なんでもないふりをしたくて、唇を噛んだ。
わたしはゆっくりスケッチブックを受け取る。
鉛筆を受け取ろうとする手が、少し震えていた。
あの日以来初めて、白いページと向き合う。
この感覚を、忘れていた。
白いページの前に立つと、何かを問われているような感じがする。
何を見てきたの?
何を残したいの?
どこから描けばいいのかわからなくて、わたしはしばらく鉛筆を持ったまま止まっていた。
「……最初の一本、どこに引けばいいかわからない」
思わず言ってしまった。
わたしの言葉を聞いて、蒼生は少し考えてから口を開く。
「一番目に飛び込んでくるものを描けばいい。深く考えないで、目が止まったところから」
わたしはバスターミナルを見回した。
街灯の光。
コンクリートの地面。
錆びた七番のプレート。
自動販売機の白い光。
冬の空気に溶けていく息の白さ。
ベンチの下に積もった砂埃。
風で転がっていく、誰かのレシート。
……全部全部、誰かが見過ごしていく景色だった。
でも確かにそこにあって、今夜だけの形をしているのだと思う。
目が止まったのは、自動販売機だった。
白くて、四角くて、夜の中でひとりだけ光っていた。
誰かが押すのを待ちながら、ずっとそこにある。
なんとなく、自分に似ている気がした。
「……自動販売機にする」
「そっか」
それだけで、蒼生は何も言わなかった。
良いとも悪いとも言わなかった。
ただ自分のスケッチブックを開いて、夜空を描き始めている。
わたしも、最初の線を引いた。
最初の線は、歪んだ。
でも次の線は、少しだけましだった。
数ヶ月のブランクは確かにあって、思い通りにいかないところが山ほどあった。
線が震えて、比率がずれて、陰影がうまくつかなかった。
でも手を動かしているうちに、何かが戻ってくる感覚があった。
筋肉の記憶みたいなもの……体が覚えていた。
自動販売機の輪郭を描いて、光の当たり方を考えた。
光源はどこだろう。
自販機自体が光っているから、周りに白い光が漏れている。
その光が地面に落ちて、細い線になって伸びている。
そういうことを、久しぶりに考えた。
「影……って、どうやって描くの?」
気づいたら聞いていた。
蒼生は手を止めず、わたしの方も見ずに答えた。
「光がどこから来てるか決めてから、反対側に伸ばす。強い光ほど、影も濃くて短い。弱い光は、影が薄くて長い」
「自販機の光は?」
「四方に広がってる。だから影も、四方にちょっとずつ出る」
わたしはそれを試した。
自動販売機の足元から、四方向にうっすら影を伸ばした。
確かに、それだけで地面の上に立っている感じが出た。
「本当だ」
「観察すれば、ちゃんと見えてくるから」
蒼生はそれだけ言って、また夜空に戻った。わたしも地上に戻った。
蒼生は教えるのがうまいと思った。
うまくなれ、とは言わず、ただ、見えるものを教えてくれた。
蒼生は隣で夜空を描いていた。
鉛筆の音だけが、夜の中に溶けていく。
お互いに何も話さず、ただ無心に鉛筆を動かしていた。
でも、沈黙が温かく感じる。
これは今まで感じたことのない温かさだった。
誰かと一緒に何かをしているときの、あの充実感。
わたしはそれを、絵を描いていた頃以来、感じていなかったのかもしれない。
描いているうちに、だんだん夢中になっていた。
下手くそでいい、と思ったら、不思議と手が動いた。
うまく描こうとしなくていい。
見えたものを、ただ紙の上に置いていくだけでいい。
そう思ったら、バスターミナルの景色が、少しずつ鉛筆の先に乗ってきた。
七番ベンチの脚を描いた。
錆が浮いていて、コンクリートに影を落としていた。
自動販売機の光を描いた。
白くて、少し黄色みがかっていて、地面に細く伸びていた。
空気の冷たさは描けなかった。
息の白さも、うまく描けなかった。
でも、今夜ここにいる、ということは、描けた気がした。
わたしはゆっくりスケッチブックを受け取る。
鉛筆を受け取ろうとする手が、少し震えていた。
あの日以来初めて、白いページと向き合う。
この感覚を、忘れていた。
白いページの前に立つと、何かを問われているような感じがする。
何を見てきたの?
