喉の奥が焼けるように熱い。
街灯の光が、滲んだ視界の中で歪な尾を引いている。
私は、震える手でバッグの奥底からスマートフォンを掴み出した。暗闇に浮かび上がった液晶の光が、私の迷いを見透かすように冷たく網膜を焼く。
指先は自分のものとは思えないほど感覚が乏しく、ただ滑らかな画面の感触だけが現実だった。
「……っ、……」
肺の酸素が足りない。必死に呼吸を繰り返すたびに、喉の熱さは増していく。
液晶に表示された『圭佑』の二文字が、また滲んで歪んだ。
いま彼を呼び出して、何を言えばいいのか。
限界だった。
思考が止まるより先に、指が動いた。
静寂を切り裂くように、無機質な呼び出し音が耳元で鳴り響く。
その一定の規則正しさが、今の自分の乱れた鼓動を嘲笑っているかのように思えて、私はただ、光の消えたアスファルトを見つめながら、彼の声を待った。
数回のコールの後、不意に音が途切れた。
『……もしもし?』
受話器越しに響くその声は、驚くほどいつも通りで、私の世界を歪ませていた光や熱が、一瞬だけ止まったような気がした。
「……あ、」
声を出そうとした。けれど、焼けるような喉の奥からは、空気の抜けるような音しか出てこない。
『……絵里? どうしたの、こんな時間に』
彼の声に、微かな懸念が混じる。それを聞いた瞬間、バッグを掴んでいた指の力が抜け、私はその場にゆっくりと崩れ落ちた。
「……けい、すけ……っ」
ようやく絞り出した名前は、ひどく掠れて震えていた。
言葉にすれば、自分がどれほどボロボロなのかを認めてしまうようで怖かった。けれど、彼は何も急かさなかった。受話器の向こうから、彼が小さく息を吐く音が聞こえる。
『今どこにいる?』
短く、けれど拒絶を許さないほど確かな声だった。
『わかった。今から行く。……電話、切らなくていいから。そのまま、俺の声だけ聞いてろ』
街灯の光は相変わらず歪んでいる。けれど、耳元から伝わる彼の体温のような声が、パニックで散り散りになった私の意識を繋ぎ止めてくれた。
「……うん。……待ってる」
暗闇の中で、液晶の光が優しく頬を照らしている。
まだ喉は熱いままだったけれど、先ほどまでの孤独な痛みとは、もう違うものに変わっていた。
遠くから響いていた足音が、目の前で止まった。
視界を塞いでいた暗闇の中に、見慣れたスニーカーと、激しく上下する肩が入り込む。
「……絵里!」
名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げると、そこには必死な形相の圭佑がいた。彼は震える私の肩を折れそうなほど強く抱きしめた。
「……とりあえず、俺の家に行こう」
圭佑はそう言って、立ち上がれない私を支えるようにして車に乗せた。窓の外を流れる夜景が、火花のように視界の端で爆ぜては消えていく。
彼の部屋に着き、温かい飲み物を差し出されても、私の指先は凍りついたままだった。ソファに沈み込み、重い口を開く。
「……彼に、話したの」
喉の奥の熱が、じりじりとせり上がってくる。
「……圭佑のこと。私たちのこと。隠しているのが、もう限界だったから……」
そのあとの光景が、フラッシュバックのように脳裏に焼き付いて離れない。私が真実を告げた瞬間、夫の顔から表情という表情が消え失せたこと。そして、彼が発した「音」のこと。
「……あんな声、聞いたことなかった」
思い出すだけで、指先が激しく震えだす。
「喉を掻き切るような……無理やり、内側から何かを絞り出すような……ひどく、痛々しい声だった。叫んでいるわけじゃないのに、言葉にもなっていないのに、ただ、壊れた楽器が鳴るみたいに、掠れた音が漏れて……」
夫が発したのは、拒絶でも怒りでもなく、ただ魂が崩壊していく音だった。その「音」が耳から離れず、私は耐えきれずに耳を塞いだ。
「怖かった。彼をそんな風にしたのが自分だって突きつけられて……。どうしていいかわからなくて、ただ、逃げることしかできなかったの」
裸足に近い状態で家を飛び出し、夜の街を彷徨い、気づけば圭佑に電話をしていた。
「私、あの人を殺してしまったのかもしれない」
震える声でそうこぼした私を、圭佑は痛みを堪えるような表情で見つめていた。
「……絵里。どうしたい?」
圭佑の問いかけは、責めるような響きではなく、ただ静かに私の核心を突いた。
私は握りしめたカップを凝視したまま、絞り出すように言葉を繋いだ。
