえ許されなかった。

そんな、常に自分たちを律し続ける緊張感が、二人の旅では当たり前の光景だった。

​けれど、パンフレットの鮮やかな海の写真を見つめていた指先が、ふと止まる。

数ある「仕事絡みの同行」の中で、たった一度だけ、彼が万全の工面をして連れ出してくれた純粋な旅行。

​他人の目を気にせず手を繋いで腕を組んで過ごした時間。ホテルの扉を閉めた瞬間にようやく重なり合えた、あの特別な時間。

真夏の夜、溜め込んでいた想いをぶつけるように肌を重ね、言葉よりも先に体が求め合ったアツい時間。

心臓の鼓動が耳元でうるさく響き、世界に二人しかいないような錯覚に陥ったあの夜。

​(……あんなに必死に、誰にも言えない幸せを繋ぎ止めていたんだな)

​不意に蘇ったあまりに鮮烈な記憶に、胸の奥が少しだけ切なくなった。あの背徳的な甘さは、確かに当時の絵里を支えていた救いでもあったから。

​絵里は小さく吐息を漏らし、きつく目を閉じた。

けれど、その切なさはもう、今の自分を揺さぶるほどのものではない。


仕事の影に隠れ、常に自制を強いられていた圭佑との時間は、刹那的で、どこか自分を削り取るような激しさがあった。

けれど、章男と育んでいるのは、堂々と隣に並び、手を取り合い、同じ景色を分かち合える、じわりと細胞に染み渡るような温かさだ。

​顔を上げると、店の窓ガラスに、一生懸命パンフレットを選んでいる自分の姿が映っていた。

圭佑とのあんなに激しく、そして孤独だった思い出も、章男の穏やかな眼差しを思い浮かべるだけで、少しずつ色彩を失っていく。圭佑のことを思い出して立ち止まる時間は、今の絵里にはもう、ほとんど残っていなかった。

「伊豆……箱根……あ、ここ、海が近く感じる」

​絵里は再び、棚から溢れんばかりのパンフレットを腕に抱え直した。そのずっしりとした重みは、そのまま章男と一緒に過ごしたい時間の重なりのようで、絵里は思わず口元を緩めた。


​章男は、音が聞こえない分、視覚からの情報をとても大切にする人だ。だからこそ、彼と見たい景色が次々と浮かんでくる。


​気がつけば、圭佑とのことで涙を流した夜の記憶は、遠い霧の向こうに消えていた。 今、彼女の頭の中を占めているのは、章男がどんな顔をしてこの写真を見るだろうか、という温かな想像だけだった。

数日後、章男の部屋。

テーブルの上には、読みかけの本や、普段から使い込んでいる一冊のメモ帳が置かれている。窓から入り込む夏の終わりの風が、時折そのページを小さく揺らしていた。

​二人は肩を並べて座り、スマートフォンの画面に映し出された伊豆の地図を眺めている。絵里が「西伊豆のこの宿、全室露天風呂付きなんだって。海が目の前だよ」と、弾んだ声で画面の一点を指さした。