何を残したいの?
どこから描けばいいのかわからなくて、わたしはしばらく鉛筆を持ったまま止まっていた。
「……最初の一本、どこに引けばいいかわからない」
思わず言ってしまった。
わたしの言葉を聞いて、蒼生は少し考えてから口を開く。
「一番目に飛び込んでくるものを描けばいい。深く考えないで、目が止まったところから」
わたしはバスターミナルを見回した。
街灯の光。
コンクリートの地面。
錆びた七番のプレート。
自動販売機の白い光。
冬の空気に溶けていく息の白さ。
ベンチの下に積もった砂埃。
風で転がっていく、誰かのレシート。
……全部全部、誰かが見過ごしていく景色だった。
でも確かにそこにあって、今夜だけの形をしているのだと思う。
目が止まったのは、自動販売機だった。
白くて、四角くて、夜の中でひとりだけ光っていた。
誰かが押すのを待ちながら、ずっとそこにある。
なんとなく、自分に似ている気がした。
「……自動販売機にする」
「そっか」
それだけで、蒼生は何も言わなかった。
良いとも悪いとも言わなかった。
ただ自分のスケッチブックを開いて、夜空を描き始めている。
わたしも、最初の線を引いた。
最初の線は、歪んだ。
でも次の線は、少しだけましだった。
数ヶ月のブランクは確かにあって、思い通りにいかないところが山ほどあった。
線が震えて、比率がずれて、陰影がうまくつかなかった。
でも手を動かしているうちに、何かが戻ってくる感覚があった。
筋肉の記憶みたいなもの……体が覚えていた。
自動販売機の輪郭を描いて、光の当たり方を考えた。
光源はどこだろう。
自販機自体が光っているから、周りに白い光が漏れている。
その光が地面に落ちて、細い線になって伸びている。
そういうことを、久しぶりに考えた。
「影……って、どうやって描くの?」
気づいたら聞いていた。
蒼生は手を止めず、わたしの方も見ずに答えた。
「光がどこから来てるか決めてから、反対側に伸ばす。強い光ほど、影も濃くて短い。弱い光は、影が薄くて長い」
「自販機の光は?」
「四方に広がってる。だから影も、四方にちょっとずつ出る」
わたしはそれを試した。
自動販売機の足元から、四方向にうっすら影を伸ばした。
確かに、それだけで地面の上に立っている感じが出た。
「本当だ」
「観察すれば、ちゃんと見えてくるから」
蒼生はそれだけ言って、また夜空に戻った。わたしも地上に戻った。
蒼生は教えるのがうまいと思った。
うまくなれ、とは言わず、ただ、見えるものを教えてくれた。
蒼生は隣で夜空を描いていた。
鉛筆の音だけが、夜の中に溶けていく。
お互いに何も話さず、ただ無心に鉛筆を動かしていた。
でも、沈黙が温かく感じる。
これは今まで感じたことのない温かさだった。
誰かと一緒に何かをしているときの、あの充実感。
わたしはそれを、絵を描いていた頃以来、感じていなかったのかもしれない。
描いているうちに、だんだん夢中になっていた。
下手くそでいい、と思ったら、不思議と手が動いた。
うまく描こうとしなくていい。
見えたものを、ただ紙の上に置いていくだけでいい。
そう思ったら、バスターミナルの景色が、少しずつ鉛筆の先に乗ってきた。
七番ベンチの脚を描いた。
錆が浮いていて、コンクリートに影を落としていた。
自動販売機の光を描いた。
白くて、少し黄色みがかっていて、地面に細く伸びていた。
空気の冷たさは描けなかった。
息の白さも、うまく描けなかった。
でも、今夜ここにいる、ということは、描けた気がした。


