見開かれた彼の瞳の奥には、黒い泥のような、得体の知れない恐怖が渦巻いている。
(どうして?)
喉元まで出かかった問いは、彼の震えに触れた瞬間に霧散(むさん)した。
「……そうだね。二人でいたいもんね」
私はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、彼の震える掌をそっと包み込み、その奥にある暗闇にこれ以上触れないことだけが、今の私にできる精一杯の愛だった。
彼の掌は見たこともないほど小刻みに震えている。その瞳の奥には、得体の知れない恐怖が渦巻いていた。
絶望が冷たい泥のように溜まっていく。そんな中、深夜のリビングから軋んだ「音」が聞こえてきた。
「お、は……よ……う」
ドアの隙間から覗くと、章男が喉仏に指先を当て、鏡の中の自分を厳しい目で見つめながら、必死に発声の練習をしていた。
掠(かす)れた、喉に刺さるような不器用な音が漏れ聞こえる。彼は、私の心が何よりも「声」を求めていることを、残酷なほど正確に勘付いていたのだ。
自分にとっての平穏であるはずの「静寂」をかなぐり捨ててまで、私に寄り添おうとするその自己犠牲。それは紛れもない愛なのだろう。けれど、今の私にはその献身が、逃げ場を奪う暴力のようにすら感じられた。
彼が発する一音一音が、私の沈黙を責め立てる楔(くさび)のように打ち込まれる。
私は彼に声をかけることも、その健気な努力を称えることもできず、ただ暗闇の中で立ち尽くすしかなかった。
鏡に映る彼の喉の震えを見るのが、たまらなく苦しい。
必死であればあるほど、章男という存在が、今の私には少し疎ましく、そしてひどく遠い生き物のように思えてしまった。
数日後。平穏を装う私たちの日常に、決定的な亀裂が入る。
週明け、章男が工場に古くからいる職人にスマホの画面を見せられた。「駅前のカフェで奥さんを見かけた」という目撃談。
章男の胸を冷たい風が吹き抜けた。彼は絵里を疑ったことなどなかったが、自分が「子供はいらない」と拒絶した裏で、彼女は誰の「声」を聞いていたのだろうか。
午後の工場。窓から差し込む斜光には細かな鉄粉が舞い、いつも通りの、しかし今日に限っては耐え難いほどの静寂が満ちていた。
父は奥のデスクで伝票をめくる音だけをさせ、古参の職人は黙々とボルトのタップを切っている。
言葉など交わさずとも、互いの呼吸ひとつで「何かがある」ことは察しがついてしまう。
章男は研磨機(グラインダー)に向かっていた。火花がオレンジ色の軌跡を描き、手元を熱く照らす。しかし、その熱さえも、胸の奥にある冷たい洞を埋めることはできない。
(「子供はいらない」……絵里はあの時、どんな顔をして俺を見ていたんだろうか)
機械を止める。急に訪れる静寂に耐えられず、章男は不自然に工具を並べ替えた。その背中に、古い職人の視線が刺さる。彼は章男が幼い頃からこの工場にいて、近頃の彼がおかしいことは、すべてお見通しなのだ。
コンベアの低い唸りがふっと途切れ、工場の埃っぽい空気が急に軽くなった。それがこの場所における、音のない定時の合図だ。
章男は手早く作業着を脱ぎ、石鹸で何度も手を洗った。爪の間に染み込んだ機械油は、どれだけ擦っても完全には落ちない。それがまるで、自分の体から消えない「しがない現実」の象徴のように思えた。
「お先に失礼します」
父と職人に短く告げ、返事も待たずに工場を後にした。夕暮れの町は、家路を急ぐ人々の生活の音で溢れている。スーパーの袋を下げた主婦、塾に向かう中学生、そして、父親の自転車の後ろに乗って笑う幼い子供。
その光景から逃げるように、章男は視線をアスファルトに落とした。
これまでは、仕事が終われば「安らげる場所」へ帰るのだと信じて疑わなかった。しかし今の章男にとって、自宅までの道のりは、正体のわからない「真実」と対峙するための処刑台へと続く階段のようだった。
コンビニに寄る気力も起きず、ただ淡々と足を動かす。
駅前の喧騒を抜け、住宅街の静かな路地に入ると、街灯がポツポツと灯り始めた。その頼りない光が、章男の影を長く、歪に引き伸ばす。
角を曲がれば、自分の家が見える。
絵里はいつも通り、定時に退勤して駅へ向かっているはずだ。
スーパーに寄るのか、それとも真っ直ぐ帰るのか。章男には、その「日常の足取り」さえも、今の自分には触れてはいけない聖域のように感じられた。
家の前に立ち、章男は一度深く息を吐いた。鉄の匂いが染み付いた掌で、冷え切ったドアノブを握る。
その指先は、昼間の工場の時よりも、ずっと激しく震えていた。
絵里はいつも通り、定時に帰宅してきた。
エプロンを締め、手際よく夕食を並べている。その背中には、隠し事があるようには見えない。
テレビからは、絵里がつけたニュース番組の音が微かに流れている。けれど、章男にとっての世界は、いつものように深い静寂に包まれていた。
章男はソファに座ったまま、彼女の細い指先や、時折ふんわりと揺れる髪を見つめていた。職場で聞いた「駅前のカフェで奥さんを見た」という言葉。
だからこそ、頭の中では鮮明すぎるほどに、自分以外の誰かと向き合う彼女の姿が再生されてしまう。
(絵里、今は他の誰かの「声」を求めているの?)
