始まりは、編集部の喧騒の中だった。
千代田区の一角、築四十年に手が届きそうな古い雑居ビル。
その三階に位置する文芸編集部は、常に紙の匂いとコーヒーの出がらし、そして誰かの苛立ちが混ざり合ったような、澱んだ空気に満ちている。
窓の外では神保町の古書店街が夕闇に沈み始め、室内の蛍光灯はチカチカと不規則な瞬きを繰り返していた。それはまるで、私の摩耗した神経そのもののようだった。
「絵里、このゲラ、明日の午前中までに戻しといて」
副部長の投げやりな声とともに、分厚い束がデスクに放られた。乾いた音が室内に響く。私は「分かりました」と、自分の心さえも機械の一部になったかのような声で答える。
二十代半ば、夢見ていた「言葉を編む仕事」は、いつの間にか、締め切りという名の怪物に魂を切り売りする作業へと変質していた。
そんな灰色の日常に、不意に光が差し込んだ。
「少し、根を詰めすぎじゃないですか」
その声は、ひどく穏やかだった。怒号が飛び交う編集部に、そこだけ凪いだ海のような静寂を持ち込んだかのような、涼やかな響き。ふと顔を上げると、装丁家の今井圭佑がいた。デスクの端に置かれたのは、一本の冷たい缶コーヒー。
「……今井さん、お疲れ様です。」
まだお互いに敬語で、適切な距離を保った仕事相手。けれど、打ち合わせを重ねるたびに、私たちは「仕事」という言葉を盾にして、少しずつ互いの境界線を越えていった。
新宿のバーの片隅、彼は誰にも見せたことがないという孤独を、私にだけ預けるようになっていった。
「妻は仕事優先で、僕の方を向いていないんだ。家の中にいても、僕は透明人間みたいだよ」
「だから仕事で遅く帰る方が寂しくなくていいんだよ」
その横顔に宿る寂しさを、私は真実だと信じた。
やがて「今井さん」という呼び方は、二人きりの夜に「圭佑さん」へと溶け、やがて日常の甘えを含んだ「圭佑」へと変わっていった。
私は、彼を呼び捨てにする権利を手に入れた代償として、自分自身の名前を誇ることを忘れていった。
「離婚する。あと少しだけ、待っていてほしい」
その言葉を命綱にして、私は二年も日陰の道を歩き続けた。けれど、あの日。十一月の冷たい雨が街を濡らし、湿った空気が肌にまとわりつく午後のことだ。
駅近くの、壁紙が煙草のヤニで黄ばんだ古い喫茶店。
カラン、と乾いたベルの音が響く。先に席に着いていていた圭佑の姿を見つけ、私は雨で冷えた体も忘れて、パッと顔を輝かせた。
「圭佑! お疲れ様。雨、すごかったね」
ようやく会えた喜びで、自然と笑顔がこぼれる。濡れた上着を脱ぎながら、今日あった何気ない出来事でも話そうと彼の顔を覗き込んだ。けれど、返ってきたのは、いつもの穏やかな微笑みではなかった。
「……あ、ああ。お疲れ様。濡れなかった?」
声に力がない。視線もどこか泳いでいて、私を直視しようとしない。
「……圭佑? どうしたの、元気ないけど。仕事、忙しかった?大丈夫?」
心配になって身を乗り出すと、彼はテーブルの上で組んだ自分の指先をじっと見つめたまま、重い口を開いた。
「……あのさ、絵里。妻に、離婚を切り出す話をするって約束、していたよね」
唐突に切り出された避けていた話題。期待していたはずの言葉なのに、彼の表情があまりに暗くて、心臓が嫌な音を立てた。
「言おうと思っていたら……赤ちゃんができたって、言われたんだ」
一瞬、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ気がした。
テーブルを挟んで向かい合っているはずの圭佑が、急に遠い世界の住人に見える。
「え……?」
喉の奥が引き攣って、それ以上の言葉が出てこない。
喜ぶべきこと。おめでたいこと。本来ならそうあるべきはずの事実が、今の絵里にとっては、積み上げてきた淡い期待を根こそぎなぎ倒す絶望の合図だった。
思考が真っ白に染まる。
「赤ちゃん……?赤ちゃんって…圭佑との…?
