連れて行かれる方向に見覚えのある建物を発見し、ハッとする。若干古びたアパート。ここは……。
予想通り、海里さんはアパートの階段を上って行く。私も続いた。
二階建てのアパートの……二階の右手奥の部屋が、海里さんのお家だ。因みに海里さんの住む部屋の真下の部屋が、柚佳さんのお家だったりする。
困惑していた。まさか海里さんの家に、私が?
「あのっ!」
階段を上り切った場所で呼び止める。
「私……大丈夫なんですか? 伺っても。海里さんのご家族の皆さんに、ご迷惑なんじゃ……。もう夜も遅いし、それに何も準備してないですし」
心の準備も、手土産も何もない……!
内心慌てている私を面白がるような、小さく笑う声が耳に届く。顔を上げて海里さんを見る。
彼は一瞥を送ってきた。内緒話をする如く、口元に人差し指を立てて教えてくれる。
「こっち」
進んで行く姿を見守る。彼は自宅と反対の端に位置する部屋の前で、歩みを止めている。
「早く」
促されて傍へ寄る。何かが揺れている。イソギンチャクのキャラクターだ。海里さんが今しがた開けた戸の鍵に付いている。
「行こう」
確認するように尋ねられた。「ここは誰のお家ですか?」と、聞きたかったけど。口にできなかった。先に海里さんが中へ入る。
ドアの前で既に思っていた。どこか懐かしい雰囲気のする場所だと。
「お邪魔します……」
玄関から台所が見える。先に上がった海里さんが、羽織っていた黒のジャンパーを脱ぎながら誰かと喋っている。こちらからは、その人物の顔を見れない。椅子に座る後ろ姿から、私たちより年上だと感じる。白シャツ黒ズボンの……仕事から帰ってきた会社員のような服装で、海里さんと話しながらカップ麺を啜っている。短く整えられたサラサラした黒髪に、既視感を覚える。
不思議に思って見つめていると、海里さんに促された。
「美緒。ここに座って」
椅子を勧められた。テーブルの向こう側の左の席。恐る恐る移動し、腰掛ける。正面の席では……この部屋の住人らしき男性が、麺を啜り続けている。
彼は何者だろう。二十代くらいに見える。背が高そう。スラッとした体型で、切れ長の優しげな目をしている。地味な色のネクタイは緩められ、シャツの一番上のボタンも外されていたので……きっと家に帰ったばかりで、一息ついていたところだったんだろうと予想する。海里さんに似ているし……親戚の人かな?
不意に視線を上げた彼と目が合う。おかしいな。初めて会った人なのに、やっぱりこの人を知っている。困惑して顔を強張らせているだろう私を安心させるように、優しく微笑み掛けてくる。
「大丈夫だよ。記憶が曖昧なんだろ? オレがちゃんと憶えてるから問題ないよ。安心して。……ちょっとだけ寂しいけどな」
そんな風に、どこかぎこちなく笑う彼を目に映した時。私の中で何かが痛んだ。胸を押さえる。
「えっ……と……」
言葉にできず俯く。「どこかで会いましたっけ?」とか「どちら様ですか?」などと聞くのも、違うような気がして。
「それよりさ。何しに来たの? まさか……まさかだよな?」
向かいに座る男性が、海里さんに尋ねている。海里さんは私の左隣の椅子に座っている。左手で頬杖をついて私と男性を見ている。
「悪い」
何についてなのか分からないけど、海里さんが謝った。男性は無言で俯き、自らの額を押さえている。
「美緒」
呼ばれて、海里さんの方を向く。
「さっき……花火を見ていた時に言ってくれた事、本当に? 俺の事……」
問われて頷く。そう言えば海里さんに、ハッキリ「好き」だと伝えたのは……初めてだったかも?