自分には決して届かない、音としての言葉。
自分が「子供はいらない」と拒絶したせいで、彼女は自分と共有できない世界に救いを求めているのではないか。その疑念が、章男の心に冷たい隙間風を吹かせる。
「章男、できたよ。」
絵里が振り向き、柔らかな笑みを浮かべて手話を添える。
章男はゆっくりと立ち上がり、食卓ではなく、まっすぐ彼女の方へ歩み寄った。
絵里が不思議そうに目をしばたたく。その無防備な、穏やかすぎる表情。
【絵里】
章男の手が、空気を切るように力強く動く。
【……誰と会っていたの?誰の声を聞いていたの?】
一瞬、聞こうとした手が止まる。もし嘘を吐かれたら。その嘘を、自分は彼女の表情から読み取ってしまえるだろう。
それが怖くて、章男は結局、その問いを指先から消した。
代わりに、彼は絵里の肩を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「……!?」
「章男、どうしたの?」
驚きを隠せない様子の絵里が、章男の背中を優しく撫でる。
その温もりに、章男は少しだけ安堵した。
「……ううん、なんでもない。ご飯、食べよう」
章男は絵里から離れ、少し照れくさそうに笑った。
その表情には、先ほどまでの迷いや不安は消えていた。
絵里も、章男の様子に戸惑いながらも、優しく微笑み返した。
夕食の片付けを終え、寝室に向かうと、そこには先に横たわった章男がいた。彼は少しだけ上体を起こすと、自分の隣のスペースを作るようにゆっくりと羽毛布団をめくる。
章男は一度視線を落とし、言葉にならない感情を飲み込んだ。そして、今度はもっと直接的に、熱を帯びた視線で彼女を捉え直す。
持ち上げられた彼の手が、静かに、けれど明確な意味を持って動き出す。
まず、横たわっているベッドの表面を、手のひらでトン、トンと二度叩いた。場所を指し示す「ここ(ベッド)」という合図。
続いて、開いた片手のひらを自分の方へ向けて、空気を掻き寄せるように手繰り寄せる。「おいで」。
その動きは先ほどよりも小さく、どこか湿り気を帯びていた。
絵里が吸い寄せられるようにその腕の中へ滑り込むと、章男はすぐに彼女を抱きすくめ、逃がさないように布団を被せた。
数日前に圭佑に抱かれた体。
彼の熱も、吐息も、耳元で聞いた「守るための嘘」の告白も、まだこの肌のすぐ裏側に鮮明に残っている。そんな汚れた体で章男の横に横たわることが、言いようのない嫌悪感となって私を苛んだ。
章男の抱擁は温かく、穏やかで、何の疑いもない。その優しさが、今の私には鋭い刃のように突き刺さる。
「……手が冷たいね、絵里」
章男が私の手を包み込み、温めようとする。
その温もりを感じるたびに、圭佑の激しい情熱と、彼が隠し持っていた孤独な愛の重さが、私の心の中で激しくせめぎ合った。
戻るべき場所に戻ってきたはずなのに、心はここにはない。
布団の中で章男に抱かれながら、私は自分が、どちらの愛によって壊されていくのか分からなくなっていた。
最初は、いつもの彼だった。
絵里の頬を大きな掌で包み込み、宝物を扱うような手つきで髪をかき上げる。額、鼻先、そして唇へ。羽毛が触れるような、淡く優しい口づけを何度も重ねていく。
だが、絵里がその優しさに身を委ね、甘い吐息を漏らした瞬間。
章男の瞳の奥で、獣のような光が静かに、けれど激しく灯った。
彼女が他の男に向ける笑顔。動く唇。
その先で生まれているはずの、俺の知らない「えりの声」。
周囲の男たちが当たり前に享受しているその「音」は、俺の世界にだけは決して届かない。
その事実が、胸の奥を焼くように蝕んでいく。
悔しくて、どうしようもなく惨めで、狂いそうなほどの独占欲が跳ね上がった。
俺はえりの肩を掴み、奪うように唇を重ねた。
最初は縋るような、けれどすぐに飢えた獣のような激しさを帯びていく。
言葉を介せないのなら、その熱を、鼓動を、震えを、直接俺の体に刻み込むしかない。
絵里の驚いたような吐息が、漏れた熱が、俺の頬を撫でる。
聞こえない。それでも、重なり合った唇の隙間から溢れる吐息の熱量で、彼女が今どんな風に喘いでいるのかを、皮膚が、細胞が、必死に感じ取ろうとする。
絵里、絵里の声が聞きたい…
彼女の声が響いているであろう喉元を、せめてこの指先で、唇で、その振動さえも逃さないように。
「俺だけが、絵里を一番近くで感じているんだ」