​章男は少し身を乗り出し、画面の中の景色をじっくりと見つめた。駿河湾の水平線に溶けていくような夕景の美しさに、ふと目を細める。


彼はゆっくりと手を動かし、「海が、とても近いね」と伝えた。

​「そうなの。目の前がすぐ海だから、波の音だけが聞こえる場所なの。誰にも邪魔されずに、二人だけで静かに過ごせると思って」

​絵里は、身を乗り出すようにして続けた。「食事もお部屋でいただけるプランがあるよ。」

​章男は少し考えたあと、自分の手のひらを水平に動かし、水平線に沈む夕日のジェスチャーをした。

​「夕日を見ながら、乾杯したいね」

​その提案に、絵里の顔がぱっと明るくなった。「いい! それ、最高だね。じゃあ、ここに決めてもいい?」

​章男は力強く頷き、優しく微笑んだ。

画面を覗き込み、一息ついた章男が「予約を確定する」ボタンをタップした。二人の間に、ようやく旅行が決まったという安堵の空気が流れる。

​「これでよし、と」
​章男はスマートフォンを置き、西伊豆の宿の写真を見つめている。

​「……楽しみだな。絵里ちゃんの行きたいところ、全部回ろう」
​窓の外では夕暮れが近づき、部屋の中を静かに照らしていた。


​予約確定のボタンを押したあの夜から、二人の間には、これまでとは少し違う、甘く、それでいてどこか緊張感の漂う空気が流れていた。

​絵里は、旅行用の新しいワンピースを選びながら、スマートフォンの画面を何度も見返していた。

「西伊豆 観光モデルコース」「西伊豆 デート」
検索履歴は、彼との時間を完璧なものにしたいという彼女の願いで埋め尽くされている。


出発を翌日に控えた夜。二人はそれぞれの部屋で、窓の外を見つめながらやり取りを交わす。

​「明日、お天気良さそうだよ。海、綺麗に見えるといいな」
「そうだね。朝、駅の時計の下で待ってるよ」

​章男は、スマートフォンの画面を指でなぞりながら、彼女の笑顔を思い浮かべる。

絵里は、可愛い下着を入れたボストンバッグを眺め、「明日こそ、何か変われるかな」と小さく呟いた。

夏の終わりの少し冷えた夜風が、二人の部屋のカーテンを揺らしていた。
それは、幸福な旅の始まりのようでもあり、後に訪れる嵐の前の、静かな静寂のようでもあった。


旅の朝、私の最寄り駅の改札前。
章男は、改札から少し離れた場所で、手持ち無沙汰そうに立っていた。

普段はあまり持たないような大きなバッグが、彼の足元で少し窮屈そうに見える。
​「章男さん」
​声をかけると、彼は顔を上げて、少しだけホッとしたように目を細めた。

​「おはよう。…」

​彼は少し照れくさそうに笑い、手に持っていたチケットを私の分だけ手渡してくれた。不器用なりに、絵里との旅を失敗させないようにという、彼なりの静かな緊張感が伝わってくる。

​「行こうか。」
​二人は並んで、東京駅へ向かうホームへと階段を下りていった。


​東京駅の喧騒を通り抜け、ホームに滑り込んできた特急踊り子号。
車内に足を踏み入れると、章男は周囲の乗客にぶつからないよう、少し肩をすぼめて慎重に席を探した。

​彼は自分の座席番号を確認すると、私に窓側の席を譲り、手際よく荷物を頭上の棚へ収めた。それから通路側にゆっくりと腰を下ろし、ようやく一つ、大きな息を吐く。


東京駅の喧騒を切り裂くようにして走り出した踊り子号は、次第に速度を上げ、ビル群を背に南へと進んでいく。
​横浜を過ぎ、小田原を越えたあたりで、車窓の右手にあった街並みが消え、左手に相模湾が姿を現した。
​「あ、海……」


不意に、絵里が彼の袖を軽く引く。章男が我に返って彼女の方を向くと、絵里は窓の向こう、建物の隙間から差し込む眩しい光を指さし、ゆっくりと口を動かした。
​「……海。海が見えてきたよ」

​遮るものが消え、視界が一気にひらける。そこには、午後の陽光をいっぱいに跳ね返す相模湾が広がっていた。章男は黙って頷き、どこまでも続く水平線の青さをじっと見つめた。

​「……綺麗」絵里が呟く。その唇の動きを読み取りながら、章男は指先で小さく「本当だね」と描いた。

​隣り合う肩から伝わってくる、絵里の柔らかな体温。それを心地よいと感じてしまう自分を、章男は心のどこかで厳しく戒めていた。

バーベキューの時、二人きりになりたいと言ってくれた絵里の言葉。

​その熱を思い出すたびに胸が騒ぐが、章男はそれを必死に抑え込む。自分は耳が聞こえない。

彼女の人生に、わざわざ「不便な男」という重荷を背負わせる必要はない。
期待させなければ、裏切ることもない。深く愛さなければ、彼女が去る時の絶望に耐える必要もない。


​彼女に苦労をかけている自覚があるからこそ、一線を越えるのが怖かった。友達として旅行に来てるんだと自分に言い聞かせて、彼は視線を窓の外へと戻し、自分の心が溢れ出さないように、彼はただ海の青さを目に焼き付けた。


​列車の心地よい揺れが止まり、私たちは伊豆の地に降り立った。
改札へと向かう階段を上りながら、彼が再び小さく息を吐く。それは車内でついた溜息とは違い、どこか晴れやかな響きを含んでいた。きらきらと光る陽光が、私たちの旅の始まりを静かに祝ってくれているようだった。


伊豆の街を歩きながら、二人で選んだ地元のクラフトビールと、絵里の好きな果実酒。宿に到着してすぐ、章男はそれを冷蔵庫の奥へと並べた。

​「夕焼けが一番綺麗に見えるまで、お預けだね」
​そう手話で伝えると、絵里は少し照れたように、けれど幸せそうに微笑んだ。

夕食までのひととき、二人は広縁の椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めていた。移動の疲れを癒やすように、ただ静かに海を見つめる。かつての息苦しい沈黙ではなく、隣に誰かがいることの安らぎを感じる、心ほどける時間。

​やがて、太陽が水平線に近づき、空がドラマチックな茜色に染まり始めた。海面に黄金色の道が伸び、部屋の中までが熱を帯びたような輝きに包まれる。章男はゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫からよく冷えた瓶を取り出した。

​グラスに注がれた琥珀色の液体が、夕陽を透かして眩しく光る。
章男は真っ直ぐに絵里の瞳を見つめ、静かに、けれど決然と手を動かした。

​「二人旅に乾杯」
​カチン、と涼やかな音が響き、重なり合うグラス。

水平線の向こう側、最後に残った一筋の光が消え、世界がしっとりとした闇に包まれていく。

​「……不思議だね」
​絵里がぽつりと呟いた。章男はその声の熱に誘われるように、彼女の横顔をじっと見つめる。
​「何が?」
「昼間に見ていた景色と同じはずなのに、今は全然違う場所に来たみたい」