手を取られた。膝の上で左右とも、ぎゅっと握られる。神妙な顔つきで尋ねてくる。
「篤より?」
動揺した。自分の体が微かに揺れたのを自覚する。冷徹にも見える眼差しを向けられる。奥に苛烈な何かを隠しているようにも感じる意志の強そうな瞳が、私の心を捉える。
「オレと……付き合ってください」
泣きそうになる。海里さんからの申し出はとても……物凄く嬉しいのに。俯いてしまう。零れる。
「でも、それじゃあ……」
柚佳さんは? お兄ちゃんは? 私の気持ちは? 私は……海里さんと付き合っていいの?
「今日、答えを出す筈だったんですけど」
言いながら歯を食いしばる。
「私の覚悟が足りなかったみたいです」
顔を上げ、苦笑して見せる。
ここに至るまで、皆が幸せな方向に解決すればいいのにと願っていた。だけどそれは、私の都合のいい願望。今まで答えを先延ばしにしていたのも、全部自分の為。傷付きたくないし、傷付けたくもない。恨まれるのも嫌だし、後悔もしたくない。
だから、何もできなかったんだ。行動した結果を恐れて……踏み出せなかった。
「海里さん。柚佳さんの事は、どうするんですか? 私と付き合ったら、柚佳さんとは付き合えないんですよ?」
「美緒を選ぶよ」
返された答えに言葉が詰まる。確認する。
「私が……お兄ちゃんを好きでも?」
一瞬、海里さんの瞳の奥が揺らいだように感じる。随分と間があった後、彼の口が動いた。
「篤の事は、忘れてほしい」
髪を撫でられる。近くなる。
「本命じゃない奴に、触らせたらだめだろ?」
海里さんが触っているのに。何故か私が咎められた。言動から、私の本命がお兄ちゃんだと勘違いされてしまったのだと知る。
「抵抗しないと。際限がなくなる。篤に悪いだろ?」
頬に手を添えられ、顔を覗かれる。言い含められたけど。口付けを受け止める。
「うっわ……家族のラブシーン、きっつ!」
声が耳に届き、我に返る。テーブルの向かいから私たちのやり取りを静観していたらしい男性の視線に、顔が熱くなる。慌てて海里さんの肩を押し、身を離す。海里さんが彼へ、不満そうな目を向けている。
「家族?」
男性の言葉に、気になる部分があって聞き返す。
「もしかして……海里さんの、お兄さんですか?」
知りたくなって尋ねる。二人は凄く似ているし。違ったとしても……血の繋がりがあるのは間違いないと、内心納得していた。
「フフッ」
海里さんが笑っている。前屈みになり、お腹を押さえている様子に戸惑う。
「えっ? 私、何かおかしな事を言いました? 家族って聞いて……まず思い浮かんだのが、お兄さんかなって……」
笑って出た涙を指で拭っていた海里さんは表情を改め、私へ神妙な眼差しを注いでくる。
「家族だよ。兄弟じゃないけど。オレたちは家族だ」
教えてもらった内容について考える。従兄弟とか……おじさんと甥みたいな間柄かな?
「それにしたって、よくやるよ……」
俯いていた男性が席を立った。呆れているのかもしれない。愚痴めいた……うんざりしているのが伝わってくる声を残して玄関から外へ歩む後ろ姿を、椅子に座った姿勢のまま見送る。
「あの……海里さん。私、もしかして。何か失礼な事を言いました?」
「あー。大丈夫。泣いてたけど、あれは嬉し泣きだから。怒ったような態度だったのは、オレのせいだし」
「泣いてたっ?」
驚いて声を上げる。そういえば、彼は顔を隠すように俯いていた。
「再会できて、うるっときたんだろう」
「再会……」
呟く。海里さんの話に想像が膨らむ。生き別れだった従兄か、おじさん……なのかな?
「美緒、何も思い出さない?」
海里さんが顔を覗いてくる。探るような目で。
「海里さん……?」
不思議な気持ちになる。私……もしかして。何か忘れてるの?