音にならない叫びを飲み込むように、俺はさらに深く、彼女の柔らかな内側にまで侵食するように、何度も何度も口づけを繰り返した。
自分に「音」は聞こえなくても、今この腕の中にいる彼女の鼓動だけは、自分のものだと思いたかった。
章男は不安と嫉妬で、視界が白く濁るような感覚に陥っていた。
言葉という頼りない架け橋を失った彼にとって、目の前の静寂は時として、底の見えない淵のように感じられる。絵里が誰を想い、その胸の内にどんな「声」を秘めているのか。
見つめるだけでは届かない領域を、彼は暴力的なまでの切実さで埋めようとしていた。
喉の奥で押し殺した呻きは、形を成さない祈りに近い。
彼は彼女の背中に手を回し、折れそうなほど強く抱き寄せた。指先が彼女の肌に食い込み、その熱を、柔らかな抵抗を、ひとつ残らず記憶に刻み込もうとする。
もしも今、この瞬間の彼女が自分だけのものだと言い切れる証拠があるとするなら、それは互いの体温が混じり合い、境界が消えるほどのこの圧迫感だけだ。
自分を縛りつける静寂を、彼女の存在という圧倒的な質量で塗りつぶしていく。
章男は、酸素を求めるように絵里の首筋に顔を埋めた。聞こえないはずの「音」の代わりに、肌を伝って響いてくる規則正しい鼓動。それは今、確かに自分の腕の中で激しく波打っている。
その震えだけが、暗闇を彷徨う彼の心を、かろうじて現実へと繋ぎ止めていた。
絵里は何も知らない。夫がカフェでの目撃談に怯えていることも、自分が疑われていることも。ただ、今夜の章男の抱擁が、逃げる隙を与えないほど必死で、痛いほどに切実であることに驚きながら、そっと彼の背中に手を回した。
章男は絶頂の際、縋るように絵里の肩を二度叩いた。
嵐が過ぎ去ったあとの静寂の中で、絵里が戸惑ったように声を出す。
「……どうしたの? 今日の章男、なんだか変だよ」
章男は我に返り、彼女の肩に指先を這わせた。
「ごめん。……痛かった?」
「ううん、そうじゃないけど」
絵里はそれ以上言わず、章男の胸に顔を埋めた。
静まり返った寝室。事後の気だるい熱が、肌と肌の隙間からゆっくりと逃げていく。
横たわったままの二人の間には、シーツが擦れる衣擦れの音だけが、やけに鮮明な輪郭を持って響いていた。
彼の腕枕に頭を預けていた絵里は、隣に眠る彼の、わずかな異変に気づく。
天井を見つめる彼の瞳は揺れ、胸元でその大きな手が、迷うように、けれど確かな形を描き始めた。
両腕を丸め、目に見えない小さな命をあやすような動作。
――「赤ちゃん」。
その手話は、いつもなら愛おしさに満ちているはずなのに、今の彼の動きはどこか壊れ物を扱うように危うい。
『絵里……赤ちゃんほしくないって言ったの、怒ってる?』
絞り出すような手話に、絵里は即座に首を振った。
「怒っていないよ……」
声で答えながら、彼の胸にそっと手を置く。ドクドクと、彼の不安が鼓動となって手のひらに伝わってきた。彼は視線を落としたまま、指先を震わせ、言葉を繋いだ。
『怖いんだ。産まれた子が、音のない世界で僕と同じ孤独を味わうかもしれないと思うと……』
シーツを擦る指先が、空中で悲痛な弧を描く。
『僕に、親になる資格なんてない』
そう綴り終えた彼の手が、力なくシーツの上に落ちた。
寝転がったまま見上げる彼の横顔は、愛を分かち合った直後だというのに、ひどく遠い場所にいるように見えた。
絵里は何も言わず、彼の大きな手を自分の両手で包み込んだ。
指先は冷え切っている。
彼女はそのまま、彼の耳元に唇を寄せ、音にならなくても伝わるように、ゆっくりと、祈るように囁いた。
彼にとって血を分けた子を持つことは、祝福ではなく「呪いの継承」に等しい恐怖なのだ。私を繋ぎ止めるはずだった希望は、分かち合えない静寂の溝へと消えた。
どこまでも真っ直ぐな彼の誠実さ。私は、不倫の衝動を抑える「道具」として子を望んだのに。その対比に、私の心の中で張り詰めていた何かがぷつりと切れた。
寝室の闇の中で、私は章男の胸に顔を埋めたまま、言葉を失っていた
彼に抱きしめられ、その体温を感じるたびに、喉の奥まで出かかった言葉が熱い塊となってせり上がってくる。けれど、それは声にはならなかった。
今の私には、章男の混じりけのない優しさに応える言葉が一つも見つからない。嘘をつくことも、かといって真実を告げてこの安らかな寝息を止める勇気も、今の私にはなかった。
ただ、彼が私の背中に回した手の温もりだけが、現実味を持って私を責め立てる。