離婚するって、言ってたのに……?」
絞り出すような私の声に、彼はただ視線を落としたまま、掠れた声で繰り返した。
「……ごめん。本当に、ごめん」
その謝罪は、これまで積み上げてきた2年の月日を、何よりも残酷に切り裂いていった。
不意に脳裏に浮かんだ光景があった。
それは、連日の激務で誰もがいら立っていた、ある日の深夜だった。
「……まだ、終わらないんですか」と涼やかな優しい声。
編集部のデスクで頭を抱えていた私に、缶コーヒーの冷たさが頬を叩いた。
顔を上げると、そこには同じように目の下に隈を作った圭佑が立っていた。
「無理しないで!はい、糖分補給」
受け取った微糖のコーヒーは、驚くほど冷たかった。
同じプロジェクトで泥をすすり、終電を逃してはタクシーで近くのサウナへ駆け込む日々。上司の叱責を隣で受け流し、ミスを無言でカバーし合ってきた。
窓の外、ビル群の隙間から白んできた空を見上げ、どちらからともなく「帰りますか」と立ち上がる。あの朝日の眩しさだけが、私たちの共通の報酬だった。
駅へ向かう道すがら、立ち寄った公園。
街灯が心細く灯る下のベンチに、二人で腰を下ろした。
「俺さ……絵里が隣にいてくれると、なんだか戦える気がするんだ」
街灯の下でそう言った彼の横顔は、ひどく心細そうで、けれど真っ直ぐに私を求めていた。
「……っ、なんで急に名前呼びなんですか」
「ねえ、これからは『絵里』って呼んでいい?」
街灯の下、ふと足を止めた彼が、いたずらっ子のような顔で覗き込んできた。
「……っ、いきなり何言ってるんですか、今井さん」
「今井さん、じゃなくて。はい、練習」
まるでお菓子をねだる子供みたいな口調で言われて、思わず肩の力が抜ける。不意打ちの名前呼びに心臓は跳ねていたけれど、私はわざと呆れたように笑ってみせた。
「もう……じゃあ、私も『圭佑くん』って呼べばいいんですか?」
「あ、いい。それすごくいい」
「ふふ、じゃあ行きましょう、圭佑くん!」
冗談めかして名前を呼ぶと、彼は「やった」と無邪気に笑った。そんな彼を見て、私も可笑しくてたまらなくなる。さっきまでの真面目な雰囲気が嘘のように、二人で顔を見合わせて声を上げて笑い合った。
「あはは! なんか変な感じ」
「だよね、自分でも照れるわ」
……けれど。
ふいに笑い声が途切れた。
風が止まったような、奇妙な静寂。
隣で笑っていたはずの彼が、いつの間にか一歩、距離を詰めている。
「……絵里」
茶目っ気の消えた、少し低い声。
至近距離で見つめてくるその瞳には、さっきまでの余裕なんて微塵もなくて、ただ真っ直ぐに私を射抜いていた。
視線を逸らすことすらできず、鼓動の音だけが夜の闇に響く。
重なる吐息が熱を帯びた瞬間、吸い寄せられるように彼が顔を寄せた。
見つめ合う距離がゼロになる直前、彼の睫毛が揺れるのが見えて、私はそっと目を閉じた。
重なった唇は、驚くほど柔らかくて。
公園の冷たい空気のなか、そこだけがひどく熱い。
彼は紳士的に、でも確かな独占欲を込めるように、何度も角度を変えて深く、深く唇を重ねてきた。
彼には家庭がある。知っていた。けれど、深夜のオフィスや誰もいない非常階段で共有したあの熱量は、どんな倫理観よりも本物だと思えてしまった。
重なった手から伝わる体温が、孤独な戦場だった編集部を、二人だけの隠れ家に変えていった。
あの時の彼が浮かべた、壊れ物を扱うような優しい眼差し。
それが今の「ごめん」という枯れた声と同じ男のものだなんて、到底信じられなかった。
「圭佑は?圭佑は何て応えたの?」
「……絵里とのことは終わりに、したい」
「…本気なの?」
「…」
怒りよりも先に、激しい嘔気がせり上がってきた。離婚を決意したと言った時の圭佑の顔が何度も脳裏に浮かんでくる。
絞り出すような彼の声に、絵里は震える指先を隠すように膝の上で強く握りしめた。
「……そっか。そう、なんだ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
彼を責めたいのか、それとも自分の境遇を嘆きたいのか。渦巻く感情の整理がつかないまま、絵里はただ、視線を落とした彼と同じように、冷めきったコーヒーの表面を見つめることしかできなかった。