暫く無言で、記憶を辿ろうとした。
「無理に思い出さなくてもいいんだ。大丈夫だから」
糸口を掴めず次第に焦り、目線を下に彷徨わせていた私へ……声を掛けてくれる。優しい微笑みが、どこか寂しげに見えて罪悪感が湧く。
「ごめんなさい……」
小さく発して項垂れる。何か、大事な事を忘れている気がする。思い出せない自分が悔しくて、奥歯を噛み締める。
腕を引っ張られた。椅子に座っている海里さんの胸へ、倒れ込むような体勢になる。強く抱擁されて戸惑う。
「美緒は悪くない」
私の肩に額を置いて、海里さんは言う。
「あの時……コンビニの前で、助けてくれてありがとう」
声が震えている。泣いているからだと気付いて驚く。
そっか。あの時の事、憶えていてくれたんだ。
彼の肩に手を置いて、少し体を離す。下を向いている海里さんが珍しくて、愛おしくて。私まで泣いてしまいそうになる。だから明るく微笑み掛ける。
「……はい。どういたしまして!」
ゆっくりと目線が、私へ向けられる。
「ずっと待ってた」
紡がれた言葉の意味を探る前に。抱えられていた。慌てる暇もなく、お姫様のように運ばれる。隣の部屋に寝かされ、見下ろされる。
相手の瞳に……自分の持つ願いにも思える感情を、確かめた気がする。
口付けを交わした。何度も。
与えられる感触を求め合いながら。ブラウスのボタンが外されていくのを止めなかった。
「篤は諦めて」
言い含めてくる。
これが最後だから。柚佳さん、どうか許してね……。
「さよなら、さよなら」
朝日で海が煌めいている。田舎の細い道路を歩いていた。ガードレールの向こうにある景色を眺めながら、大好きな歌を口ずさんでいる。
「あなたの心に、安らぎがありますように。……見付けてくれて、ありがとう」
詞を紡いだ主人公の感情が、自分にも重なる感覚がある。涙で潤む目を、手の甲で拭う。
高い空を、鳥が舞っている。茶色い鳥。トンビかな?
海里さんと……初めてデートした際の事を思い出す。高台にある、見晴らしのいい喫茶店へ行った。向かう道の途中で町を眺めていた時、似た鳥が飛んでいた。
あの頃はただ、自分の想いに振り回されていた。海里さんの気持ちを知って、自分の……この願いが、とても残酷だと感じる。
諦められない。身を引いたら、いっぱい後悔するんだって分かってる。
だから、最後に賭けをする。
覚悟を下さい。もう心は、汚れ切っているから。嫌われて傷付く事も平気なくらい、強い私になりたい。
列車に揺られて、海沿いにある田舎町へ来た。何年か前に亡くなった、おばあちゃんの家がある。今は空き家で、誰も住んでいない。幼い頃に、おばあちゃんからもらった鍵を持っている。「いつでもおいで」と……言ってくれた。
畳の部屋のカーテンを開ける。埃っぽい匂いがする。薄暗い部屋の隅に、腰を下ろす。
ここが今行ける限界。世界の端。私の世界は小さい。でも。とても大切な場所だったの。
「おばあちゃん、強くなりたい」
もうこの世界の、どこにもいない人に呟く。
「守れるくらい、強く」
目を開ける。窓から差す陽が暖かい。いつの間にか眠っていたようで、時計を見ると三時ちょっと前だった。
「ははっ」
虚しくて少し笑う。私、何やってるんだろう。期待して馬鹿みたい。
来てくれるかもしれないなんて……そんなの有り得ないって、分かってるでしょ?
あと一時間後には、帰らないと。電車の時刻に、間に合わなくなる。
「本当はっ……迎えに来てほしかった」
焦燥と落胆が、身の内にくすぶっている。本当の願いを祈るのは……今日で終わり。
彼が……ここへ来る筈がないのは、承知の上だった。まだ希望に縋ろうとする惨めな自分に、思い知らせる為だった。
強くなりたいのに。今の私は……真逆だ。