「……っ」
声にならない嗚咽を飲み込み、私はただ、章男の心音を聞いていた。トクン、トクンと刻まれる一定のリズム。その誠実な響きが、嘘にまみれた私の輪郭を浮き彫りにしていく。
何も話せないまま、ただ時間だけが過ぎていく。章男の腕の中で、私は深い罪悪感という名の沼に沈み込みながら、夜が明けないことだけを願っていた。
夕食の後の、なんてことのない時間。
リビングの空気は、不自然なほどに澄んでいた。それがかえって、私の肺を鋭く突き刺す。
テレビの音を消した瞬間、世界から色が消え、章男と私の間に、重く濁った沈黙だけが横たわった。
なぜ、私はこの平穏を自ら壊そうとしているのか。
それは、昨夜、彼の腕の中で感じた絶望的なまでの「距離」のせいだった。
私を抱きしめる彼の鼓動が聞こえるたびに、私の脳裏にはあの人の「声」が響く。章男が私を深く愛せば愛するほど、その純粋な光が、私の内側にあるドロドロとした澱みを、逃げ場のないほど鮮明に照らし出してしまう。
(この人は、偽物の私を愛している)
その事実に耐えられなかった。黙って微笑み返し、彼に優しい嘘をつき続けることは、章男を私の人生の「外側」に追いやり続けることだ。彼を騙し、何も知らない部外者に留めておくことこそが、最大の裏切りではないか。
それに、私は怖かったのだ。
再会してしまったあの人の声が、甘く、毒のように私の日常を侵食していく。自分一人の意志では、もうこの揺らぎを止められない。
だから、私は彼に毒を差し出した。
「……ねえ、章男。聞いて」
全部話して、壊してほしかった。
彼に軽蔑され、拒絶され、この温かい場所から引きずり下ろされること。それだけが、この息苦しい沼から私を救い出してくれる「罰」になると信じていた。自分の汚れを彼に塗りつけ、彼を絶望の淵に引きずり下ろしてでも、私は彼と「真実」の中で繋がりたかった。
絞り出すような告白が終わり、私は彼に断罪されるのを待った。
けれど、章男は怒ることも、立ち上がることもなかった。ただ、凪いだ海のような瞳で、私の崩壊を見つめていた。
3年前の不倫、最近再会したこと、そして今、その「声」に心が揺れていること。一言ずつ、絞り出すように打ち明ける私の唇を、章男は真っ直ぐに見つめていた。
「……知っていたよ。絵里に、忘れられない人がいること」
その言葉に、私は息を呑んだ。彼は動揺する様子もなく、ただ穏やかに、けれどどこか寂しげな眼差しを私に向けていた。
「出会った時から、気づいてたんだ。絵里の瞳の奥に、俺の手が届かない場所があるって。……でも、一緒に過ごすうちに、俺だけを見てくれるようになった。だから、手が届かない場所があってもいいと思ってたんだ。絵里の過去ごと、愛しているつもりだったから」
心臓が止まるかと思った。彼は最初から気づいていた。
『どこを直せばいい? 何を変えれば、絵里の心は戻ってくる?』
その言葉は、どんな罵声よりも鋭く私の胸をえぐった。悪いのは私なのに、彼は自分を削って私を繋ぎ止めようとする。
「……章男」
絞り出すような声が、自分でも驚くほど震えている。
どこも悪くない。章男は、夫として、一人の人間として、非の打ち所がないほどに私を大切にしてくれた。
私を愛し、守り、慈しんでくれた。その記憶に嘘はないし、私は確かに、彼のことを心の底から愛していたのだ。
けれど、今の私の胸を焦がしているのは、その温かな記憶ではない。
「章男は、何も悪くないの。……本当に、どこも悪くない」
心の中で、何度もその言葉を繰り返す。けれど、それを口にするたびに、私の心は彼から遠ざかっていく。
理由は、章男の欠落にあるのではない。ただ、どうしようもなく、私は圭佑に惹かれてしまった。彼と目が合うたび、肌が触れるたびに、理性が悲鳴をあげて崩壊していく。その暴力的なまでの衝動を、章男の穏やかな愛で抑え込むことはもうできなかった。
「ごめんなさい。あなたが悪いわけじゃないの。ただ……私が、変わってしまっただけ」
私を繋ぎ止めようと差し出された章男の手を、私は握り返すことができなかった。
その夜を境に、章男は自分の枕を持って隣の部屋で寝るようになった。壁一枚を隔てた、何の音も聞こえてこない静寂。
それが、私たちが築き上げてきた「箱庭」が、音を立てずに崩壊した合図だった。愛されているという幸福が、今の私には、どんな毒薬よりも苦く感じられた。
(どうして?)
