その頃、章男は夜の街を彷徨っていた。
音のない世界で、ただ視覚だけを頼りに絵里の姿を追い求めたが、彼女を見つけることはできなかった。絶望と疲労に打ちひしがれ、ようやくマンションに辿り着いた彼は、リビングの椅子に座ったまま、いつの間にかウトウトと眠りに落ちていた。
ガチャリ、と玄関が開く。
帰宅した絵里は、力なく眠る章男の姿を見て胸を締め付けられた。そっとクローゼットから毛布を取り出し、彼の肩にかけたその瞬間、章男が目を開けた。
視線が合う。章男は驚いたように、けれどすぐに安堵の表情を浮かべると、絵里へと手を伸ばした。
『おかえり…」
章男は手話でそう伝えると、絵里を自分の方へと引き寄せた。
「身体、冷えてるね…』
彼の温もりに触れながら、絵里は座ったまま、真っ直ぐに彼を見つめて告げた。
「ごめんなさい…私…ひどいこと言ってごめんなさい…」
「私、きちんと、さよならをしてきた。3年前きちんとできなかったさよならを今日やっとできたの。……ずっと隠し事をして、苦しめて、本当にごめんなさい」
その言葉を聞いた章男は、責めることも、問い詰めることもしなかった。ただ、すべてを許し、受け入れるように、何度も、何度も深く頷いた。
「絵里の帰る場所はここだよ…」
そこにはもう、無理に声を出そうとする痛々しさも、絵里を疑う色もなかった。
「……先に、シャワーを浴びて温まっておいで。」
章男がそっと手を離すと、絵里は自分の指先に残る彼の熱を惜しむように、一度だけ拳を握りしめた。
湯気のこもった浴室で、絵里は熱いシャワーを浴びた。肌を叩く水流が、こびりついていた嘘や、張り詰めていた緊張を一つずつ剥がし落としていく。
鏡に映る自分の顔は、泣き腫らしてひどいものだったが、その瞳からは長年まとっていた澱(よど)みが消えていた。
脱衣所で、持ってきた自分のパジャマに袖を通す。柔らかな布地が肌に触れるたび、ようやく「日常」へと戻ってきた実感が湧いた。髪を乾かし、湿った重みが消えたところで、彼女はゆっくりと寝室の扉を開けた。
オレンジ色の柔らかな光が、二人の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。章男はベッドの端に腰掛けたまま、じっと絵里を見つめていた。
言葉は必要なかった。章男は、絵里の目をまっすぐに見つめると、ゆっくりと片方の手のひらをもう片方の手の上に重ね、優しく横に倒す仕草をした。
『一緒に、寝よう』
無言のまま紡がれた手話。その指先の動きは、ナイトランプの光を浴びて、静かな決意と慈しみを湛えている。
絵里が小さく頷き、彼が持ち上げた掛け布団の下へ滑り込むと、章男もまた、その隣へと身を沈めた。
シーツの中で、二人の境界線が曖昧になる。
「……こっちに」
章男は、迷いのない動作で絵里をその腕の中へと引き寄せた。彼女の背中に回された腕には力がこもり、逃がさないと言わんばかりの強さで抱きしめる。
絵里の顔が章男の胸元に埋まり、彼の規則正しい鼓動が耳に届く。外の世界のすべてを遮断するように、彼は彼女の頭をそっと撫で、さらにもう一段深く、その温もりを抱きしめた。
布団の中に満ちる、二人だけの閉じた熱。窓の外で風が鳴っていても、この厚い羽毛の下だけは、世界で一番静かで、誰にも暴かれることのない聖域だった。
それから1年。二人の間には、深い信頼と穏やかな愛が根付いていた。
かつての嵐のような夜は遠い記憶となり、リビングにはただ温かな静寂が満ちている。
ある日、絵里は自分の体に宿った小さな命に気づいた。
喜びが込み上げる一方で、彼女の心にはふとした不安がよぎる。以前、未知の妊娠を知らされた時に、章男に子供の話をしたことがあった。その時、彼はどこか寂しげに「二人がいい」と言っていたのだ。
(章男、喜んでくれるだろうか……)
その夜、夕食を終えてくつろぐ章男の隣で、絵里は意を決して切り出した。
「……章男、聞いてもいい?」
絵里は震える手で問いかけた。章男は視線を上げ、静かに頷く。
「……何?」
「前に、赤ちゃんはいらないって言ってたでしょう? ……今でも、そう思ってる?」
章男は再び視線を落とし、深く考え込むように指先を止めた。その沈黙の重さに、絵里の胸が締め付けられる。
彼女はバッグから一枚の写真を取り出し、章男の目の前に差し出した。
「……見て。これ」
章男の視線が、白黒の不思議な形をした影に吸い寄せられる。
「ここに写ってるのが、章男と私の赤ちゃん……」
