診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

あのキスから、三日が経った。

 たった三日なのに。

 それだけで、全部が変わってしまった気がする。

     ◇

「白石さん、最近ちょっと雰囲気違うね」

 ナースステーションで、佐伯がからかうように言った。

「え?」
「なんかこう……柔らかくなったというか」

「そ、そんなことないです」

 慌てて否定する。

 でも、自分でもわかっていた。

 変わってしまったこと。

 黒崎と目が合うだけで、意識してしまうこと。

 近くに来ると、心臓がうるさくなること。

 そして――

 触れられたときの感覚が、まだ消えないこと。

「ねえ、もしかしてさ」
「やめてください……!」

 言われる前に止める。

 でも、顔が熱いのは隠せない。

     ◇

 仕事中も、距離は近いままだった。

「白石、これ確認しろ」
「はい」

 呼ばれる回数は変わらない。
 むしろ少し増えている気がする。

 指導も相変わらず厳しい。

 でも。

 ふとした瞬間に視線が合うと。

 ほんの一瞬だけ、空気が変わる。

「……」

「……」

 何も言わないのに、わかってしまう。

 あの夜のことを、互いに忘れていないこと。

     ◇

 それでも。

 時間が経つほどに、別の感情が大きくなっていった。

 ――これって、何なんだろう。

 仕事の関係?

 違う。

 恋人?

 それも違う。

 じゃあ、何?

 答えはどこにもなかった。

     ◇

 その日の昼休み。

 陽菜は一人で休憩室にいた。

 いつもなら少し気が楽になる時間なのに、今日は違う。

 胸の奥が、ずっとざわついている。

「……このままでいいのかな」

 ぽつりと呟く。

 黒崎は何も言わない。

 関係を定義するつもりはない、と言った。

 でも。

 キスはした。

 触れられた。

 「側にいろ」と言われた。

 それなのに。

 ――未来が、見えない。

 自分がどこにいるのか、わからない。

「……だめだ」

 小さく首を振る。

 このまま流されるのは、違う気がする。

     ◇

 その日の夕方。

 業務が落ち着いたタイミングで、陽菜は決めた。

 ――ちゃんと話そう。

 逃げないで。

 曖昧なままにしないで。

     ◇

「白石」

 ちょうどそのとき、黒崎に呼ばれる。

「はい」

「少し来い」

 いつものように歩き出す背中。

 でも今日は、ついていくだけじゃ終わらせない。

     ◇

 連れて行かれたのは、誰もいない資料室だった。

 ドアが閉まる。

 静かな空間。

 向き合う距離。

「……何だ」

 黒崎が先に口を開く。

「さっきから様子がおかしい」

「……はい」

 逃げない。

 そう決めた。

「話したいことがあります」

 まっすぐ言う。

 黒崎の目がわずかに細くなる。

「言え」

「……私たちのことです」

 沈黙。

 空気が一気に張り詰める。

「このままじゃ、嫌なんです」

「……何がだ」

「曖昧なままなのが」

 はっきりと言う。

「仕事の関係なのか、それ以上なのか」

 喉が少しだけ震える。

「ちゃんと知りたいです」

 黒崎は何も言わない。

 ただ、じっとこちらを見ている。

「……答えは言ったはずだ」

 低い声。

「足りません」

 即答する。

「それじゃ、わからないです」

 少しだけ強く言う。

 自分でも驚くくらい。

「……私は」

 言葉を選ぶ。

「軽い気持ちで、あんなことされたくないです」

 キスのこと。

 ちゃんと口には出さないけれど、伝わる。

「……」

「ちゃんと意味があるならいいです」

「……」

「でも、そうじゃないなら」

 少しだけ息を吸う。

 怖い。

 でも。

「……離れたほうがいいと思います」

 言ってしまった。

 部屋の空気が、一瞬で凍る。

     ◇

 黒崎の表情が、初めて変わった。

 ほんのわずかに。

 でも、確かに。

「……離れる?」

 低く、押し殺した声。

「……はい」

「理由は」

「……今のままだと」

 言葉が詰まる。

「苦しいからです」

 正直な気持ちだった。

「……」

 沈黙。

 長い沈黙。

「……お前は」

 黒崎がゆっくりと口を開く。

「何を求めている」

「……え?」

「関係の名前か」

「……それも、あります」

「それだけか」

「……それだけじゃないです」

 はっきり言う。

「ちゃんと向き合ってほしいです」

 逃げずに。

 曖昧にせずに。

「……」

 黒崎は視線を逸らした。

 初めてだった。

 この人が、答えを避けるような仕草をしたのは。

「……今は無理だ」

「……え?」

 静かな声。

 でも、はっきりとした拒絶。

「仕事に支障が出る」
「……」

「余計なことを考えるな」

「……それって」

 胸が痛む。

「私の気持ちは、余計なことですか」

「……そうじゃない」

「じゃあ、何ですか」

 思わず一歩近づく。

「私、ちゃんと向き合ってほしいって言ってるだけです」

 逃げないで。

 そう言いたかった。

「……今は」

 黒崎の声が、少しだけ低くなる。

「必要ない」

 その一言で。

 胸の奥が、すっと冷えた。

     ◇

「……わかりました」

 小さく言う。

 もう、それ以上何も言えなかった。

 これ以上聞いても、きっと同じ答えしか返ってこない。

「……白石」

 名前を呼ばれる。

 でも。

「大丈夫です」

 先に言う。

「これで、はっきりしました」

 顔を上げる。

 無理やりでも、笑う。

「……私、距離を置きます」

「……」

「仕事はちゃんとやります」

「……」

「でも、それ以上は」

 少しだけ息を吸う。

「やめます」

 はっきりと言った。

     ◇

 黒崎は、何も言わなかった。

 止めなかった。

 それが、答えだった。

     ◇

 部屋を出る。

 足が少しだけ重い。

 でも、止まらない。

 ――これでいい。

 そう思うしかなかった。

     ◇

 廊下を歩きながら、胸に手を当てる。

 痛い。

 でも。

 間違ってない。

 曖昧なまま、期待してしまうほうがつらい。

 だから。

 これでいい。

     ◇

 その頃。

 資料室の中。

 黒崎凌は、一人で立っていた。

「……」

 動かない。

 何も言わない。

 でも。

 拳だけが、強く握られていた。

「……離れる、だと」

 低く呟く。

 胸の奥に、はっきりとした違和感が広がる。

 ――違う。

 それは違う。

 そう思った瞬間。

 はじめて気づく。

 自分が、どれだけ――

「……面倒なことを言う」

 そう呟いた声は。

 どこか、いつもよりも乱れていた。