わたしは蒼生の横顔を見た。
雨の光が、蒼生の輪郭を薄く縁取っていた。
細い首、長い睫毛、どこか遠くを見ているような目……。
好きなものを持つのは怖い、と蒼生は言った。
この人も、何かを怖いと思っているんだ、とわたしは思った。
なんで怖いんだろう。
どんな「好きなもの」を持っているんだろう……?
聞けなかった。
でも、隣にいた。
雨の音が大きくなった。
屋根を叩く音が、響いていて、待合スペースの外は、白く煙っていた。
こんな夜に、こんな場所にいる。
学校にも行けない、絵も描けない、友達もいない……何もない自分が、今夜だけはここにいていい気がした。
蒼生の隣に、ただいるだけでいい。
それだけが、今のわたしにはちょうどよかった。
今日は雨が降ってきたせいか、少し雨が弱まったタイミングで、蒼生とわたしは席を立った。
特に何か言葉を交わすわけでもなく、当たり前のように待合室を出て、雨の音が響く中、静かにわたしたちは歩く。
バスターミナルの出口まで歩いたとき、ふと蒼生が立ち止まった。
振り返ったかと思うと、蒼生の指先が、わたしの前髪に触れた。
「……雨粒」
それだけ言って、蒼生は前髪についた水滴をそっと払った。
冷たい指だったけれど、やわらかかった。
それは、ほんの一瞬のことだった。
ためらいもなく、でも乱暴でもなく、ただ自然に。たったそれだけだった。
でもわたしの体は、一瞬だけ固まった。
心臓が、変な拍子で一回だけ鳴った。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、数秒間、空気が止まった。
蒼生はすでに前を向いて歩き始めていた。
何事もなかったように。
わたしはその背中を見ながら、「おやすみ」と言った。
声が、少し変だったかもしれない。
昼間のことを、今夜で上書きしてしまいたかった。
先生の言葉も、あの冷たさも……今夜の雨の音で塗り替えてしまいたかった。
完全には無理だとわかっていたけれど、蒼生の冷たい指の感触が、前髪に残っていた。
ただそれだけで、今夜はよかったと思っている。
家に帰って、濡れたコートを脱いで、熱いシャワーを浴びた。
濡れたコートを持って洗面所を出ると、廊下にお母さんが立っていた。
「コート、少し濡れてるじゃない」
「途中で雨が降ってきちゃって……」
「……そう」
それだけだった。
昼間、先生が来たことには触れなかった。
どこに行っていたかも聞かなかった。
「ココア、入れてあるから、飲みなさい。髪、ちゃんと乾かさないとダメよ。……風邪ひかないようにね」
そう言うと、お母さんはそのまま自分の部屋へ戻っていった。
その後ろ姿を見送った後、リビングに入る。
テーブルの上には、ゆらゆらと湯気が立つ、ココアの入ったマグカップが置いてあった。
コートをハンガーにかけてから、マグカップを両手で包み込むように持つ。
大好きだったココアをお母さんが入れてくれた……それだけで、体が温まってくるようで、涙がにじんだ。
何も言わないわたしに何も聞かないお母さん。
わたしを信じて、話してくれる日を待っているのだと感じて、ココアの中に涙がひとつぶ落ちた。
……でも、もう少し待って欲しい。
今はまだ、話したくない。
髪を乾かした後、わたしは布団に入った。
蒼生の事が好き、かもしれない。
わたしは天井を見たまま、その言葉が頭の中に浮かぶのを止められなかった。
好き……その言葉が出てきた瞬間、ああそうか、とわかった。
ずっとそうだったのかもしれない。最初の夜から、ずっと。
でもそのすぐ後に、胸の奥でひやりとするものを感じた。
蒼生は、何かを隠している。
「慣れてる」という言葉。
深夜に一人でバスターミナルに来る理由。
遠くを見るような目。
暗い部屋が怖い、という言葉。
好きなものを持つのは怖い、という言葉。
好きだと思うほど、怖くなった。
昼間の怒りと、今夜の温かさと、蒼生への不安が、全部一緒に胸の中にあった。
こんなにごちゃごちゃした気持ちを抱えて眠れるはずもなかった。
雨の音が、まだ窓の外で鳴っていた。
雨の光が、蒼生の輪郭を薄く縁取っていた。
細い首、長い睫毛、どこか遠くを見ているような目……。
好きなものを持つのは怖い、と蒼生は言った。
この人も、何かを怖いと思っているんだ、とわたしは思った。
なんで怖いんだろう。
どんな「好きなもの」を持っているんだろう……?