乾杯のあと、私たちはどちらからともなくベランダの椅子に深く腰掛け、暮れゆく海を眺めていた。鮮やかだったオレンジ色が消え、海が深い藍色へと沈んでいく。言葉は多くいらない。グラスの中で溶ける氷の音と、規則正しく響く波の音だけが、一日の緊張をゆっくりと解いていく。
​「……そろそろ、お風呂行こうか」
​どちらかの小さな声を合図に、私たちは腰を上げた。

部屋の鍵とお揃いの籠バッグを手に取り、廊下へ出る。少しひんやりとした長い廊下の畳敷きを、足裏に感じながら歩く。大浴場の暖簾の前で「じゃあ、またあとで」と軽く手を振り、それぞれの湯殿へ。
​広々とした湯船に身を沈めた瞬間、思わず溜息が漏れた。手足を思い切り伸ばすと、一日の疲れが指先から溶け出していく。露天風呂へ出れば、夜風が火照った顔に心地よく触れる。見上げれば、夕焼けの名残はすっかり消え、一番星が瞬き始めていた。

​風呂上がり、待ち合わせ場所で合流すると、お互い少し火照った顔をして、浴衣の袖からは石鹸の清々しい香りが立ち上っている。
​「さっぱりしたね」と笑い合いながら部屋に戻った。

ちょうどその時、静かなノックの音が響く。
​「失礼いたします。お夕食をお運びしてもよろしいでしょうか」
​仲居さんの控えめな声と共に扉が開いた。その瞬間、ふわりと漂ってきたのは出汁の芳醇な香りと、香ばしく焼き上げられた食材の匂い。重厚な木製トレーに乗せられた一皿一皿が、手際よくテーブルに並べられていく。

​仲居さんが一礼して去り、再び二人きりになった部屋には、伊豆の豊かな海の幸が並んでいた。
​「見て、章男君!このお刺身、透き通ってる……」
​空が深い群青色へと溶けていく中、温かな灯りに照らされた二人の晩餐が、今ゆっくりと幕を開ける。


「美味しいね」と顔を見合わせるたび、心の壁が少しずつ溶けていく。伊豆の地酒にほんのりと頬を染めた頃には、窓の外はすっかり漆黒の闇に包まれていた。
仲居さんが手際よく膳を下げ、代わりに運ばれてきたのは、湯気の立つほうじ茶と季節の果物。
「……ねえ、少し外の空気、吸いに行かない?」
どちらからともなく誘い合い、二人は夜の静寂(しじま)へと踏み出した。


旅館の周りを少しだけ歩くと、夜の潮風が心地よく頬を撫でた。
「暗いね。でも、星がすごく綺麗……」

絵里は隣を歩く章男の袖を、無意識のうちに少しだけ強く握る。伊豆の夜は深く、遠くで繰り返される波音だけが二人の沈黙を埋めていた。

​「そろそろ戻ろうか。湯冷めしちゃうし」
章男に促され、二人は温かな灯りが漏れる宿の門をくぐった。

​部屋の扉を開けた瞬間、二人は足を止めた。
「あ……」
夕食を食べていた座卓は部屋の隅に寄せられ、代わりに部屋の中央には、二つの布団が隙間なく並べて敷かれていた。
​仲居さんの手によって整えられた、糊のきいた真っ白なシーツ。枕が二つ、仲良く並んでいるその光景は、一気に「夜」の訪れを突きつけてくる。

ついさっきまで外の広い世界にいた開放感は消え、部屋の中は急に濃密な、二人だけの空気に包まれた。

​「お、お布団、敷いてあるね……。私、もう一回お風呂入ってくる。髪、潮風で少しベタついちゃったから」
絵里は逃げ込むようにバスタオルを手に取ると、部屋に備え付けの内風呂へと向かった。

​浴室の脱衣所で、絵里は静かに浴衣を脱ぎ捨てる。
鏡に映る自分。湯上がりの上気した肌に乗せるのは、この日のために用意した、繊細な淡い色のレースがあしらわれた特別な下着だ。
(……変じゃないかな。)

鏡の中の自分と目が合うたび、心臓の鼓動が早くなる。
​お気に入りの香りのボディクリームを薄く伸ばし、その上から再び浴衣を羽織る。
けれど、帯を結ぶ指先はどこかおぼつかない。

浴衣の下に隠した「かわいい秘密」が、歩くたびに絹の裏地と擦れて、絵里の胸をさらに高鳴らせた。
​扉の向こうでは、章男が待っている。
絵里は深く一つ呼吸を置くと、並んだ布団が待つ部屋へとゆっくり歩みを進めた。