喉元まで出かかった問いは、彼の震えに触れた瞬間に霧散(むさん)した。
「……そうだね。二人でいたいもんね」
私はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、彼の震える掌をそっと包み込み、その奥にある暗闇にこれ以上触れないことだけが、今の私にできる精一杯の愛だった。
彼の掌は見たこともないほど小刻みに震えている。その瞳の奥には、得体の知れない恐怖が渦巻いていた。
絶望が冷たい泥のように溜まっていく。そんな中、深夜のリビングから軋んだ「音」が聞こえてきた。
「お、は……よ……う」
ドアの隙間から覗くと、章男が喉仏に指先を当て、鏡の中の自分を厳しい目で見つめながら、必死に発声の練習をしていた。
掠(かす)れた、喉に刺さるような不器用な音が漏れ聞こえる。彼は、私の心が何よりも「声」を求めていることを、残酷なほど正確に勘付いていたのだ。
自分にとっての平穏であるはずの「静寂」をかなぐり捨ててまで、私に寄り添おうとするその自己犠牲。それは紛れもない愛なのだろう。けれど、今の私にはその献身が、逃げ場を奪う暴力のようにすら感じられた。
彼が発する一音一音が、私の沈黙を責め立てる楔(くさび)のように打ち込まれる。
私は彼に声をかけることも、その健気な努力を称えることもできず、ただ暗闇の中で立ち尽くすしかなかった。
鏡に映る彼の喉の震えを見るのが、たまらなく苦しい。
必死であればあるほど、章男という存在が、今の私には少し疎ましく、そしてひどく遠い生き物のように思えてしまった。
数日後。平穏を装う私たちの日常に、決定的な亀裂が入る。
週明け、章男が工場に古くからいる職人にスマホの画面を見せられた。「駅前のカフェで奥さんを見かけた」という目撃談。
章男の胸を冷たい風が吹き抜けた。彼は絵里を疑ったことなどなかったが、自分が「子供はいらない」と拒絶した裏で、彼女は誰の「声」を聞いていたのだろうか。
午後の工場。窓から差し込む斜光には細かな鉄粉が舞い、いつも通りの、しかし今日に限っては耐え難いほどの静寂が満ちていた。
父は奥のデスクで伝票をめくる音だけをさせ、古参の職人は黙々とボルトのタップを切っている。
言葉など交わさずとも、互いの呼吸ひとつで「何かがある」ことは察しがついてしまう。
章男は研磨機(グラインダー)に向かっていた。火花がオレンジ色の軌跡を描き、手元を熱く照らす。しかし、その熱さえも、胸の奥にある冷たい洞を埋めることはできない。
(「子供はいらない」……絵里はあの時、どんな顔をして俺を見ていたんだろうか)
機械を止める。急に訪れる静寂に耐えられず、章男は不自然に工具を並べ替えた。その背中に、古い職人の視線が刺さる。彼は章男が幼い頃からこの工場にいて、近頃の彼がおかしいことは、すべてお見通しなのだ。
コンベアの低い唸りがふっと途切れ、工場の埃っぽい空気が急に軽くなった。それがこの場所における、音のない定時の合図だ。
章男は手早く作業着を脱ぎ、石鹸で何度も手を洗った。爪の間に染み込んだ機械油は、どれだけ擦っても完全には落ちない。それがまるで、自分の体から消えない「しがない現実」の象徴のように思えた。
「お先に失礼します」
父と職人に短く告げ、返事も待たずに工場を後にした。夕暮れの町は、家路を急ぐ人々の生活の音で溢れている。スーパーの袋を下げた主婦、塾に向かう中学生、そして、父親の自転車の後ろに乗って笑う幼い子供。
その光景から逃げるように、章男は視線をアスファルトに落とした。
これまでは、仕事が終われば「安らげる場所」へ帰るのだと信じて疑わなかった。しかし今の章男にとって、自宅までの道のりは、正体のわからない「真実」と対峙するための処刑台へと続く階段のようだった。
コンビニに寄る気力も起きず、ただ淡々と足を動かす。
駅前の喧騒を抜け、住宅街の静かな路地に入ると、街灯がポツポツと灯り始めた。その頼りない光が、章男の影を長く、歪に引き伸ばす。
角を曲がれば、自分の家が見える。
絵里はいつも通り、定時に退勤して駅へ向かっているはずだ。
スーパーに寄るのか、それとも真っ直ぐ帰るのか。章男には、その「日常の足取り」さえも、今の自分には触れてはいけない聖域のように感じられた。
家の前に立ち、章男は一度深く息を吐いた。鉄の匂いが染み付いた掌で、冷え切ったドアノブを握る。
その指先は、昼間の工場の時よりも、ずっと激しく震えていた。
絵里はいつも通り、定時に帰宅してきた。
エプロンを締め、手際よく夕食を並べている。その背中には、隠し事があるようには見えない。
テレビからは、絵里がつけたニュース番組の音が微かに流れている。けれど、章男にとっての世界は、いつものように深い静寂に包まれていた。
章男はソファに座ったまま、彼女の細い指先や、時折ふんわりと揺れる髪を見つめていた。職場で聞いた「駅前のカフェで奥さんを見た」という言葉。
だからこそ、頭の中では鮮明すぎるほどに、自分以外の誰かと向き合う彼女の姿が再生されてしまう。
(絵里、今は他の誰かの「声」を求めているの?)