「良かったね。圭佑の方に向いてくれたんだ…」
胃の奥から込み上げる不快感を飲み込み、私は頬を吊り上げて、精一杯の笑顔を作った
「おめでとう」
それ以外の言葉が、どうしても見つからなかった。
おめでとう、なんて。心にもない言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが音を立てて崩れていった。これ以上、この場所に一秒だって留まっていられない。
私はそれだけを告げると、自分の分のコーヒー代としてテーブルに千円札を一枚、置いて席を立った。
「えっ、ちょっと、絵里……!」
困惑したような彼の声が背中に刺さる。
感情がぐちゃぐちゃで、彼がどんな顔をしているのかを確認する余裕なんてなかった。ただ、この絶望から逃げ出したくて、私は一度も振り返らずに店を出た。
背後から追いかけてくるはずの足音を、心のどこかで期待していた。けれど、最後まで靴音は聞こえなかった。
どうやって駅まで歩き、どの電車に乗って、どうやって家まで辿り着いたのか、記憶が抜け落ちている。気がつけば真っ暗な部屋の床に座り込んでいた。
どこかで、ずっと分かっていた。
幸せで、手が重なるだけで震えるほど愛しかったあの頃から、いつかこんな日が来るのではないかと、予感に怯えていた。
なんだ、これは冗談なのか?
そう思って笑い飛ばしてしまえたら、どんなに楽だろう。
けれど、私の喉から出たのは「おめでとう」という、正気を疑うような祝福だった。
圭佑を、困らせたくなかった。
去り際で私を疎ましく思ってほしくなくて、物分かりの良い女を演じきった自分を殺してやりたい。
嫌だ。圭佑がいなくなるなんて、嫌だ。
暗闇の中、膝に顔を埋める。
叫びたい衝動を噛み殺すと、代わりに激しい嘔気がせり上がってきた。
スマートフォンの画面は、一度も明るくなることはなかった。彼からの謝罪も、言い訳も、一通の通知さえ届かない。その沈黙こそが、彼の選んだ答えだった。
脳のどこかが麻痺したように、感情が動かない。さっき喫茶店で聞いた「赤ちゃんができた」「終わりにしたい」という言葉が、まるで遠い国のニュースか、質の悪いフィクションの台詞のように頭の表面を滑っていく。
「嘘でしょう?」
独り言さえ、乾いていて自分のものではないみたいだ。あまりの衝撃に、悲しみすら湧いてこない。ただ、冷たい指先でスマートフォンの画面を何度も見つめていた。
もしかしたら、すぐに「さっきのは冗談だ」と、あるいは「やっぱり離れられない」と、一通の通知が届くのではないか。そんな馬鹿げた期待が、辛うじて私を繋ぎ止めていた。
けれど、一時間、二時間と時が過ぎても、画面は一度も明るくなることはなかった。
鏡のような漆黒の画面に、ただ、呆然と立ち尽くす自分の無様な輪郭が映り込んでいるだけ。
……ああ、本当なんだ。
その重苦しい沈黙こそが、彼が選んだ、何よりも残酷な「答え」だった。
彼にとって、私はもう、言葉を尽くして別れを惜しむ価値さえない存在になったのだ。その事実が、鋭い刃となってようやく私の胸の奥深くまで突き刺さった。
視界が不意に歪んだ。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。声を殺して、肺が痛くなるほど泣いた。
暗闇の中で一人、彼と過ごした二年間を、その一晩だけで絞り出すようにして、私はただ床に座り込み、声もなく泣き続けた。
半年が過ぎた頃にはすでに「彼が奥さんと別れてくれたら」と、夜の底でひとり願うようになっていた。けれど、それを口にすれば、この脆い幸福さえ壊れてしまうのが怖くて、ずっと喉の奥に押し込めていたのだ。
泣き疲れて、思考は泥のように濁り、何が正解なのかも分からなくなっていく。ただ、指先が白くなるほどスマホを握りしめていることだけが、今の私をこの世に繋ぎ止める唯一の手段だった。
不意に、朦朧とした意識の隙間にひとつの懸念がよぎる。
(……圭佑が、来るかもしれない)
彼が仕事帰りに突然寄ることもある。
もし、このぐちゃぐちゃな顔のまま、床に転がっている私を見られたら。