喉の奥の熱が、今度は鋭い棘となって突き刺さる。
「……自分でも、わからない。どうして今さら、現れたの?……」
一度溢れ出した言葉は、もう止められなかった。
「圭佑が私の前から消えて、私は本当にボロボロだった。息をするのも苦しくて、世界が真っ暗で……。そんな時に、あの人が現れたの。あの人の、何もかもを包み込んでくれるような優しさに、私は救われた。……あの人がいなかったら、今の私はここにいないかもしれない」
夫の穏やかな笑顔、私の震える手を握ってくれた温もり。それは紛れもない真実で、私はその愛に生かされてきたのだ。
「それなのに……私、その優しさを踏みにじって、あの人を壊してしまった。一番傷つけてはいけない人を、私の身勝手な告白で殺してしまったの……っ」
顔を覆う指の隙間から、熱い涙がこぼれ落ちる。
「でもね、苦しいの。圭佑に再会して……心の奥底に沈めていたはずの、貴方を好きだった頃の気持ちが、嘘みたいに鮮明に蘇ってきて……。止めようと思えば思うほど、自分がどうしようもなく貴方を求めているのがわかって……」
救ってくれた夫への深い感謝と罪悪感。
そして、抗えないほど激しく再燃してしまった圭佑への想い。
「あの人の横にいなきゃいけないのに、心はここに……圭佑のところに、帰りたがってる。……私、最低だよね。あんなに優しい人を地獄に突き落としておいて、自分だけ貴方のそばにいたいなんて……」
痛々しいほどに震える声が、狭い部屋の中に虚しく響いた。私はもう、自分の居場所がどこにあるのか、どこへ向かえばいいのか、完全に見失っていた。
「……絵里。もう、いいんだ」
圭佑の声は、ひどく穏やかだった。彼は私の震える肩を抱き寄せ、耳元で言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今の話を聞いて、確信したよ。俺がいなくなったあと、お前を暗闇から連れ出してくれたのは、その人だったんだな」
「……うん、そうだよ。でも、私はその人を……」
「お前のために、そこまで壊れてしまうほどの人なんだ。そんなに深い愛情で、お前を守ってきたんだろう? ……その人を、今ひとりにしちゃいけない。今の俺たちが、その人の積み重ねてきた時間を壊していいはずがないんだ」
圭佑は私の頬を流れる涙を、指先で優しく拭った。その指の震えを隠すように、彼は少しだけ声を強める。
「俺は、お前の過去の男だ。お前がボロボロだったとき、そばにいてやれなかった。……でも、その人は違った。お前のそばに居続けてくれたんだ。今、お前を必要としているのは、俺じゃない。その人なんだよ」
「圭佑……そんなこと、言わないで……」
「帰れ、絵里。……俺が悪者でいい。俺が、お前を突き放したことにしろ。お前はただ、間違いを正しに帰るだけだ」
「送るから、乗りな」
圭佑は私の返事も待たず、コートを羽織って車のキーを掴んだ。
夜の静寂の中、車内にはエアコンの微かな作動音だけが響いている。ハンドルを握る彼の横顔は、街灯の光に照らされて、ひどく険しく、そして悲しげに見えた。
「……圭佑、どうして」
私が掠れた声でこぼすと、彼は前方を見据えたまま、自分に言い聞かせるように呟いた。
「今なら、まだ間に合うかもしれない」
その横顔には、自分の感情を無理やり押し殺している男の、悲痛な覚悟が滲んでいた。
「あの時……俺はお前の手を離した。守らなきゃいけない時にお前のそばにいなかったのは、俺だ」
赤信号で止まった車の中、彼は一瞬だけ、私の方を見ることなくハンドルを強く握りしめた。
「そんな俺が、お前を暗闇から救い出してくれた男から、今さらお前を奪っていいわけがない。そんな資格、俺には最初からないんだよ」
圭佑の言葉が、鋭い破片となって胸に刺さる。
彼は私を愛しているからこそ、自分が「救い」になれなかった過去の自分を呪い、私を救った「今の夫」に対して、逃れられない敬意と負い目を感じているのだ。
車が、私が逃げ出してきたあの家の前に止まる。
窓越しに見える家の明かりが、ひどく冷たく、それでいてどこか泣いているように見えた。
「……行け、絵里」
圭佑の声は、今にも壊れそうなほど優しかった。
私は震える指でドアを開け、一歩、外へ踏み出す。
背後で走り去る車の音を聞きながら、私は、自分が壊した「優しさ」と向き合うために、暗い玄関のドアへと手をかけた。