夜の静寂が、部屋の隅々にまで深く染み渡っている。
​浴室から戻った絵里が、浴衣の裾を小さく揺らしながら部屋へ入ると、章男は窓際の広縁にある椅子に腰掛けていた。

手元には観光パンフレットが広げられ、彼は熱心に明日の予定をチェックしている。
​「あ、おかえり」
絵里の気配に気づいた章男が、パンフレットを閉じて立ち上がった。

「……そろそろ、休もうか」
​その視線が、並んだ布団へと向けられる。絵里は、浴衣の下に忍ばせた特別な下着を意識してしまい、少しだけ身を固くした。けれど、章男の表情はいつも通り穏やかで、かえってそれが絵里の胸をそわそわとさせる。

​「どっち側で寝たい? 希望ある?」
​章男の問いかけに、絵里は部屋の奥、壁側の布団を指差した。

「……こっち側にしてもいい?」
「了解。じゃあ、俺はこっちね」
​えりは滑り込むようにして、糊のきいた冷ややかなシーツの中へと身を沈めた。奥に潜り込むと、章男の体温を近くに感じ、ドキドキと心臓の音が耳元まで響いてくる。

​章男もまた、隣の布団にゆっくりと体を横たえた。
​(……何か、お話しするのかな)
​期待と緊張が入り混じる中、章男がふと、絵里の方を見た。

彼は何も言わず、ただ優しく微笑んで、指先を動かす。
​『お・や・す・み』
​丁寧な手話。それが、彼からの最後の合図だった。

「……おやすみなさい…」
​絵里が小さな声で応えると、章男は一度だけ頷き、そのまま静かに目をつぶってしまった。
​部屋を照らす常夜灯が、彼の横顔をぼんやりと浮かび上がらせる。規則正しい寝息が聞こえ始め、絵里は布団の中で、自分だけが知っている「かわいい下着」のレースの感触を、少しだけ持て余しながら天井を見つめた。


絵里は、隣で静かに眠る章男の横顔を、じっと見つめていた。
​せっかくの伊豆の夜。奮発して用意した、普段の自分なら赤面してしまうような繊細なレースの下着。

浴衣の合わせからチラリと覗くその秘密を、彼はどんな顔で見てくれるだろうか。そんな期待と緊張で、夕食の時からずっと胸が熱かった。

​けれど、彼は優しく「おやすみ」と告げ、あっさりと夢の中へ行ってしまった。
​(……期待してたのは、私だけなのかな)

​布団の中でじっとしていると、浴衣の裏地とレースが擦れる感覚が、妙にむず痒くて虚しい。自分だけが一人で浮き足立っていたような、置いてきぼりの寂しさが波のように押し寄せてきた。

​たまらなくなって布団を抜け出し、絵里は広縁の椅子に深く腰を下ろした。
窓の外、夜の海はどこまでも暗く、ただ波の音だけが「寂しい、寂しい」と繰り返しているように聞こえる。

​暗い部屋を振り返ると、章男の寝息が聞こえてくる。そのあまりに無防備で穏やかな様子に、胸の奥がチリリと痛んだ。
​その時、布団がバサリと音を立てた。

​「……?」

​驚いて顔を上げると、いつの間にか章男が目を開けていた。彼は体を起こすと、暗がりに佇む彼女の姿を静かに見つめる。その眼差しは穏やかで、ただ純粋に、一人で座っている絵里を案じているようだった。
​『眠れないの?』
​静かな部屋の中で、彼の手話がゆっくりと紡がれる。
その優しさに触れた瞬間、えりは隠していた寂しさがあふれそうになり、思わず浴衣の胸元をぎゅっと握りしめた。

​「章男さん……私、…魅力ないかな…」

​私は必死に声を震わせた。部屋に二人きりだと避けられてるような、そんな不安が頭をよぎる

​震える声で尋ねる絵里に、章男は弾かれたように彼女を振り返った。彼は激しく首を振りながら、潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。

​「そんなことないよ…」

​震える指先で綴った手話は、どこか自分でも制御できない感情のままに溢れ出たものだった。
​その言葉を受けた章男は、何も言わずに絵里を見つめた。
広縁の淡い光を反射する彼女の瞳は、今にも零れ落ちそうなほどに揺れている。ぎゅっと浴衣の胸元を握りしめた指先や、微かに震える肩。そのすべてが、彼女の抱えている「言葉にできない想い」を雄弁に物語っていた。

​章男にとって、その姿はあまりにも無防備で、そして残酷なまでに愛おしかった。
さっきまで自分を縛っていたはずの穏やかな眠気は、彼女のその一言で、跡形もなく消え去ってしまう。

​章男はゆっくりと布団から出ると、広縁に座る絵里のもとへ歩み寄った。

今すぐその手を引き寄せ、心臓の音を重ね合わせたい。自分の中に巣食う剥き出しの独占欲が、叫び声を上げている。
​(――けれど、だめだ。これ以上は、踏み込んじゃいけない)