そう思った瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。終わりにしたいと言われたのに、もう会えないのに、それでも彼に「惨めだ」と思われることだけは、本能が拒絶していた。
シャワーの熱いお湯で、顔にこびりついた涙の痕と、惨めな感情を無理やり洗い流す。
しかし、激しい水音に包まれていると、ふいに「今、通知が鳴ったのではないか」という強迫観念に襲われた。
(……圭佑から、連絡が来てるかもしれない)
一度そう思うと、もうじっとしていられなかった。
私は慌てて蛇口を捻り、顔を拭うのももどかしいまま浴室を飛び出した。滴る水滴が床を濡らすのも構わず、脱衣所に置いたスマートフォンをひったくるように手に取る。
だが、期待を込めて覗き込んだ画面は、冷たく沈黙したままだった。
圭佑からの連絡はない。
指先から熱が引いていく。鏡に映る自分はひどく青白く、それでも「彼にだけは見せられない」という意地が、私を辛うじて立たせていた。
濡れたままの身体が冷えていくのを無視して、私は機械的にドライヤーを手に取った。
スイッチを入れると、無機質な轟音が狭い脱衣所に充満する。
これなら、外の音が聞こえなくても言い訳ができる。
彼が来ないこと、通知が鳴らないことへの恐怖を、この音で塗りつぶしたかった。
「……乾かさなきゃ」
震える声で呟き、鏡に向かう。
乱れた髪を指で梳くたびに、床にポタポタと水がこぼれる。拭き取る気力も、もう残っていない。
それでも私は、まるで明日も普通に目が覚めて、何事もなかったかのように笑える自分を信じ込ませるように、丁寧に髪に熱を当て続けた。
喉の奥まで込み上げている「終わり」の予感を、重いトリートメントの香りで必死に押し殺して。
ドライヤーの轟音の中で、私はまるで見えない敵から身を守るように、下着を着け、クローゼットから引っ張り出してきた部屋着に袖を通していた。
いつ手に取ったのかさえ覚えていない。
ただ、裸のままで絶望に浸る勇気がなかった。
もし今、チャイムが鳴ったら。もし今、彼がドアをノックしたら。
「……よし、大丈夫」
鏡の中の私は、髪も整い、服も着ている。
表面上は、どこからどう見ても「いつもの私」だ。
だが、急いで着たせいでシャツのボタンが一つ掛け違っていることにも、肌に張り付いた水滴が服をじっとりと湿らせていることにも、今の私は気づくことができない。
準備はすべて整った。
あとは、鳴るはずのないスマートフォンが、この静寂を切り裂くのを待つだけ。
その「完璧な日常」のフリが、今にもパリンと割れてしまいそうなほど、私は危うい足取りでリビングへ向かった。
「……もう、無理」
通知のない画面を見つめたまま、立ち尽くす。
この静寂に耐えられず、私は逃げるように別の名前を探した。指が勝手に、親友である未知の連絡先をタップしている。
呼び出し音が数回。彼女の声が聞こえた瞬間、せっかく止まったはずの涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「……もしもし、絵里? どうしたの、こんな時間に」
受話器から聞こえてきた未知の穏やかな声。それを聞いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「……み、ち……」
名前を呼んだだけで、喉の奥が熱くなる。言いたいことは山ほどあるのに、言葉が涙に溶けてしまって形にならない。
「絵里? 大丈夫? 何かあったの?」
「……っ……ううん、大丈夫、じゃない……ごめんっ」
必死に口を塞いだが、しゃくり上げる声が漏れてしまう。
一度泣き出してしまうと、もう止まらなかった。膝を抱えて丸まり、スマホを強く握りしめる。涙がスマホの画面にポタポタと落ちて、光を滲ませた。
「……迷惑、だよね……ごめん、でも……どうしても、声が聞きたくて……」
鼻をすすり、子供のように泣きじゃくりながら、絵里はただひたすらに自分の弱さをさらけ出していた。未知が何も聞かずにいてくれることの優しさが、今は何よりも痛くて、そして救いだった。
「……怖いよ、未知。一人は、怖い……」
『いい、絵里。今すぐそっち行く。分かった!?』
「……うん……分かった……」
プツリ、と通話が切れる。
