きみと描いた星空は、まだ消えない

その蒼生の世界に、入れた事もわたしにとっては世界が変わった事と同じと言ってもいいと思う。



次の日の夜。

蒼生は古いスケッチブックを持ってきた。

新しいものではなくて、表紙がよれて角が丸くなった、何度も開かれた形跡のあるもの。

A4より少し大きいサイズで、灰色の表紙に、何も書かれていなかった。


「見る?」


差し出されたスケッチブックを、わたしは受け取った。

ページを開いて、息が止まった。

夜空だった。

ただの夜空ではなく、細い鉛筆の線で丁寧に記録された、何十枚もの夜空。

それぞれのページの右下に日付が書いてある。

一年前、二年前、もっと前のものもある。

流れ星の軌跡が斜めに走っているページ。

雲の形が変わっていく様子を連続で描いたページ。

星座の線を薄く引いて、それぞれの星に丸印をつけたページ。

月の満ち欠けを一ヶ月分並べて描いたページ。

どれも、写真じゃなかった。

でも、写真より正確に、夜空の「感じ」が伝わってくる気がした。

光の強さとか、空気の冷たさとか、その夜にそこにいたということが、線の一本一本に残っているような感じがした。

わたしはページをめくる手を、なかなか止められなかった。

こんなに丁寧に、こんなに長い時間をかけて、夜空を描き続けた人がいる。

夜中のバスターミナルで、一人で、何年も。


「……上手いね」


やっと声を出すと、蒼生は少し困った顔をした。


「上手いとか下手とかじゃなくて」

「じゃあ、なに?」

「ただ、残したかっただけ」


わたしはスケッチブックのページをゆっくり繰りながら、


「……なんで残したいの?」


と聞いた。


「忘れたくないから。夜空は毎日少しずつ違うから」


蒼生は言った。


「今日の夜空は、昨日とも明日とも違う。記録しておかないと、消えてしまう」


それを聞いて、わたしは手を止めた。

スケッチブックを見ていたのに、急に、自分のことを言われているような気がした。

……わたしはあの日から、何も残してこなかった。

あの日から、筆を置いた。

スケッチブックは目に入らないように、押し入れに入れた。

見るのも嫌で、触るのも嫌で、「絵が好きだった自分」ごと、どこかに埋めてしまった。

でも消えていなかった。

蒼生のスケッチブックを見ながら、わたしの手が微かに震えた。

絵が見たい、という感覚ではなかった。

描きたい、という感覚でもなかった。

ただ——何かを失ったときの、あの痛みが、また胸の奥で動き出したような気がした。

蓋をしていたはずの場所が、ほんの少しだけ、動いた。


「結羽は、どんな絵を描いてたの?」


蒼生が聞いた。


「風景とか。人じゃなくて、景色ばっかり」

「どんな景色?」

「……朝方の空とか。夕方の道路とか。ぜんぶ、誰もいない景色」

「なんで誰もいない景色ばかり描いていたの?」


わたしは少し考えた。

誰かに聞かれたことのない質問だった。

先生も、友達も、なんで風景ばかり描くのと聞いたことがなかった。


「……人がいると、その人のことを描かなきゃいけない気がして。でも景色だけなら、わたしが見たままでいい気がして」

「なるほど」


と蒼生は言った。


「結羽は、自分が見た世界を、残したかったんだ」


それは、わたし自身が言葉にしたことのない感覚だった。