自分には決して届かない、音としての言葉。
自分が「子供はいらない」と拒絶したせいで、彼女は自分と共有できない世界に救いを求めているのではないか。その疑念が、章男の心に冷たい隙間風を吹かせる。
「章男、できたよ。」
絵里が振り向き、柔らかな笑みを浮かべて手話を添える。
章男はゆっくりと立ち上がり、食卓ではなく、まっすぐ彼女の方へ歩み寄った。
絵里が不思議そうに目をしばたたく。その無防備な、穏やかすぎる表情。
【絵里】
章男の手が、空気を切るように力強く動く。
【……誰と会っていたの?誰の声を聞いていたの?】
一瞬、聞こうとした手が止まる。もし嘘を吐かれたら。その嘘を、自分は彼女の表情から読み取ってしまえるだろう。
それが怖くて、章男は結局、その問いを指先から消した。
代わりに、彼は絵里の肩を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「……!?」
「章男、どうしたの?」
驚きを隠せない様子の絵里が、章男の背中を優しく撫でる。
その温もりに、章男は少しだけ安堵した。
「……ううん、なんでもない。ご飯、食べよう」
章男は絵里から離れ、少し照れくさそうに笑った。
その表情には、先ほどまでの迷いや不安は消えていた。
絵里も、章男の様子に戸惑いながらも、優しく微笑み返した。
夕食の片付けを終え、寝室に向かうと、そこには先に横たわった章男がいた。彼は少しだけ上体を起こすと、自分の隣のスペースを作るようにゆっくりと羽毛布団をめくる。
章男は一度視線を落とし、言葉にならない感情を飲み込んだ。そして、今度はもっと直接的に、熱を帯びた視線で彼女を捉え直す。
持ち上げられた彼の手が、静かに、けれど明確な意味を持って動き出す。
まず、横たわっているベッドの表面を、手のひらでトン、トンと二度叩いた。場所を指し示す「ここ(ベッド)」という合図。
続いて、開いた片手のひらを自分の方へ向けて、空気を掻き寄せるように手繰り寄せる。「おいで」。
その動きは先ほどよりも小さく、どこか湿り気を帯びていた。
絵里が吸い寄せられるようにその腕の中へ滑り込むと、章男はすぐに彼女を抱きすくめ、逃がさないように布団を被せた。
数日前に圭佑に抱かれた体。
彼の熱も、吐息も、耳元で聞いた「守るための嘘」の告白も、まだこの肌のすぐ裏側に鮮明に残っている。そんな汚れた体で章男の横に横たわることが、言いようのない嫌悪感となって私を苛んだ。
章男の抱擁は温かく、穏やかで、何の疑いもない。その優しさが、今の私には鋭い刃のように突き刺さる。
「……手が冷たいね、絵里」
章男が私の手を包み込み、温めようとする。
その温もりを感じるたびに、圭佑の激しい情熱と、彼が隠し持っていた孤独な愛の重さが、私の心の中で激しくせめぎ合った。
戻るべき場所に戻ってきたはずなのに、心はここにはない。
布団の中で章男に抱かれながら、私は自分が、どちらの愛によって壊されていくのか分からなくなっていた。
最初は、いつもの彼だった。
絵里の頬を大きな掌で包み込み、宝物を扱うような手つきで髪をかき上げる。額、鼻先、そして唇へ。羽毛が触れるような、淡く優しい口づけを何度も重ねていく。
だが、絵里がその優しさに身を委ね、甘い吐息を漏らした瞬間。
章男の瞳の奥で、獣のような光が静かに、けれど激しく灯った。
彼女が他の男に向ける笑顔。動く唇。
その先で生まれているはずの、俺の知らない「えりの声」。
周囲の男たちが当たり前に享受しているその「音」は、俺の世界にだけは決して届かない。
その事実が、胸の奥を焼くように蝕んでいく。
悔しくて、どうしようもなく惨めで、狂いそうなほどの独占欲が跳ね上がった。
俺はえりの肩を掴み、奪うように唇を重ねた。
最初は縋るような、けれどすぐに飢えた獣のような激しさを帯びていく。
言葉を介せないのなら、その熱を、鼓動を、震えを、直接俺の体に刻み込むしかない。
絵里の驚いたような吐息が、漏れた熱が、俺の頬を撫でる。
聞こえない。それでも、重なり合った唇の隙間から溢れる吐息の熱量で、彼女が今どんな風に喘いでいるのかを、皮膚が、細胞が、必死に感じ取ろうとする。
絵里、絵里の声が聞きたい…
彼女の声が響いているであろう喉元を、せめてこの指先で、唇で、その振動さえも逃さないように。
「俺だけが、絵里を一番近くで感じているんだ」