無機質な電子音だけが残された耳元で、さっきまで隣にいた圭佑の「ごめん」という掠れた声が、呪文のように何度もリフレインしていた。
マンションの静まり返った内廊下に、急ぎ足の靴音が響く。
玄関のチャイムが鳴り、絵里が震える手でドアのロックを解除した。
「……絵里!」
ドアが開いた瞬間、そこにいたのは肩で激しく息を切らした未知だった。
必死で走ってきたのか、未知の額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「絵里……大丈夫? ……」
未知が途切れ途切れに言葉を繋ごうとしたが、絵里の顔を見た瞬間、その声はふっと消えた。
玄関の明かりに照らされた絵里は、今にも崩れ落ちそうな、ひどく泣きそうな顔をしていた。
赤く腫れ上がった目、固く結ばれたまま震える唇。電話で聞いた「一人が怖い」という言葉以上に、目の前の親友が限界まで追い詰められているのが痛いほど伝わってきた。
未知はかける言葉が見つからず、ただドアの縁を指先が白くなるほど強く握りしめた。
「……あがって、未知」
絵里が掠れた声でようやくそう告げると、未知は小さく頷き、静かに室内へ足を踏み入れた。
靴を脱ぐ間も、未知の視線は絵里の横顔から離れない。フラフラと心許ない足取りの絵里を、今にも支えようと無意識に手が伸びかけていた。
リビングの重苦しい沈黙を破るように、未知が静かに口を開いた。
「……何があったの?」
その声は責めるような響きを一切含まず、ただ目の前の親友の心をそっとノックするような柔らかさを持っていた。
絵里は膝の上で固く握りしめていた拳を、さらに強く指が白くなるまで握りしめた。視線は床のフローリングの木目に固定されたままだ。
「……別れた。」
「……赤ちゃん、できたって…私とは終わりにしたいって……」
しゃくり上げる声で、断片的な言葉をぶつける私を、未知は何も言わずにただ受け止めてくれた。
「……離婚するって……信じてた……圭佑のこと、待ってたのに……」
裏切られた悔しさ、期待していた自分への惨めさ、そして何より、もう二度と彼の手が私に触れることはないのだという絶望。
支離滅裂な私の告白を、未知は「うん、うん」と小さく頷きながら、私の背中を一定のリズムでさすり続けてくれた。
「……馬鹿だよね、私……っ、………逃げてきたの……」
溢れる涙が止まらず、私は子供のように声を上げて泣いた。
彼女は決して「忘れなよ」とも「そんな男最低だよ」とも言わなかった。ただ、私の震えが少しずつ収まるまで、その腕を緩めることなく、静かな重みで私をこの世界に繋ぎ止めてくれていた。
どのくらい時間が経っただろうか。
泣き疲れて、吐き出す言葉も枯れ果てた頃、未知はようやく私の顔を覗き込み、親指で涙の跡をそっと拭った。
「……全部吐き出した? 」
そのぶっきらぼうな優しさに、また少しだけ、新しい涙がこぼれた。
「大丈夫、今日は私がずっとここにいるから。もう考えなくていいよ」
その夜、未知は部屋の隅に小さな明かりを灯したまま、隣にいてくれた。
彼女が立てる微かな衣擦れの音や、穏やかな寝息。それだけが、泥のように濁った私の意識を、少しずつ凪いだ海へと変えていく。
一人ではない。その事実が、凍りついた心をゆっくりと溶かしていきようやく眠りについた。
カーテンの隙間から差し込む光が、重たい瞼を容赦なく刺激する。
ゆっくりと目を開けようとするけれど、目やにと熱を持った腫れのせいで、視界が半分も開かない。
(……ああ、やっぱりダメか)
指先でそっと触れると、そこには自分でも驚くほどパンパンに膨らんだ皮膚の感触があった。鏡を見なくても、今の自分がどれほど無残な顔をしているか、痛いほど伝わってくる。
「……おはよ」
リビングから、未知の控えめな声がした。
私は顔を覆うようにして、のろのろと這い出した。今のこの顔を、一番の親友にさえ見られたくない。
「……ひどい顔でしょ」
俯いたまま呟くと、未知が近づいてくる気配がした。彼女は無理に私の顔を覗き込もうとはせず、ただ温かい蒸しタオルを差し出してくれた。
「いいよ、今はそんなの気にしなくて。誰に見せるわけでもないんだから」
彼女は私の隣に座り、私の強張った肩にそっと手を置いた。
