あなたが愛しすぎて…


​翌朝、キッチンに立つ絵里の指先は、章男のために淹れるコーヒーのカップを微かに震わせていた。
​「絵里、どうかした? 顔色が悪いみたいだけど」

​食卓でニュースを見ていた章男が、いつもの穏やかな、清潔な声で尋ねる。その声を聞くたび、昨夜圭佑に「会いたかった」と告げた自分の喉が、罪悪感で焼けるように熱くなった。

​「……ううん、ちょっと寝不足なだけ。大丈夫よ」
​嘘をつくたび、家の中の完璧な静寂が重苦しくのしかかる。

​章男はカップを受け取りながら、ふと思い出したように言葉を繋いだ。
​「そういえば、昨日は遅かったんだね。どこで飲んできたの?」
「……会社近くだよ」
​視線をコーヒーの湯気に逃がしながら、短く答える。

​「そっか。先に寝ててごめんね」
​章男のその気遣いが、今の絵里にはどんな責め苦よりも鋭く胸に刺さった。

「基樹たち来るのに、何作ろっか?」
​章男は、弾んだ動きで手話を紡いだ。
その指先の動きは、ダンスでも踊るかのように軽やかで、嬉しそうな彼の表情を物語っている。

「買い物、一緒に行こう」
​そう重ねられた手話に応えるように、絵里は力なく微笑んだ。

​スーパーへと向かう道すがら、章男はごく自然に手を繋いできた。節くれだった、温かな手のひら。かつては安心の象徴だったその体温が、今は絵里の皮膚をじりじりとしびれさせる。

​人混みを避けながら、章男は空いた方の手で、器用に手話を続けた。
夕食の献立を相談しながら、楽しげに食材を選んでいく章男。

並んで歩く二人の姿は、はた目にはどこまでも仲睦まじい、静かで穏やかな夫婦そのものだった。
​章男が何かを伝えるために立ち止まり、真っ直ぐに絵里の目を見て手話を送るたび、彼女は曖昧に頷き、精一杯の微笑みを返す。

繋いだ手から伝わる彼の無垢な喜びが、絵里の胸の奥にある罪悪感をどこまでも深く、暗く抉っていった。

時計の針が重く重く刻まれ、窓から差し込む光が、朝の鋭い白さから少しずつ柔らかな黄金色へと移ろっていく。

​やがて昼を過ぎ、影が長く伸び始めた頃。 唐突にインターホンが鳴り響いた。その音は、まるで静止していた絵里の時間を無理やり動かす合図のようだった。

​「来たみたいだね。僕が出るよ」
​穏やかな声でそう言い残し、章男が席を立つ。その後ろ姿を見送りながら、絵里はキッチンの隅で、きつく結んだエプロンの紐をさらに締め直した。


​「お邪魔しまーす! 絵里、元気だった?」
​リビングに飛び込んできた未知の明るい声が、よどんでいた空気をかき回す。その後ろから、夫の基樹が照れくさそうに手土産の紙袋を差し出した。

​「久しぶり、二人とも。遠かったでしょう」
​絵里は精一杯の微笑みを作って、二人を迎え入れた。章男が手際よく椅子を引き、冷えたシャンパングラスを並べていく。

​「さあ、まずは乾杯しようか。今日は来てくれて本当に嬉しいよ」
​章男がワインを開ける軽快な音が響く。その「あたたかな家庭」の象徴のような音を聞きながら、絵里の耳の奥では、昨夜の圭佑の低い囁きが、絶え間なくリフレイド(反響)していた。


​「本当に、相変わらずご馳走ね! 章男さん、これ全部作ったの?」
「いや、半分は絵里だよ。彼女がいてくれないと、この家は回らないからね」

​章男が自然に絵里の肩に手を置く。その温もりに、絵里は思わず身を固くした。章男の優しさは、潔癖なほどに純粋で、それゆえに今の絵里を鋭く切り刻む。
​「……味、薄くないかな。ちょっと心配で」
「何言ってるの、完璧だよ。ねえ、基樹?」
「ああ、本当に。」

​基樹の屈託のない言葉に、章男が嬉しそうに頷く。
​笑い声。食器の触れ合う音。友人たちの祝福に満ちた視線。
すべてが「正しい」場所にある。この部屋のどこを探しても、不穏な影など一つも落ちていないはずだった。

​「ねえ、そういえばさ……」
​未知がふと、グラスを置いて絵里を覗き込んだ。
​「絵里、今日なんだか少し、雰囲気が変わった? なんだろう、すごく……艶っぽくなったっていうか」

​一瞬、リビングの空気が凍りついたように感じられた。絵里の心臓が、喉にせり上がってくるほど激しく脈打つ。

​「そんなことないわよ。昨日、あまり眠れなかったからじゃない?」
​「そうかなあ。何か良いことでもあったんじゃないの?」
​未知の無邪気な追及を、章男が「僕の愛が足りてる証拠かな」と冗談で受け流す。その場は笑いに包まれたが、絵里の手は、テーブルの下で膝をきつく掴んでいた。

​窓の外を、一台の車がゆっくりと横切っていく音がする。
その音が、圭佑の足音に聞こえてしまう。
自分を魔法にかけたあの「声」が、この清潔な静寂をいつぶち壊しに来るのかと、絵里は怯えながら、同時に、それを渇望している自分に気づいていた。

「……あ、そうだ。実はね、今日ふたりに言おうって決めてたことがあったんだ」
​ふいに未知が会話のトーンを落とし、照れくさそうに、けれど慈しむようにお腹のあたりに手を添えた。
​「実は……いま、妊娠五か月なの。ようやく安定期に入ったから」

その瞬間、部屋の空気が一辺に華やいだ。
章男がわがことのように身を乗り出し、満面の笑みで手話を弾ませる。基樹も隣で少し面映ゆそうに、けれど誇らしげに頷いた。

​「ありがとう。……次は章男たちの番かな、なんてね」
​基樹の軽やかな冗談に、私は精一杯の笑顔を返しながら、未知のふっくらとしたお腹をそっと見つめた。そこには、確かに新しい命が宿っている。

​「本当に、おめでとう。身体、大事にするんだよ」
​その後の時間は、まるですべてが祝福の光に包まれているようだった。

ベビー用品は何がいいか、名前はどうするのか。賑やかな笑い声がリビングに満ち、未知が時折お腹をさする仕草を見るたび、私の胸の奥には全く別の感情が渦巻いていった。

​(もし、私に赤ちゃんができたら。あの圭佑の『声』を、今度こそ完全に振り払う『鎖』になってくれるのではないか)

​やがて夜も更け、「じゃあ、そろそろ」と二人が立ち上がった。玄関先まで見送り、基樹が未知の肩を支えるようにして歩いていく後ろ姿を、私たちはいつまでも眺めていた。

夜風に揺れる二人の影が、ひどく眩しく、遠いものに見えた。
​ドアを閉め、静寂が戻ったリビング。私は、祈るような思いで章男に切り出した。

​「ねぇ、私たちも、赤ちゃん、ほしいね」
​ふいに零れた私の言葉に、章男の動きが凍りついた。
楽しげに物語を紡いでいた彼の手は、中空で命を失ったように止まっている。やがて、彼は重い鉛でも持ち上げるかのように、ゆっくりと再び手を動かした。

​先ほどまでの躍動感はどこにもない。指先は見たこともないほど小刻みに震え、その軌跡は沈痛な響きを帯びていた。
​『……二人だけがいい。絵里と二人だけで、充分だ』
​綴られた手話は、願いというよりは、何かに縋り付くような切実な拒絶だった。