きみと描いた星空は、まだ消えない

わたしは顔を上げた。

お母さんは微笑んでいた。

泣きそうな顔で、微笑んでいた。


「一緒に絵を描いている子がいる、って。その子の描く地上が、自分の夜空とつながるって。それがとても嬉しそうで。だからよかった。今日は来てくれて、本当にありがとう」


わたしは「ありがとうございました」と言って、頭を下げた。

車のドアが閉まるまで、泣かなかった。

でも外に出た瞬間、目から涙が出てしまう。

声を殺して、少しだけ泣いた。

それから深呼吸をして、歩き始める。


蒼生の家から帰ったその夜、眠れなかった。

「また、星、数えようね」という言葉が、頭の中でずっと繰り返されていた。

また数えよう、また来る……そう思いたかった。

でも蒼生の顔色が、あの白さが、頭から離れなかった。


夜明け前、わたしはバスターミナルへ行った。

理由はわからない。

ただ、眠れなくて、暗いうちにコートを羽織って外へ出た。

バスターミナルは、夜中とも朝とも言えない時間だった。

街灯の光だけが白く、あとは全部暗かった。


「えっ?」


七番ベンチのそばに、誰かが……立っていたのを見て、驚いて声が出る。

思わず駆け寄ってみると、紺色のコートを着て、両手で何かを抱えるようにして、一人の女性が立っていた。

それは、蒼生のお母さんだった。

顔が、昨日の昼間に会った時とは違って、目が赤く、頬がこけていた。

蒼生と同じ形の目が、あの時と同じように、わたしをまっすぐ見ていた。

わたしの足が止まった。

夜明け前のバスターミナルに、お母さんがいる。

……その事実が、何を意味するのかを、わたしはすぐに理解した。

理解したくなかった。でも、わかってしまった。

お母さんはわたしが近づくのを待って、静かに口を開いた。


「蒼生は……昨夜、息を引き取りました」


言葉が、冬の夜気の中に白く溶けた。

わたしは何も言えず、立ちつくす。

静かに七番ベンチを見た。

霜が降りた、いつものベンチ。

蒼生がいつも座っていた場所……。

もうここに来る事はない、ということが、その一言でわかった。

……わたしが帰った後、病状が急変したのだろうか。

わたしが会いに行かなければ、蒼生はもしかしたら、まだ……?


「去年の春、医者から夏は越えられないかもしれないって言われていました」

「えっ?」


わたしが心の中を読み取ったかのように、ぽつりと言ったお母さん。


「わたしたち家族は、蒼生が望む事、全てを叶えてやりたいと、自宅療養に切り替えました。蒼生は死期を悟っていてもそれを悲観せずにいつも笑顔で、後悔のない人生を送っていました。そのせいか、越えられないと言われていた夏を越え、秋を迎えて冬の始まりにあなたと出会った」


当たり前だけど、初めて聞く話に、わたしは衝撃を受けていた。

わたしと出会った時にはすでに余命0日状態だったんだ……。


「ここに来るたびに、蒼生はあなたのことを話していました。まだ死ねない、結羽が泣かなくなるまでは……って」


お母さんの声が、揺れていた。

泣くのをこらえているのがわかった。

わたしも、こらえようとしていた。

でもうまくいかなかった。

胸の奥底から何かがこみあげてきた。

何よ、わたしが泣かなくなるまではって……。


「これを、あなたに渡してほしいと言われていました。あの子が自分で渡せなかったら、ここに来て待っていてほしいと」


蒼生のお母さんがそっと差し出したのは、古いスケッチブックだった。

蒼生が毎晩、膝の上に置いていた、あの灰色の表紙のスケッチブック。

それから、小さな封筒。封筒の表には、一言だけ書いてあった。


『結羽へ』


蒼生の字だった。

わたしは両手でそれをそっと、受け取る。

スケッチブックは、思っていたより重かった。

だって、何年分もの夜空が、この中に詰まっているから。


「ありがとう……ございます」


声が、震えた。

それだけしか言えなかった。

蒼生のお母さんはしばらくわたしを見ていた。

それから、静かにうなずいた。


「……蒼生が、最後まで楽しそうだったのは、あなたのおかげです。本当にありがとうございました。あなたはこれからあなたの道を進んでください。決して後悔のない道を。蒼生もそれを心から願っていると思います」


蒼生のお母さんは頭を下げて、バスターミナルを出ていった。

その背中が、夜明け前の暗がりに消えていくのを、わたしはずっと見ていた。