音にならない叫びを飲み込むように、俺はさらに深く、彼女の柔らかな内側にまで侵食するように、何度も何度も口づけを繰り返した。
自分に「音」は聞こえなくても、今この腕の中にいる彼女の鼓動だけは、自分のものだと思いたかった。
章男は不安と嫉妬で、視界が白く濁るような感覚に陥っていた。
言葉という頼りない架け橋を失った彼にとって、目の前の静寂は時として、底の見えない淵のように感じられる。絵里が誰を想い、その胸の内にどんな「声」を秘めているのか。
見つめるだけでは届かない領域を、彼は暴力的なまでの切実さで埋めようとしていた。
喉の奥で押し殺した呻きは、形を成さない祈りに近い。
彼は彼女の背中に手を回し、折れそうなほど強く抱き寄せた。指先が彼女の肌に食い込み、その熱を、柔らかな抵抗を、ひとつ残らず記憶に刻み込もうとする。
もしも今、この瞬間の彼女が自分だけのものだと言い切れる証拠があるとするなら、それは互いの体温が混じり合い、境界が消えるほどのこの圧迫感だけだ。
自分を縛りつける静寂を、彼女の存在という圧倒的な質量で塗りつぶしていく。
章男は、酸素を求めるように絵里の首筋に顔を埋めた。聞こえないはずの「音」の代わりに、肌を伝って響いてくる規則正しい鼓動。それは今、確かに自分の腕の中で激しく波打っている。
その震えだけが、暗闇を彷徨う彼の心を、かろうじて現実へと繋ぎ止めていた。
絵里は何も知らない。夫がカフェでの目撃談に怯えていることも、自分が疑われていることも。ただ、今夜の章男の抱擁が、逃げる隙を与えないほど必死で、痛いほどに切実であることに驚きながら、そっと彼の背中に手を回した。
章男は絶頂の際、縋るように絵里の肩を二度叩いた。
嵐が過ぎ去ったあとの静寂の中で、絵里が戸惑ったように声を出す。
「……どうしたの? 今日の章男、なんだか変だよ」
章男は我に返り、彼女の肩に指先を這わせた。
「ごめん。……痛かった?」
「ううん、そうじゃないけど」
絵里はそれ以上言わず、章男の胸に顔を埋めた。
静まり返った寝室。事後の気だるい熱が、肌と肌の隙間からゆっくりと逃げていく。
横たわったままの二人の間には、シーツが擦れる衣擦れの音だけが、やけに鮮明な輪郭を持って響いていた。
彼の腕枕に頭を預けていた絵里は、隣に眠る彼の、わずかな異変に気づく。
天井を見つめる彼の瞳は揺れ、胸元でその大きな手が、迷うように、けれど確かな形を描き始めた。
両腕を丸め、目に見えない小さな命をあやすような動作。
――「赤ちゃん」。
その手話は、いつもなら愛おしさに満ちているはずなのに、今の彼の動きはどこか壊れ物を扱うように危うい。
『絵里……赤ちゃんほしくないって言ったの、怒ってる?』
絞り出すような手話に、絵里は即座に首を振った。
「怒っていないよ……」
声で答えながら、彼の胸にそっと手を置く。ドクドクと、彼の不安が鼓動となって手のひらに伝わってきた。彼は視線を落としたまま、指先を震わせ、言葉を繋いだ。
『怖いんだ。産まれた子が、音のない世界で僕と同じ孤独を味わうかもしれないと思うと……』
シーツを擦る指先が、空中で悲痛な弧を描く。
『僕に、親になる資格なんてない』
そう綴り終えた彼の手が、力なくシーツの上に落ちた。
寝転がったまま見上げる彼の横顔は、愛を分かち合った直後だというのに、ひどく遠い場所にいるように見えた。
絵里は何も言わず、彼の大きな手を自分の両手で包み込んだ。
指先は冷え切っている。
彼女はそのまま、彼の耳元に唇を寄せ、音にならなくても伝わるように、ゆっくりと、祈るように囁いた。
彼にとって血を分けた子を持つことは、祝福ではなく「呪いの継承」に等しい恐怖なのだ。私を繋ぎ止めるはずだった希望は、分かち合えない静寂の溝へと消えた。
どこまでも真っ直ぐな彼の誠実さ。私は、不倫の衝動を抑える「道具」として子を望んだのに。その対比に、私の心の中で張り詰めていた何かがぷつりと切れた。
寝室の闇の中で、私は章男の胸に顔を埋めたまま、言葉を失っていた
彼に抱きしめられ、その体温を感じるたびに、喉の奥まで出かかった言葉が熱い塊となってせり上がってくる。けれど、それは声にはならなかった。
今の私には、章男の混じりけのない優しさに応える言葉が一つも見つからない。嘘をつくことも、かといって真実を告げてこの安らかな寝息を止める勇気も、今の私にはなかった。
ただ、彼が私の背中に回した手の温もりだけが、現実味を持って私を責め立てる。