聞けなかった。
でも、隣にいた。
雨の音が大きくなった。
屋根を叩く音が、響いていて、待合スペースの外は、白く煙っていた。
こんな夜に、こんな場所にいる。
学校にも行けない、絵も描けない、友達もいない……何もない自分が、今夜だけはここにいていい気がした。
蒼生の隣に、ただいるだけでいい。
それだけが、今のわたしにはちょうどよかった。
今日は雨が降ってきたせいか、少し雨が弱まったタイミングで、蒼生とわたしは席を立った。
特に何か言葉を交わすわけでもなく、当たり前のように待合室を出て、雨の音が響く中、静かにわたしたちは歩く。
バスターミナルの出口まで歩いたとき、ふと蒼生が立ち止まった。
振り返ったかと思うと、蒼生の指先が、わたしの前髪に触れた。
「……雨粒」
それだけ言って、蒼生は前髪についた水滴をそっと払った。
冷たい指だったけれど、やわらかかった。
それは、ほんの一瞬のことだった。
ためらいもなく、でも乱暴でもなく、ただ自然に。たったそれだけだった。
でもわたしの体は、一瞬だけ固まった。
心臓が、変な拍子で一回だけ鳴った。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、数秒間、空気が止まった。
蒼生はすでに前を向いて歩き始めていた。
何事もなかったように。
わたしはその背中を見ながら、「おやすみ」と言った。
声が、少し変だったかもしれない。
昼間のことを、今夜で上書きしてしまいたかった。
先生の言葉も、あの冷たさも……今夜の雨の音で塗り替えてしまいたかった。
完全には無理だとわかっていたけれど、蒼生の冷たい指の感触が、前髪に残っていた。
ただそれだけで、今夜はよかったと思っている。
家に帰って、濡れたコートを脱いで、熱いシャワーを浴びた。
濡れたコートを持って洗面所を出ると、廊下にお母さんが立っていた。
「コート、少し濡れてるじゃない」
「途中で雨が降ってきちゃって……」
「……そう」
それだけだった。
昼間、先生が来たことには触れなかった。
どこに行っていたかも聞かなかった。
「ココア、入れてあるから、飲みなさい。髪、ちゃんと乾かさないとダメよ。……風邪ひかないようにね」
そう言うと、お母さんはそのまま自分の部屋へ戻っていった。
その後ろ姿を見送った後、リビングに入る。
テーブルの上には、ゆらゆらと湯気が立つ、ココアの入ったマグカップが置いてあった。
コートをハンガーにかけてから、マグカップを両手で包み込むように持つ。
大好きだったココアをお母さんが入れてくれた……それだけで、体が温まってくるようで、涙がにじんだ。
何も言わないわたしに何も聞かないお母さん。
わたしを信じて、話してくれる日を待っているのだと感じて、ココアの中に涙がひとつぶ落ちた。
……でも、もう少し待って欲しい。
今はまだ、話したくない。
髪を乾かした後、わたしは布団に入った。
蒼生の事が好き、かもしれない。
わたしは天井を見たまま、その言葉が頭の中に浮かぶのを止められなかった。
好き……その言葉が出てきた瞬間、ああそうか、とわかった。
ずっとそうだったのかもしれない。最初の夜から、ずっと。
でもそのすぐ後に、胸の奥でひやりとするものを感じた。
蒼生は、何かを隠している。
「慣れてる」という言葉。
深夜に一人でバスターミナルに来る理由。
遠くを見るような目。
暗い部屋が怖い、という言葉。
好きなものを持つのは怖い、という言葉。
好きだと思うほど、怖くなった。
昼間の怒りと、今夜の温かさと、蒼生への不安が、全部一緒に胸の中にあった。
こんなにごちゃごちゃした気持ちを抱えて眠れるはずもなかった。
雨の音が、まだ窓の外で鳴っていた。