​彼は、熱を帯びようとする自分の指先を、強引に「友達」という型にはめ込んだ。
​「俺にとって…絵里ちゃんは、魅力的な最高の友達だから」

​その手話は、自分自身に言い聞かせるための「呪文」だった。
「友達」という言葉を盾にしなければ、自分の中に渦巻くこの激しい鼓動を抑え込めない。

もしこの一線を越えてしまえば、不自由な自分と一緒にいることで、彼女の未来を曇らせてしまうかもしれない。その恐怖が、彼の恋心を強引に引き剥がしていく。

​心臓は、壊れた時計のように激しく、不規則なリズムを刻み続けている。
けれど、章男はその鼓動を、まるで他人のもののように無視した。

​胸を叩く手話に込めたのは、愛の告白ではなく、「これ以上望んではいけない」という自分への戒め。

彼は、泣き出しそうなほどに熱い想いを冷たい仮面の裏に隠し、ただ「誠実な友人」として、彼女の前に立ち尽くした。

​この胸の痛みが、彼女にだけは決して伝わらないようにと願いながら。


​「友達…?」

​絵里はその言葉をなぞるように呟き、大粒の涙をこぼして首を振った。

​「私は、好きでもない男の人と、同じ部屋で一泊旅行なんて計画しないよ。……章男君だから、来たかったんだよ…
どうして二人きりでいいよって言ってくれたの?
きちんと言葉で『好き』って言われていないから、ずっと不安だった。私…ずっと章男君の彼女になりたかった」

「絵里ちゃんは最高の友達なんだ」
​章男のその言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
期待していた『好き』という言葉の代わりに突きつけられたのは、残酷なほどに誠実な拒絶だった。

(――私、何を言ってるんだろう)
​冷たい水を浴びせられたような感覚が走り、ハッと我に返った。
今の問いかけは、あまりに惨めで、重すぎる。

​「あ、ごめんなさい、変なこと言って、忘れて!」
​私は努めて明るい声を作り、彼に背を向けて布団に潜り込んだ。

章男が何かを言いかけた気配がしたけれど、それを聞く勇気はもう残っていなかった。
​部屋の明かりを消し、西伊豆の静かな波音だけが響く。

隣の布団からは、彼が寝返りを打つ衣擦れの音が聞こえてくる。同じ部屋にいるのに、宇宙の果てまで引き離されたような孤独感に、視界がじわじわと滲んだ。

​声を殺して、ただ暗闇を見つめる。
「章男君だから、来たかった」
あんなに震えながら伝えた言葉さえ、彼には重荷でしかなかったのかもしれない。

「友達」という安全な場所に逃げ込んだ彼を責めることもできず、私はただ、目を閉じることしかできなかった。

​翌朝。
部屋に差し込む光で目が覚めたとき、心臓の奥がずんと重かった。
昨夜の出来事が夢ではなかったことを、嫌でも思い出される。
​章男君は、すでに出かける準備を終えて窓の外を眺めていた。

「……おはよう」

視界の端で私が動いたのに気づいたのか、窓の外を眺めていた彼はゆっくりとこちらを振り返った。
その顔には、隠しきれない気まずさが浮かんでいる。
​彼は私の目を見つめ「おはよう。……」と手を動かした。


「……顔、洗ってくるね」
​そう絞り出すように言って、私は章男君の返事を待たずに立ち上がった。

彼と視線がぶつかるのが怖くて、逃げるように部屋の隅にある洗面所へと向かう。

​小さな洗面台の前に立ち、鏡を直視できずに蛇口をひねった。
冷たい水が手に触れる。
昨夜、あんなに震えながら「好きって言われてないから不安だった」と伝えたときの自分の声が、耳の奥で蘇ってきて、胸がギュッと締め付けられた。

​「友達だから……」
​彼が言ったその言葉を思い出すたびに、視界がじわじわと滲んでいく。
私は慌てて、溜まった冷たい水を両手ですくい、顔に押し当てた。
何度も、何度も。

​顔を上げ、鏡に映った自分を見つめる。
目は少し赤く腫れていて、隠しようのない落胆が顔に張り付いていた。
​「……何やってるんだろ、私」

​小さな声で呟き、備え付けのタオルで顔を拭う。
タオルに顔を埋めている間だけは、章男君のいない、暗くて静かな世界にいられた。

​でも、いつまでもここに閉じこもっているわけにはいかない。
部屋に戻れば、またあの重苦しい沈黙が待っている。
​私は一度大きく深呼吸をして、腫れたまぶたを指で軽く押さえた。
せめて、彼が「友達」として接しようとしているなら、私もその役割を演じなきゃいけない。
​「……よし」


​気合を入れ直すように自分に言い聞かせ、私はゆっくりと洗面所のドアノブに手をかけた。

​私は黙って着替えを済ませ、最低限の身支度を整えた。
カバンを閉めるジッパーの音が、静かな部屋に不自然なほど大きく響く。
​準備ができたのを察したのか、章男君は無言で立ち上がり、部屋の鍵を手に取った。