街灯の光が、滲んだ視界の中で歪な尾を引いている。
私は、震える手でバッグの奥底からスマートフォンを掴み出した。暗闇に浮かび上がった液晶の光が、私の迷いを見透かすように冷たく網膜を焼く。
指先は自分のものとは思えないほど感覚が乏しく、ただ滑らかな画面の感触だけが現実だった。
「……っ、……」
肺の酸素が足りない。必死に呼吸を繰り返すたびに、喉の熱さは増していく。
液晶に表示された『圭佑』の二文字が、また滲んで歪んだ。
いま彼を呼び出して、何を言えばいいのか。
限界だった。
思考が止まるより先に、指が動いた。
静寂を切り裂くように、無機質な呼び出し音が耳元で鳴り響く。
その一定の規則正しさが、今の自分の乱れた鼓動を嘲笑っているかのように思えて、私はただ、光の消えたアスファルトを見つめながら、彼の声を待った。
数回のコールの後、不意に音が途切れた。
『……もしもし?』
受話器越しに響くその声は、驚くほどいつも通りで、私の世界を歪ませていた光や熱が、一瞬だけ止まったような気がした。
「……あ、」
声を出そうとした。けれど、焼けるような喉の奥からは、空気の抜けるような音しか出てこない。
『……絵里? どうしたの、こんな時間に』
彼の声に、微かな懸念が混じる。それを聞いた瞬間、バッグを掴んでいた指の力が抜け、私はその場にゆっくりと崩れ落ちた。
「……けい、すけ……っ」
ようやく絞り出した名前は、ひどく掠れて震えていた。
言葉にすれば、自分がどれほどボロボロなのかを認めてしまうようで怖かった。けれど、彼は何も急かさなかった。受話器の向こうから、彼が小さく息を吐く音が聞こえる。
『今どこにいる?』
短く、けれど拒絶を許さないほど確かな声だった。
『わかった。今から行く。……電話、切らなくていいから。そのまま、俺の声だけ聞いてろ』
街灯の光は相変わらず歪んでいる。けれど、耳元から伝わる彼の体温のような声が、パニックで散り散りになった私の意識を繋ぎ止めてくれた。
「……うん。……待ってる」
暗闇の中で、液晶の光が優しく頬を照らしている。
まだ喉は熱いままだったけれど、先ほどまでの孤独な痛みとは、もう違うものに変わっていた。
遠くから響いていた足音が、目の前で止まった。
視界を塞いでいた暗闇の中に、見慣れたスニーカーと、激しく上下する肩が入り込む。
「……絵里!」
名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げると、そこには必死な形相の圭佑がいた。彼は震える私の肩を折れそうなほど強く抱きしめた。
「……とりあえず、俺の家に行こう」
圭佑はそう言って、立ち上がれない私を支えるようにして車に乗せた。窓の外を流れる夜景が、火花のように視界の端で爆ぜては消えていく。
彼の部屋に着き、温かい飲み物を差し出されても、私の指先は凍りついたままだった。ソファに沈み込み、重い口を開く。
「……彼に、話したの」
喉の奥の熱が、じりじりとせり上がってくる。
「……圭佑のこと。私たちのこと。隠しているのが、もう限界だったから……」
そのあとの光景が、フラッシュバックのように脳裏に焼き付いて離れない。私が真実を告げた瞬間、夫の顔から表情という表情が消え失せたこと。そして、彼が発した「音」のこと。
「……あんな声、聞いたことなかった」
思い出すだけで、指先が激しく震えだす。
「喉を掻き切るような……無理やり、内側から何かを絞り出すような……ひどく、痛々しい声だった。叫んでいるわけじゃないのに、言葉にもなっていないのに、ただ、壊れた楽器が鳴るみたいに、掠れた音が漏れて……」
夫が発したのは、拒絶でも怒りでもなく、ただ魂が崩壊していく音だった。その「音」が耳から離れず、私は耐えきれずに耳を塞いだ。
「怖かった。彼をそんな風にしたのが自分だって突きつけられて……。どうしていいかわからなくて、ただ、逃げることしかできなかったの」
裸足に近い状態で家を飛び出し、夜の街を彷徨い、気づけば圭佑に電話をしていた。
「私、あの人を殺してしまったのかもしれない」
震える声でそうこぼした私を、圭佑は痛みを堪えるような表情で見つめていた。
「……絵里。どうしたい?」
圭佑の問いかけは、責めるような響きではなく、ただ静かに私の核心を突いた。
私は握りしめたカップを凝視したまま、絞り出すように言葉を繋いだ。