「……っ」
声にならない嗚咽を飲み込み、私はただ、章男の心音を聞いていた。トクン、トクンと刻まれる一定のリズム。その誠実な響きが、嘘にまみれた私の輪郭を浮き彫りにしていく。
何も話せないまま、ただ時間だけが過ぎていく。章男の腕の中で、私は深い罪悪感という名の沼に沈み込みながら、夜が明けないことだけを願っていた。
夕食の後の、なんてことのない時間。
リビングの空気は、不自然なほどに澄んでいた。それがかえって、私の肺を鋭く突き刺す。
テレビの音を消した瞬間、世界から色が消え、章男と私の間に、重く濁った沈黙だけが横たわった。
なぜ、私はこの平穏を自ら壊そうとしているのか。
それは、昨夜、彼の腕の中で感じた絶望的なまでの「距離」のせいだった。
私を抱きしめる彼の鼓動が聞こえるたびに、私の脳裏にはあの人の「声」が響く。章男が私を深く愛せば愛するほど、その純粋な光が、私の内側にあるドロドロとした澱みを、逃げ場のないほど鮮明に照らし出してしまう。
(この人は、偽物の私を愛している)
その事実に耐えられなかった。黙って微笑み返し、彼に優しい嘘をつき続けることは、章男を私の人生の「外側」に追いやり続けることだ。彼を騙し、何も知らない部外者に留めておくことこそが、最大の裏切りではないか。
それに、私は怖かったのだ。
再会してしまったあの人の声が、甘く、毒のように私の日常を侵食していく。自分一人の意志では、もうこの揺らぎを止められない。
だから、私は彼に毒を差し出した。
「……ねえ、章男。聞いて」
全部話して、壊してほしかった。
彼に軽蔑され、拒絶され、この温かい場所から引きずり下ろされること。それだけが、この息苦しい沼から私を救い出してくれる「罰」になると信じていた。自分の汚れを彼に塗りつけ、彼を絶望の淵に引きずり下ろしてでも、私は彼と「真実」の中で繋がりたかった。
絞り出すような告白が終わり、私は彼に断罪されるのを待った。
けれど、章男は怒ることも、立ち上がることもなかった。ただ、凪いだ海のような瞳で、私の崩壊を見つめていた。
3年前の不倫、最近再会したこと、そして今、その「声」に心が揺れていること。一言ずつ、絞り出すように打ち明ける私の唇を、章男は真っ直ぐに見つめていた。
「……知っていたよ。絵里に、忘れられない人がいること」
その言葉に、私は息を呑んだ。彼は動揺する様子もなく、ただ穏やかに、けれどどこか寂しげな眼差しを私に向けていた。
「出会った時から、気づいてたんだ。絵里の瞳の奥に、俺の手が届かない場所があるって。……でも、一緒に過ごすうちに、俺だけを見てくれるようになった。だから、手が届かない場所があってもいいと思ってたんだ。絵里の過去ごと、愛しているつもりだったから」
心臓が止まるかと思った。彼は最初から気づいていた。
『どこを直せばいい? 何を変えれば、絵里の心は戻ってくる?』
その言葉は、どんな罵声よりも鋭く私の胸をえぐった。悪いのは私なのに、彼は自分を削って私を繋ぎ止めようとする。
「……章男」
絞り出すような声が、自分でも驚くほど震えている。
どこも悪くない。章男は、夫として、一人の人間として、非の打ち所がないほどに私を大切にしてくれた。
私を愛し、守り、慈しんでくれた。その記憶に嘘はないし、私は確かに、彼のことを心の底から愛していたのだ。
けれど、今の私の胸を焦がしているのは、その温かな記憶ではない。
「章男は、何も悪くないの。……本当に、どこも悪くない」
心の中で、何度もその言葉を繰り返す。けれど、それを口にするたびに、私の心は彼から遠ざかっていく。
理由は、章男の欠落にあるのではない。ただ、どうしようもなく、私は圭佑に惹かれてしまった。彼と目が合うたび、肌が触れるたびに、理性が悲鳴をあげて崩壊していく。その暴力的なまでの衝動を、章男の穏やかな愛で抑え込むことはもうできなかった。
「ごめんなさい。あなたが悪いわけじゃないの。ただ……私が、変わってしまっただけ」
私を繋ぎ止めようと差し出された章男の手を、私は握り返すことができなかった。
その夜を境に、章男は自分の枕を持って隣の部屋で寝るようになった。壁一枚を隔てた、何の音も聞こえてこない静寂。
それが、私たちが築き上げてきた「箱庭」が、音を立てずに崩壊した合図だった。愛されているという幸福が、今の私には、どんな毒薬よりも苦く感じられた。