「……朝ごはん、行こうか」
​身支度を終えた章男君が、どこか探るような声で言った。
私は鏡の前で髪を整えるふりをして、短く「うん」とだけ返す。
​昨夜、あれだけのことを言ったあとの密室は、呼吸をするのもためらわれるほど重かった。本当は食欲なんて一ミリもなかったけれど、この部屋に二人きりでいるよりは、他人の目がある場所へ行ったほうがまだ楽な気がした。

​部屋を出て、長い廊下を歩く。
私たちの間に会話はない。ただ、旅館のスリッパが畳をこする乾いた音だけが響いていた。
​朝食会場に入ると、すでにテーブルには人数分の食事が並べられていた。

「……豪華だね」
沈黙に耐えかねたように私は口を開いた。
​「そうだね。西伊豆って感じ」
…干物、焼きたてみたいだよ」
「……うん」
​一言二言、言葉は交わす。けれど、それは会話というよりは、お互いが「普通」を装うための確認作業でしかなかった。


​箸を動かす音と、遠くで聞こえる波の音だけが響く。湯気の向こうに座る彼の表情は、どこか遠い。
以前なら、並んだ小鉢を見て「どれから食べる?」なんて笑い合えたはずなのに。今は、目の前の料理を喉に通すことだけに必死だった。


無理に飲み込もうとするたびに、昨日まで彼との旅行を心から楽しみにしていた自分を思い出して、胸が締め付けられる。

​「……ゆっくり食べて。私、先に部屋に戻って荷物まとめてるから」
​私はまだ半分以上残っているご飯を置き、逃げるように席を立った。

​背後で、章男君が何かを伝えようとして、慌てて手を動かしたのが分かった。けれど、周囲の客たちの賑やかな笑い声や食器の触れ合う音に遮られ、振り返ることのできない私の心には、彼の切実な手の動きも、そこにあるはずの想いも届かなかった。


目の前の海はこんなに綺麗なのに、飲み込んだ朝食が喉の奥にずっとつかえているような、苦い感覚だけが残っていた。

足早に朝食会場を後にする私の背中を、誰かが追ってくる気配がした。
​「……っ」

​振り返るより早く、廊下の角で腕を掴まれる。
章男君だった。
彼は息を切らし、朝食を切り上げてすぐに追いかけてきたのだろう、整った髪が少しだけ乱れている。

​章男君は、掴んだ腕を離さないまま、もう片方の手を必死に動かした。

​『待って』
​ただ一言、宙を舞うその手話が、彼にしか出せない切実な「叫び」のように見えて、私は動けなくなった。
周りを歩く宿泊客たちの笑い声が遠ざかっていく。
静寂の中で、彼の手だけが、今にも壊れそうな私の心を繋ぎ止めるように激しく揺れていた。


腕を掴まれたまま、私は彼と視線を合わせることができなかった。章男君は私の顔を覗き込もうとするけれど、私はわざと視線を落とし、彼の手のひらから静かに腕を抜いた。

​「……行こう。人に見られちゃうから」
​短く手話で返し、私は彼を置き去りにするように再び歩き出した。

章男君は何も言わず——言えず——、ただ私のすぐ後ろを、影のように付いてきた。
​二人きりの部屋で部屋の扉を閉めた瞬間、それまで聞こえていた廊下のざわめきが嘘のように消えた。

朝の光が差し込む畳の上には、昨夜の甘い期待の残骸を隠すように、綺麗に整えられた座卓が置かれている。

​章男は、まだどこか落ち着かない様子で、座卓の上に置かれていた観光パンフレットを手に取った。彼は私と目を合わせようと努めながら、ページの端を指差す。
​『ここ、行く?』
​昨日、彼が広縁で熱心にチェックしていた絶景スポット。

いつもなら「楽しみだね」と笑って返したはずのその問いかけに、私の胸はチリリと痛んだ。浴衣の下で、今も肌に触れているレースの感触が、昨夜の孤独を思い出させる。

​私は、ふわりと力なく微笑んだ。
​「……ううん。今日はもう、帰ろう?」
​首を振る私の動きに合わせて、結び直したばかりの浴衣の合わせが、わずかに揺れる。

私の返答に、章男の手が止まった。彼はパンフレットを握りしめたまま、何かを必死に堪えるような目で私を見つめている。

​『どうして?』
​再び動き出した彼の手は、迷い、震えていた。
その問いに答える代わりに、私はただ、畳の上に置かれた自分の旅行カバンへと手を伸ばした。


章男はどうやって謝ればいいのか、どうすれば自分の本当の熱量を伝えられるのか。その答えが見つからないまま、二人は予定を早めて駅へと向かった。


宿を出ると、西伊豆の海は昨日と変わらず青く澄んでいた。

​並んで歩く歩道。肩が触れそうになるたび、私はさりげなく距離を置いた。
章男は一度だけ、何かを言いたそうに私を見たけれど、結局そのまま前を向いた。

​「友達」という言葉で守られた今の関係が、これほどまでに息苦しいものだとは知らなかった。
改札に向かう私たちの背中に、遮るもののない朝の光が降り注いでいた。


変更した時間の電車がホームに滑り込んでくる。二人は並んで乗り込み、座席に深く身を沈めた。だが、発車のベルが鳴り響く直前、絵里が弾かれたように立ち上がった。

​「ごめん、……一人で帰って」

​「え?」と目を見開く章男を置き去りにして、彼女は閉まりかけたドアの隙間からホームへと飛び出した。
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
呆然とする章男を乗せたまま、電車は無情に動き出す。