「ねえ。その腫れた目はさ、あんたがそれだけ一生懸命、誰かを思って、自分を削って頑張ってきた証拠だよ。恥じることなんて、ひとつもない」
タオルの熱が、少しずつ瞼の強張りを溶かしていく。
「腫れが引くまでは、ここにいればいい。仕事だって、そんな顔で行かなくていい。……もう、全部リセットしちゃおうよ。あんたが壊れちゃう前に」
未知の言葉は、熱を持った瞼に染み渡るように優しかった。
窓から差し込む朝の光が、蒸しタオルで少しだけ落ち着いた腫れを照らしている。
私は膝を抱えたまま、すぐには言葉を返せなかった。視界の端で、彼女が立ち上がり、自分の荷物を整理する気配がする。
「……朝ご飯、買ってくるよ」
少しだけトーンを落とした彼女の声に、私は重い頭をゆっくりと上げた。
泣き疲れて喉の奥が引き攣っていたけれど、何とかそれだけを絞り出す。
「ありがとう」
短く返すと、未知は小さく頷いて、静かに部屋を出ていった。
彼女が不在の数十分間、私はただ、部屋に溶け残った彼女の言葉を反芻していた。
やがて、カチャリと鍵の開く音がして、未知が戻ってきた。
「ただいま。……」
彼女は手に提げたビニール袋をカサリと鳴らし、部屋の空気を入れ替えるように戻ってきた。
未知は買ってきたばかりの袋から、スープのカップとサンドイッチをテーブルに並べた。
それから、自分の上着を手に取ると、部屋の隅で丸まっていた私を覗き込むようにして、ふっと表情を和らげる。
「じゃあ、仕事があるから私は行くね」
玄関へと向かう足取りは静かだった。彼女は扉に手をかけたまま、一度だけ振り返る。
その瞳には、先ほどの「全部リセットしちゃおうよ」という言葉の温度が、まだ静かに宿っていた。
「……無理して食べなくていいから。気が向いた時にね、また仕事終わったら連絡するね」
カチャリ、と小さな金属音が響いて、ドアが閉まる。
彼女がいなくなった後の部屋は、急に静寂が戻ってきた。けれど、さっきまでの冷たい静けさとは違う。
未知の気配が消えた廊下の向こうで、遠くの街の喧騒がかすかに聞こえた。
未知が去ったあとの静まり返った部屋で、私はしばらく動けずにいた。
彼女が残した「全部リセットしちゃおうよ」という言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。
私は重い体を引きずるようにしてデスクへ向かい、ノートパソコンを開く。
まずは、職場への連絡。震える指でメールを打ち、今日から数日間の有給休暇を申請した。
送信ボタンを押した瞬間、肺の奥に溜まっていた熱い空気が、ようやく吐き出されたような気がした。
それから、引き出しの奥に眠っていた真っ白な便箋を取り出す。
圭佑との関係も、無理をして笑っていた仕事場での毎日も。それらすべてを「過去」にするためには、今の居場所を丸ごと捨てるしかない。中途半端に繋ぎ止めているから、苦しいのだ。
そう確信した私の手は、もう迷わず退職届を書いた。
二日後。鏡の中に映る自分の目は、ようやく本来の形を取り戻していた。赤みは引き、そこには悲しみではなく、乾いた「拒絶」の光が宿っている。
デスクに置かれたままの退職届。それは、自分を縛り付けていた鎖を解くための鍵に見えた。
「惨めだ」と思われたくなくて必死に守ろうとしていたプライドも、彼に見せるための顔も、もう必要ない。
スマホの電源を入れ、まずは職場への連絡を入れる。
「体調は落ち着きました。明日から出社します」
短くそう告げる指先は、もう白くなるほど震えてはいなかった。リセットボタンを押した私の心は、驚くほど静かだった。
二日間の有給休暇という「聖域」が終わり、私は再び編集部の重い扉の前に立っていた。
朝の光を浴びるエントランス。鏡に映った自分の目は、少し重たげに見えたけれど、その奥にある意志だけは誰にも侵されないほど静かだった。
(……大丈夫。もう、決めたんだから)
深く息を吸い込み、カードキーをかざす。ピッという無機質な音が、終わりの始まりを告げた。
編集部内は、慌ただしさに包まれていた。
電話のベル、キーボードを叩く音、ゲラをめくる音。以前の私なら、その喧騒の一部になろうと必死に足並みを揃えていただろう。