喉の奥の熱が、今度は鋭い棘となって突き刺さる。
「……自分でも、わからない。どうして今さら、現れたの?……」
一度溢れ出した言葉は、もう止められなかった。
「圭佑が私の前から消えて、私は本当にボロボロだった。息をするのも苦しくて、世界が真っ暗で……。そんな時に、あの人が現れたの。あの人の、何もかもを包み込んでくれるような優しさに、私は救われた。……あの人がいなかったら、今の私はここにいないかもしれない」
夫の穏やかな笑顔、私の震える手を握ってくれた温もり。それは紛れもない真実で、私はその愛に生かされてきたのだ。
「それなのに……私、その優しさを踏みにじって、あの人を壊してしまった。一番傷つけてはいけない人を、私の身勝手な告白で殺してしまったの……っ」
顔を覆う指の隙間から、熱い涙がこぼれ落ちる。
「でもね、苦しいの。圭佑に再会して……心の奥底に沈めていたはずの、貴方を好きだった頃の気持ちが、嘘みたいに鮮明に蘇ってきて……。止めようと思えば思うほど、自分がどうしようもなく貴方を求めているのがわかって……」
救ってくれた夫への深い感謝と罪悪感。
そして、抗えないほど激しく再燃してしまった圭佑への想い。
「あの人の横にいなきゃいけないのに、心はここに……圭佑のところに、帰りたがってる。……私、最低だよね。あんなに優しい人を地獄に突き落としておいて、自分だけ貴方のそばにいたいなんて……」
痛々しいほどに震える声が、狭い部屋の中に虚しく響いた。私はもう、自分の居場所がどこにあるのか、どこへ向かえばいいのか、完全に見失っていた。
「……絵里。もう、いいんだ」
圭佑の声は、ひどく穏やかだった。彼は私の震える肩を抱き寄せ、耳元で言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今の話を聞いて、確信したよ。俺がいなくなったあと、お前を暗闇から連れ出してくれたのは、その人だったんだな」
「……うん、そうだよ。でも、私はその人を……」
「お前のために、そこまで壊れてしまうほどの人なんだ。そんなに深い愛情で、お前を守ってきたんだろう? ……その人を、今ひとりにしちゃいけない。今の俺たちが、その人の積み重ねてきた時間を壊していいはずがないんだ」
圭佑は私の頬を流れる涙を、指先で優しく拭った。その指の震えを隠すように、彼は少しだけ声を強める。
「俺は、お前の過去の男だ。お前がボロボロだったとき、そばにいてやれなかった。……でも、その人は違った。お前のそばに居続けてくれたんだ。今、お前を必要としているのは、俺じゃない。その人なんだよ」
「圭佑……そんなこと、言わないで……」
「帰れ、絵里。……俺が悪者でいい。俺が、お前を突き放したことにしろ。お前はただ、間違いを正しに帰るだけだ」
「送るから、乗りな」
圭佑は私の返事も待たず、コートを羽織って車のキーを掴んだ。
夜の静寂の中、車内にはエアコンの微かな作動音だけが響いている。ハンドルを握る彼の横顔は、街灯の光に照らされて、ひどく険しく、そして悲しげに見えた。
「……圭佑、どうして」
私が掠れた声でこぼすと、彼は前方を見据えたまま、自分に言い聞かせるように呟いた。
「今なら、まだ間に合うかもしれない」
その横顔には、自分の感情を無理やり押し殺している男の、悲痛な覚悟が滲んでいた。
「あの時……俺はお前の手を離した。守らなきゃいけない時にお前のそばにいなかったのは、俺だ」
赤信号で止まった車の中、彼は一瞬だけ、私の方を見ることなくハンドルを強く握りしめた。
「そんな俺が、お前を暗闇から救い出してくれた男から、今さらお前を奪っていいわけがない。そんな資格、俺には最初からないんだよ」
圭佑の言葉が、鋭い破片となって胸に刺さる。
彼は私を愛しているからこそ、自分が「救い」になれなかった過去の自分を呪い、私を救った「今の夫」に対して、逃れられない敬意と負い目を感じているのだ。
車が、私が逃げ出してきたあの家の前に止まる。
窓越しに見える家の明かりが、ひどく冷たく、それでいてどこか泣いているように見えた。
「……行け、絵里」
圭佑の声は、今にも壊れそうなほど優しかった。
私は震える指でドアを開け、一歩、外へ踏み出す。
背後で走り去る車の音を聞きながら、私は、自分が壊した「優しさ」と向き合うために、暗い玄関のドアへと手をかけた。