章男は座ることもできず、弾かれたようにドアへ向かい、その窓に張り付いた。遠ざかっていくホームの景色。その中で、泣き出しそうな顔をしてこちらを見ている絵里の姿が、一瞬だけ視界に焼き付く。

「次の駅で降りなきゃ……すぐに戻らないと」
焦燥感ばかりが募り、章男はドアの取っ手を壊れそうなほど握りしめて立ち尽くす。音のない世界にいるはずなのに、激しい心臓の鼓動だけが全身を揺らし、冷や汗が背中を伝った。

​頭の中は、あの瞬間の彼女の表情で埋め尽くされている。謝らなきゃいけない。でも、何を言えばいい? どうすればいい?

パニックで思考は空回りし、手に持っているスマホで連絡を入れるという当たり前のことすら、今の彼には思いつかない。ただ、一秒でも早くこの箱から飛び出して、彼女のもとへ走り出したいという本能だけが体を突き動かしていた。

​その時、掌(てのひら)が震えた。
​握りしめていたスマホの振動。
そのかすかな震えが、真っ白になっていた章男の意識を、無理やり現実へと引き戻した。


​章男君へ。

​せっかく一緒に行ってくれた旅行だったのに、昨夜はごめんなさい。

​本当は、ずっと隣にいたい。

​だけど、一緒にいると、悲しい顔になってしまうの一人で帰ります。


​さようなら。

​​一人取り残された車内で、章男は居ても立ってもいられず震える指でメッセージを打ち込んだ。

​絵里ちゃん、昨日は傷つけてごめんなさい。

​ほんとは絵里ちゃんのことが大好きです。

ずっとそばにいてほしいです。

​でも、耳のことがあって、自分の気持ちを抑えるようにしていました。
次の駅で降りて戻ります。ホームで待っていてください。


電車が次の駅に滑り込むと同時に、章男は弾かれたようにホームへ飛び出した。すぐに反対方向の電車に飛び乗り、彼女が降りたあの駅へと引き返す。

​ホームに降り立ち、雑踏の中に絵里の姿を探したが、どこにも彼女の影はなかった。

送信したばかりの『いま駅に戻った。どこにいる?』という文字。
その横には、どれだけ待っても「既読」の二文字が現れない。

​章男にとって、この駅の喧騒は完全な無音だ。行き交う人々の話し声も、列車の発着を告げるアナウンスも聞こえない。だからこそ、画面の中の静止した状態が、よりいっそう残酷な沈黙となって彼を押し潰そうとしていた。

​網膜に焼き付いた表情
​目を閉じれば、すぐにあの光景が蘇る。ドアが閉まる間際、ホームに取り残された彼女が浮かべた、今にも泣き出しそうな表情。その絶望に近い歪みが、章男の胸を鋭く抉った。

​彼女がまだこの駅のどこかにいるのか、あるいはもう改札を出てしまったのか、彼には知る術がない。ただ、あんな顔をさせたまま自分だけが先へ進むことなど、到底できなかった。

​章男は、ベンチの端を強く握りしめた。
スマホが震える「微かな振動」だけを、指先の神経を研ぎ澄ませて待つ。
​もし彼女が戻ってきたら。もし画面に変化があったら。
視界をよぎるすべての影に絵里の面影を重ねながら、章男はただ、音のない世界で彼女からの応答を、そして彼女の姿を、祈るように待ち続けていた。

ベンチに座り込んでから、ニ時間が過ぎ、三時間が経過した。
​章男は何度目かわからない動作でスマホの画面をタップする。しかし、画面に浮かび上がるのは、自分が送りつけたままの『どこにいる?』という問いかけだけだ。既読の文字は、一向に現れない。

​(まだ、ここにいるんだろうか。それとも……)
​視界をかすめる人影が、そのたびに絵里のシルエットに見えて心臓が跳ねる。だが、近づいてくるのは見知らぬ誰かで、その落差が章男の心をさらに削っていった。


​「ここで待っていれば、彼女が来るかもしれない」
そんな淡い期待は、時間が経つにつれ、苦い後悔へと形を変えていった。動かずにいることは、希望を持っているようでいて、実は自分の罪悪感から目を逸らし、ただ奇跡を待つという「逃げ」ではないのか。

​あの時、ホームで泣き出しそうだった彼女を一人にした。その事実は、ここで座っているだけでは拭い去れない。

​(あんな顔をさせたまま、俺は何を待っているんだ。彼女が戻るのを待つんじゃなくて、俺が行かなきゃならないんだ)