けれど今は、その光景がどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
私は自分のデスクに鞄を置くと、ルーチンの業務には手をつけず、真っ先に編集長のデスクへと向かった。
ポケットには書き上げた一通の封筒。
指先に伝わる紙の感触が、不思議と私を落ち着かせてくれた。
「編集長。今、お時間よろしいでしょうか」
忙しなく画面を睨んでいた編集長の手が止まる。
「何? 進行の相談?」
「いえ。仕事のお話ではありません」
私は迷うことなく、真っ白な封筒を差し出した。
誰の顔色を伺う必要も、期待に応えようと自分を削る必要も、もうない。
「一ヶ月後をもちまして、退職させてください。」
その瞬間、周囲のノイズがふっと遠のいた気がした。
驚きに目を見開く編集長の顔も、遠くで鳴り続けている電話の音も、今の私にはどうでもよかった。
少し腫れぼったい瞼の奥で、私はようやく、自分自身の人生の主導権を握り直した。
編集部のデスクに戻った私を待っていたのは、今井さんの「不在」を告げる上司の不可解そうな顔だった。
「おはよう。体調はもういいのか? ……ところでさ、今井さんのことなんだけど」
私は書類を整理する手を止めず、鏡の前で何度も練習した、感情の読めない顔で聞き返した。
「……はい。何かあったんですか?」
「いや、『急に案件が重なって忙しくなったから、自分はもうそっちの担当には行けない。代わりの人間を行かせる』って言い出したんだよ。
……お前何か知らないか?急に『行けない』なんて不自然じゃないか」
「行けない、ですか」
私は、心臓が嫌な跳ね方をするのを悟られないよう、ゆっくりと上司に顔を向けた。
わずかに小首をかしげ、純粋な疑問だけを瞳に宿して。
「さあ……。今井さんのご都合までは、私にはわかりかねます」
「でも急すぎて、まだ最後まで仕上げてないだろう…」
「私にはわからないです…」
食い下がる上司の視線を、私は淡々とはねのけた。それ以上、彼の名前を口にすることさえ拒むように。
「…あ、この校正、今日中ですよね? 先に進めていいですか。新しい担当の方への引き継ぎ準備もありますし」
突き放すような私の態度に、上司は「なんだ、拍子抜けだな」とでも言いたげに肩をすくめて離れていった。
(……忙しいから、行けない、か)
彼らしい逃げ方だと思った。「忙しい」という大義名分を盾にして、私と物理的に顔を合わせる可能性を完璧に遮断する。そうすれば、ボロボロになった私を見ることも、自分の罪悪感に触れることもなくて済むから。
けれど、今の私にとってそれは、この上ない「清算」のチャンスだった。
彼が私の世界から、自分の存在をこれほどまでに徹底して消してくれたのなら、好都合だ。
圭佑が「忙しくて行けない」と言い出し、代わりに他のスタッフを寄越すようになってから、編集部の空気は奇妙な静寂に包まれた。
「……おはようございます」
朝、私がデスクに座る。かつてなら、コーヒーの香りと共に彼がひょっこり現れ、「昨日のあのカットさ」と声をかけてきたはずの時間。今はただ、隣のデスクが吐き出すパソコンの排気音だけが、虚しく響いている。
同僚たちは、時折、私と圭佑の「不在」を繋ぎ合わせようと、探るような視線を送ってきた。
「絵里、今井さんから何か聞いてる? 『荻野さんが辛いだろうから、別の担当を行かせる』って、彼、編集長に言ってたらしいけど……」
私はそのたびに、完璧なまでに無味乾燥な微笑を浮かべてみせた。
「いいえ、何も。今井さんもお忙しいんでしょう。」
その「とぼけ」は、自分を守るための鎧であり、彼への最後の手向けでもあった。
心の中では、毒を吐き捨てていた。
(辛いだろうから? ……笑わせないで。あなたはただ、ボロボロになった私を見て、自分の加害性を突きつけられるのが怖かっただけでしょ)
彼が他の人間を「盾」にして作ったその空白は、いつしか私の「聖域」へと変わっていった。
夜、未知と電話で話す時間が、唯一の解毒剤だった。
「あいつ、徹底して逃げてるね。他の人間を壁にするなんて、もはや執念だよ」
受話器の向こうで未知が笑う。
「……でも、おかげで目が腫れる暇もないよ。毎日、淡々と荷物をまとめてる」