エコー写真を見つめる章男の瞳が、激しく揺れた。
「章男の赤ちゃん、産みたい」
絵里は一文字ずつ、噛みしめるように、そして彼に伝わるようはっきりと口を動かした。
章男はしばらくの間、動かなくなった。写真は微かに震えている。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げると、絵里の目を真っ直ぐに見つめ、大きな手を動かし始めた。
『赤ちゃんを授かったことは嬉しい。でも俺には音が聞こえない。夜、泣いていても気づいてやれない。全部、絵里に苦労をかけることになる。……それに、子供に声で応えてやることもできない父親で、いいのか』
自分を責めるような彼の手の動き。絵里は胸が締め付けられる思いで、その大きな手をそっと包み込んだ。
「章男、私はあなたと出会えたことに心から感謝してる。あなたといるから、私は幸せなの。……章男じゃなきゃだめなの。だから章男の赤ちゃんが生みたいの」
絵里は彼の目をじっと見つめ、温かな微笑みを浮かべた。
「声が出せなくても、章男には手話があるじゃない。手話で、たくさんお話ししてあげて。目を見て、笑いかけて……。私たちらしい育て方でいいんだよ。それが私たち家族なんだから」
彼女は彼の手を引き、自分のお腹へと導いた。
「章男と一緒に、この子に会いたいの」
章男は、掌から伝わる確かな温もりに、吸い込まれるように視線を落とした。
やがて、彼の強張っていた表情がふっと緩み、眉の間に寄っていた皺が消えていく。
『……絵里は、強いね』
『もうお母さんだもん!』
章男は少しだけ照れたように視線を泳がせ、それから優しく、壊れ物を扱うような手つきで絵里を抱きしめる。
そして、愛おしさを込めて、絵里に優しくキスをした。
静かな部屋の中で、二人だけの時間がゆっくりと、けれど確かに新しい未来へと動き始めた。
『わかった。……一緒に、頑張ろう。俺たちのやり方で』
その手話は静かだったけれど、絵里の心に一番深く、温かく届いた。
『……ありがとう』
その優しい顔に、絵里の瞳から涙が溢れる。
さらに月日が流れ、5月。
病室には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
入院中。まだ名前の決まっていない我が子を真ん中にして、章男と絵里は向き合っていた。章男は、眠る赤ちゃんの小さな手を壊れ物を扱うように握り、ふと顔を上げて手話を動かした。
『絵里、名前……どうしようか。』
絵里は数枚のメモを広げた。そこには、この数ヶ月間、二人が出し合った候補が並んでいる。
章男はじっとメモを見つめ、一つひとつの文字を指でなぞった。
『……「陽葵(ひまり)」はどうかな』
章男の手話が、ゆっくりと、確かな意味を持って動く。
『窓から差し込むこの「陽」だまりのような温かさと、太陽に向かって真っ直ぐに咲く「葵」の花。この子が、どんな時も光の方を向いて、温かな心を持って育ってほしいんだ。』
「陽葵……。ひまり、ね」
絵里はその名前を口の中で転がし、愛おしそうに微笑んだ。
「素敵。陽葵、聞こえてる? あなたの名前よ」
その時、寝ていた陽葵がふにゃふにゃと顔を動かし、大きく口を開けて泣き始めた。耳の聞こえない章男にその声は届かない。けれど、陽葵の喉の震え、力強く動く手足、そして空気が振動する熱量を、彼は掌(てのひら)いっぱいに受け止めていた。
章男は不思議そうな、それでいて愛おしくてたまらないという表情で絵里を見た。
『ねえ、絵里。……やっぱり、今も宇宙一可愛い声で泣いてるの?』
絵里は涙が溢れそうになるのを堪え、最高の笑顔で何度も頷いた。
「うんっ。世界一、宇宙一……最高に響く、可愛い産声」
章男は満足そうに目を細め、陽葵の小さな手に自分の指を絡めた。そこにはもう、言葉の壁も、音の有無も関係ない。
『陽葵。君が泣く声は、僕には聞こえない。けれど、君の体温や、喉の震え、力強く動く手足から、君が今どれほど一生懸命に生きているか、僕にはちゃんと伝わっているよ。
太陽に向かって咲く花のように、君がいつも光の差す方へ歩いていけますように。
僕たちが手に入れたこの「静かで温かい」この場所が、君の人生の始まりでありますように。』
『愛してる、絵里。……陽葵、生まれてきてくれてありがとう』
そこにあるのは、音のない世界で二人がようやく手に入れた、世界で一番温かなハッピーエンドの静寂だった。


