やがて蒼生が言った。
「……絵、描こう」
わたしは泣き腫らした目のまま、スケッチブックを開いた。
蒼生も隣で鉛筆を持った。
二人の手が、それぞれのページに動き始めた。
今夜は、うまく描けなかった。
線が歪んで、比率がずれた。
涙で視界がぼやけていたせいかもしれない。
でも、決して手は止めなかった。
バスターミナルのコンクリートを描き、自動販売機の光を描いた。
そして、七番ベンチを描く。
今夜だけのこの景色を、ただ残したかった。
描いていると、少しずつ落ち着いてきた。
鉛筆の先に意識を向けているうちに、涙が引いていった。
蒼生が「描こう」と言ってくれたのは、そのためだったかもしれない、と思った。
泣いているわたしに、何も言わずに、ただ一緒に描こうと言ってくれた。
蒼生は黙って夜空を描いていた。
いつもより、線が丁寧な気がした。
一本一本、確かめるように引いていく。
まるで、この夜空を、ちゃんと記録しておきたいとでも言うように。
「……できた」
「わたしも……」
そう言って、完成した二枚を並べると、また一枚の夜になった。
わたしの地上には、二つの人影がある。
七番ベンチに並んで座った、小さな二つの形。
意識して描いたわけではなかったのに、気づいたらそこにいた。
蒼生の夜空には、一筋の流れ星があった。
細くて、でも確かな軌跡で、夜空を横切っていた。
「ちゃんとつながった」
蒼生が言った。
いつもの言葉だった。
でも今夜は、その言葉がいつもより重く、温かく聞こえる。
タイトルは、つけなかった。
つけなくてよかったと思う。
この夜のことは、名前をつけなくても、ずっと覚えていると思ったから。
帰り際、スケッチブックを閉じながら、蒼生がぽつりと言った。
「結羽はこれからも、描き続けてね」
「……うん?」
「俺の分まで、色んなものを見て、感じて、絵にしてくれたら、それでいい」
わたしは返事ができなかった。
その言葉の意味が、重くて、温かくて、怖かった。
俺の分まで……その言葉が指す未来を、わたしはまだ直視できなくて。
でも、うなずくことしかできなかった。
そんなわたしを見て、蒼生は笑った。
いつもの、絵本みたいな笑い方で。
「また来る」
蒼生が言った。
「うん。待ってるね」
そう言えた。
蒼生は小さくうなずいて、夜の中へ歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、わたしはずっと見ていた。
コートの背中が、街灯の光の中に溶けて消えた。
七番ベンチに一人で座って、わたしはまた空を見た。
冬の大三角が、さっきと同じ場所にあった。
何も変わっていないけれど、全部が違って見えた。
今夜、色々なことがあった。
病気だと聞いた。
好きだと言ってしまった。
一緒に絵を描いた。
手を握られた。
全部が、今夜だけの出来事だった。
明日になっても、消えない出来事だった。
好き、という言葉を自然と言えた夜だった。
受け取ってもらえなかったかもしれない。
でも、言えた。
それだけで、何かが少し軽くなった気がした。
蒼生は「また来る」と言った。
わたしは「待ってる」と言った。
その言葉が、今夜の全部の中で、一番温かかった。
病気なの、と聞いた。
うん、と言ってくれた。
生まれたときからずっと、と言ってくれた。
蒼生は今まで何も言わなかった。
わたしも何も聞かなかった。
でも今夜、初めて言葉にした。
それだけで、二人の間にあったものが、少し変わった気がした。
怖くないのは、結羽がいるから、と言ってくれた。
その言葉が、まだ胸の奥で温かかった。
冷たいベンチに一人で座っていても、その温かさだけが残っていた。
「……絵、描こう」
わたしは泣き腫らした目のまま、スケッチブックを開いた。
蒼生も隣で鉛筆を持った。
二人の手が、それぞれのページに動き始めた。
今夜は、うまく描けなかった。
線が歪んで、比率がずれた。
涙で視界がぼやけていたせいかもしれない。
でも、決して手は止めなかった。
バスターミナルのコンクリートを描き、自動販売機の光を描いた。
そして、七番ベンチを描く。
今夜だけのこの景色を、ただ残したかった。
描いていると、少しずつ落ち着いてきた。
鉛筆の先に意識を向けているうちに、涙が引いていった。
蒼生が「描こう」と言ってくれたのは、そのためだったかもしれない、と思った。
泣いているわたしに、何も言わずに、ただ一緒に描こうと言ってくれた。
蒼生は黙って夜空を描いていた。
いつもより、線が丁寧な気がした。
一本一本、確かめるように引いていく。
まるで、この夜空を、ちゃんと記録しておきたいとでも言うように。
「……できた」
「わたしも……」
そう言って、完成した二枚を並べると、また一枚の夜になった。
わたしの地上には、二つの人影がある。
七番ベンチに並んで座った、小さな二つの形。
意識して描いたわけではなかったのに、気づいたらそこにいた。
蒼生の夜空には、一筋の流れ星があった。
細くて、でも確かな軌跡で、夜空を横切っていた。
「ちゃんとつながった」
蒼生が言った。
いつもの言葉だった。
でも今夜は、その言葉がいつもより重く、温かく聞こえる。
タイトルは、つけなかった。
つけなくてよかったと思う。
この夜のことは、名前をつけなくても、ずっと覚えていると思ったから。
帰り際、スケッチブックを閉じながら、蒼生がぽつりと言った。
「結羽はこれからも、描き続けてね」
「……うん?」
「俺の分まで、色んなものを見て、感じて、絵にしてくれたら、それでいい」
わたしは返事ができなかった。
その言葉の意味が、重くて、温かくて、怖かった。
俺の分まで……その言葉が指す未来を、わたしはまだ直視できなくて。
でも、うなずくことしかできなかった。
そんなわたしを見て、蒼生は笑った。
いつもの、絵本みたいな笑い方で。
「また来る」
蒼生が言った。
「うん。待ってるね」
そう言えた。
蒼生は小さくうなずいて、夜の中へ歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、わたしはずっと見ていた。
コートの背中が、街灯の光の中に溶けて消えた。
七番ベンチに一人で座って、わたしはまた空を見た。
冬の大三角が、さっきと同じ場所にあった。
何も変わっていないけれど、全部が違って見えた。
今夜、色々なことがあった。
病気だと聞いた。
好きだと言ってしまった。
一緒に絵を描いた。
手を握られた。
全部が、今夜だけの出来事だった。
明日になっても、消えない出来事だった。
好き、という言葉を自然と言えた夜だった。
受け取ってもらえなかったかもしれない。
でも、言えた。
それだけで、何かが少し軽くなった気がした。
蒼生は「また来る」と言った。
わたしは「待ってる」と言った。
その言葉が、今夜の全部の中で、一番温かかった。
病気なの、と聞いた。
うん、と言ってくれた。
生まれたときからずっと、と言ってくれた。
蒼生は今まで何も言わなかった。
わたしも何も聞かなかった。
でも今夜、初めて言葉にした。
それだけで、二人の間にあったものが、少し変わった気がした。
怖くないのは、結羽がいるから、と言ってくれた。
その言葉が、まだ胸の奥で温かかった。
冷たいベンチに一人で座っていても、その温かさだけが残っていた。


