きみと描いた星空は、まだ消えない

昼間の先生の顔が、まだ頭に残っていた。

でも雨の音を聞いていると、だんだん遠くなっていった。

さっきまであった激しい胸の痛みも、虚しさも、不思議なくらい無くなっている。

きっと、蒼生がそばにいるからだ。

もしかしたら、わたしは、この人のことが、好きなのかもしれない。

そう思いかけて、わたしは頭の中でその言葉を打ち消した。

まだそういう言葉にしたくなかった。

言葉にしてしまったら、何かが変わってしまう気がした。

今のまま、ただ隣にいたかった。


「寒くない?」


とわたしが聞いた。


「少し」

「なんで薄着なの、いつも」

「……慣れてるから」


また「慣れてる」という言葉だった。

わたしは少し引っかかりを覚えたが、聞けなかった。


『慣れてる、って何に?』


その言葉は、なんとなく重かった。

慣れたくなかったのに、慣れてしまったような、そういう重さが。



雨の音の中で、二人で初めて「好きなもの」の話をした。

蒼生は


「冬の大三角が好き」


と言った。


「シリウスとベテルギウスとプロキオン。三つで一番大きな三角を作るから」


わたしは


「朝方の色が好き」


と言った。


「夜でも昼でもない、あの中途半端な青」

「夜明けの青……ブルーアワーとかブルーモーメント?」

「そう!蒼生、よく知ってるね」


蒼生が知っている事に感動して、わたしは思わず身を乗り出してしまった。

ブルーアワーとか、ブルーモーメントなんて言葉はわたしの周りで使っている人なんて誰もいなかったから。

好きな物を共有できた時の喜びってこんなに嬉しいんだって、初めて知った。

そんなわたしを見て、蒼生がクスッと笑う。


「結羽らしいね」

「え、どういう意味?」

「境界にいるものが好きなんだね。夜でも昼でもない、どちらでもある時間」


わたしは少し考えて、


「……そうかもしれない」


と答えた。

確かに、自分が描いてきた絵は、そういうものばかりだった気がした。

はっきりと昼でも夜でもない、光と影がちょうど混じり合う瞬間。

その中途半端さが、きれいだと思っていた。

境界にいるものが好き……その言葉が、しばらく頭に残った。

わたしは今、学校と家の境界にいる。

行けない自分と、行きたい自分の境界にいる。

でも蒼生はそれを「らしい」と言った。

責めるでも哀れむでもなく、ただそういう人なんだね、と言った。

それが、なんだか嬉しかった。


「ねえ。……蒼生は、怖いものって、ある?」


わたしが聞くと、蒼生はすこし間を置いた。

雨の音だけが続いた。


「……暗い部屋が怖いかな」

「暗い部屋……って?」

「出口のない感じがする部屋、かな」


蒼生はそれだけ言って、すこし笑った。


「なんか……変な答えだね」

「全然、変じゃないよ!」


蒼生が肩をすくめて言ったので、わたしはすぐに否定した。

変じゃない、全然変じゃないよ。

そういう怖さがある人のことを、わたしはわかる気がした。

見えない出口を探してがんばっているのに、部屋が暗くて何も見えなくて、それでもそこにいなきゃいけない感じ。


「結羽は?」

「えっ?」

「怖いもの」


わたしの怖いものは……。


「……わたしは、誰かに好きなものを見せることが怖い」


言ってしまってから、わたしは自分で驚いてしまった。

自分で初めて言語化したからだ。

怖いとは理解していた。

でも「誰かに見せることが怖い」という言葉になったのは、今夜が初めてだった。

口に出してしまったら、せっかく蓋をして封印していた物を開放して、溢れ出してしまうと思ったから……。


「それは、また傷つくのが怖いってこと?」


蒼生が静かに聞いた。

わたしは答えられなかった。

でも答えなくていいと思った。

蒼生はわかってくれている気がした。

聞いたことへの答えを求めているんじゃなくて、ただ一緒に雨の音を聞いてくれていた。


「うん、わかる」


何も答えていないのに、不意に蒼生は言った。

静かに雨を見ながら。

……ほら、やっぱりわかってくれていた。


「怖いよね、好きなものを持つのは」


その言葉の後に、小さな沈黙があった。