​章男は重い腰を上げた。
彼は逃げるように、反対方向のホームへと滑り込んできた上り電車に乗り込んだ。
​車内に入ると、床から伝わってくる規則的な振動が、章男の身体を突き上げる。ガタン、ゴトン――音として聞こえることはなくても、その微かな震えは、まるで自分の不甲斐なさを責め立てる鼓動のように全身に響いた。


目的地は彼女が帰る場所、あのマンションの前だ。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、章男はポケットの中のスマホをぎゅっと握りしめた。

謝りたい、拒絶されてもいい。このまま、終わらせくない。
​昼過ぎの眩しい光が差し込む車内で、章男はただ、自分を責める気持ちを握りしめながら、彼女の住む街への距離が縮まるのを待っていた。後悔に押し潰されそうな体を支えているのは、今度こそ彼女と向き合わなければならないという、悲痛なまでの義務感だった。

西伊豆からの長い沈黙の旅を経て、章男がその場所に辿り着いたのは、街が夕闇に包まれようとする頃だった。
​昼過ぎの刺すような陽射しはすでに弱まり、空は深い橙色から群青色へと混ざり合っている。


章男は、絵里のマンションが見える路地の隅に立ち、ただ一点を見つめていた。
彼にとって、世界はどこまでも静かだ。帰宅を急ぐ人々の靴音も、自転車のベルの音も届かない。ただ、夕風に揺れる街路樹の葉や、家々の窓から漏れ出す夕食の明かりが、彼に「時間の経過」を告げていた。

​絵里の部屋の窓は、暗いままだった。
その暗闇が、そのまま自分の心の内側を見せられているようで、章男はぎゅっと唇を噛んだ。

​ポケットの中で、スマホを握りしめる。
画面を点灯させれば、相変わらず既読のつかないトーク画面が、青白い光となって網膜を刺す。

​視界の端で、マンションのエントランスに向かう人影が動くたび、章男の心臓は大きく波打った。
「彼女であってほしい」という願いと、「どんな顔をして会えばいいのか」という恐怖。
二つの感情が、音のない世界で激しくぶつかり合っていた。

章男は、空気を肺の奥に吸い込み、自分の立ち位置を確かめるように地面を踏みしめた。

​視覚が捉える情報のすべてを、彼女を見つけ出すためだけに集中させる。
たとえどれほど時間がかかろうと、彼女の歩き方、そのシルエット、あるいは彼女の部屋の窓に灯るはずの最初の光を見届けるまで、ここを動くつもりはなかった。

​彼女に拒絶されていることは分かっている。会う資格なんてないのかもしれない。それでも、自分の臆病さのせいで零れ落ちてしまった彼女の涙を、どうしても拭いたかった。

「絵里ちゃん、ごめん……」

​彼女がもし帰ってきて、自分の姿を見てさらに傷ついたらどうしよう。そんな恐怖に襲われながらも、彼はそこを動くことができなかった。今の自分にできる唯一のことは、たった一言「大好きだ」と、今度こそ逃げずに伝えるために、この場所で待ち続けることだけだ。


どれくらい時間が経っただろうか。
章男は、ただ暗い絵里の部屋の窓と、人影が途絶え始めた路地を交互に見つめ続けていた。
​その時、遠くの街灯の光の下に、見覚えのあるシルエットがゆっくりと現れた。

肩を落とし、重い足取りでトボトボとこちらへ歩いてくる。その輪郭が近づくにつれ、章男の心臓は音もなく激しく波打った。

世界が静止したような錯覚。
章男は弾かれたように走り出した。
彼女との距離を埋めるために、これ以上一分一秒も無駄にしたくないという一心で、ただひたむきに地を蹴る。

​章男の気配に、絵里が驚いたように顔を上げた。
​「……章男君?」
​彼女の目の前に辿り着いた章男は、荒い息を整える間もなく、震える両手を宙に躍らせた。今度は、もう絶対に目を逸らさない。

​「ごめん……会いたくて、絵里ちゃんに会いたくて待ってた。本当に、昨日はごめん。耳のことがあって、僕なんかが隣にいていいのか、ずっと怖かった。自分を守ることばかり考えて、傷つけてごめん……」

​章男は一度、力強く自分の胸を叩いた。そして、言えなかった言葉を、ありったけの想いを込めて紡ぎ出す。
震える指先を隠すこともせず、彼はさらにもう一歩、彼女の懐へ踏み込んだ。

​「絵里ちゃんは友達じゃない。一番大切な人。……ずっと、一緒にいたい人」
​章男の切実な視線が、真っ直ぐに絵里の心を射抜く。

​絵里の目から、大粒の涙が溢れ出した。彼女は章男の手を、止めるようにぎゅっと握りしめる。

​「……バカ…」

​絵里は泣き笑いのような顔で、章男の胸に顔を埋めた。

​章男はその温もりを逃さないように、彼女の体を強く抱きしめる。