「いいよ。その調子。あんたの物語から、あいつをモブ(端役)に降格させるの」
退職まで残り一週間。
私は、デスクの引き出しの奥に残っていた、彼がくれた付箋の束をゴミ箱へ落とした。
「惨めだと思われたくない」と、爪が食い込むほど握りしめていた自尊心。それを捨てた瞬間に訪れたのは、絶望ではなく、驚くほどの「軽さ」だった。
もう、彼のためにメイクを直す必要もない。
彼がフロアのどこかにいる気配を感じても、心臓は凪のように静まり返っている。
(ありがとう、圭佑。あなたが逃げてくれたおかげで、私は一度もあなたと目を合わせることなく、このオフィスから自分を消し去ることができるわ)
窓の外では、季節が少しだけ進もうとしていた。
かつて圭佑と見上げた夜景も、今はただの光の羅列にしか見えない。
最終日、空になったデスクを撫でる指先が、微かに震えていた。
周囲には「新しいステップアップのために」と微笑んで見せたけれど、本当は、このフロアのどこかに漂う彼の気配を吸い込むだけで、肺の奥が焼けるように痛かった。
圭佑が「荻野さんが辛いだろうから」と、他の人間を間に立てて自分を遠ざけたあの時、本当は叫びたかった。
「勝手に決めないで。私の痛みも、私の恋も、あなたが勝手に解釈して終わらせないで」
けれど、私はとぼけ続けた。
彼が「忙しいから行けない」と嘘をついて逃げたのなら、私はその嘘に、最高の演技で応えてあげようと思った。それが、圭佑に対して私ができる、最後で最大の「拒絶」だったから。
(……好きだよ、圭佑。本当は会いたいよ…まだ、全然消えない…)
引き出しの奥、彼と一緒に校了したゲラの切れ端を、誰にも見つからないように握りしめる。
彼に会わないこの一ヶ月は、彼を忘れるための時間ではなく、「彼を想ったまま生きていく自分」に絶望しないための、リハビリのような時間だった。
「お疲れ様でした」
静かに編集部を後にする。
エレベーターの鏡に映る自分の目は、もう腫れてはいない。けれど、その奥にはまだ、彼との記憶が澱(おり)のように沈んでいる。
この会社にいたら、いつか偶然、彼とすれ違ってしまうかもしれない。
あの横顔を、あの声を、どこかの雑踏で見つけてしまったら、積み上げてきた「とぼけ」が、一瞬で崩れ去ってしまう。
だから、私はこの街もほんの少しのキャリアも捨てる。
明日には、彼の手の届かない、彼を知る人のいない遠い場所へ、荷物を送り出す。
駅の改札。待っていた未知が、私の強張った肩をそっと抱き寄せた。
「……引っ越し、準備終わった?」
「うん…。」
そう答える声が、少しだけ震えた。
そうして二人だけのお疲れ様会を未知が開いてくれた。
想い続けているからこそ、離れなければならない。
愛しているからこそ、二度と会ってはいけない。
未知と別れた駅のホーム。
私は一度も振り返ることなく、今井圭佑という物語が綴られたこの街を、置き去りにした。
引越し当日、ガランとした部屋は驚くほど広く、自分の足音だけが空虚に響いた。
彼が不意に訪ねてきては、私の仕事の邪魔をしながら笑っていたあのソファも、今はもうない。
鍵を不動産屋に返し、そのまま新居へ向かう電車に揺られた。
街の景色が、彼と過ごした馴染みの風景から、全く知らない無機質な街並みへと塗り替えられていく。
たどり着いた新居は、まだカーテンすら掛かっていない、寒々しいアパートの一室。
窓を開けると、春を拒むような冷気が容赦なく流れ込んできた。
段ボールの山に囲まれた部屋で、私はようやく床に腰を下ろした。
膝の上で光るスマートフォンの画面。そこに浮かぶ『今井圭佑』の名前を指先でなぞり、ようやく私は削除ボタンを押す事ができた。
もし、あの妊娠が彼の嘘だったとしてもあるいは、本当に彼が家族を選んだのだとしても。もう、どちらでもいい。彼を失うことより、彼を信じていた自分自身を失うことの方が、ずっと、ずっと怖かった。
名前の消えた画面が、鏡のように今の私の顔を映し出す。泣いてもいない、ただひどく疲れ切った、見知らぬ女の顔だ。
始まりは、そんな絶望のどん底からだった。後に私の世界を変える「静寂」の主が、すぐそばまで来ていることなど、当時の私は知る由もなかった。


