それは、ほんの些細なことから始まった。
「白石、残れ」
勤務終了間際。
黒崎の一言で、陽菜の手が止まる。
「……はい」
周囲の視線が一瞬だけ集まるのを感じる。
まただ、と思った。
最近、こういうことが増えている。
「カルテの確認をする」
理由はいつも仕事だ。
でも――
それだけじゃない気がしてしまうのは、気のせいじゃない。
◇
人が少なくなったナースステーション。
静かな空間に、キーボードの音だけが響く。
黒崎は隣に立ち、カルテを覗き込んでいた。
「ここ」
「はい」
「記録が曖昧だ。具体的に書け」
「……はい」
指摘はいつも通り厳しい。
でも、距離が近い。
肩が触れそうなほど近くに立たれているだけで、どうしてこんなに意識してしまうのか、自分でもわからない。
「……集中しろ」
低い声。
「は、はい……」
バレてる。
視線を落とし、必死に画面を見る。
でも。
すぐ隣にいる存在が、どうしても気になる。
「……先生」
「何だ」
「近いです」
思わず口にしてしまう。
沈黙。
数秒。
そして。
「だから何だ」
「……っ」
逃がしてくれない。
「仕事に支障があるか」
「……あります」
「具体的に」
「……集中できません」
言ってしまった。
言った瞬間、顔が熱くなる。
黒崎は一瞬だけ黙った。
そして。
「……そうか」
低く呟く。
そのまま、少しだけ距離を――
離さなかった。
「じゃあ、慣れろ」
「……え?」
「この距離で」
さらっと言い切る。
「……無理です」
「無理かどうかは関係ない」
「関係あります」
思わず反論してしまう。
黒崎の視線が、ゆっくりとこちらに向く。
「……そんなに意識しているのか」
「……っ」
言葉に詰まる。
図星だった。
視線を逸らそうとした、その瞬間。
顎を軽く掴まれる。
「……!」
強制的に顔を上げさせられる。
距離が、近すぎる。
「目を逸らすな」
低く、静かな声。
「……先生」
「何だ」
「……離してください」
「理由は」
「……心臓がもちません」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「……そうか」
ほんのわずかに、黒崎の口元が動いた気がした。
「なら、余計に慣れたほうがいい」
「慣れません……!」
小さく抗議する。
でも、手は離されない。
そのまま、少しだけ顔が近づく。
「……っ」
息が止まる。
あと少しで触れそうな距離。
「お前は」
低く、ゆっくりとした声。
「無防備すぎる」
「……え?」
「こんな顔をして、よく平気でいられるな」
「……どんな顔ですか」
「……」
一瞬、言葉が止まる。
その沈黙が、余計に意識させる。
「……知らなくていい」
ぽつりと落ちる言葉。
でも、その声は少しだけ掠れていた。
「……先生」
「何だ」
「私たちって」
言いかける。
ずっと引っかかっていたこと。
「どういう関係なんですか」
静かな問い。
空気が変わる。
黒崎はすぐには答えなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
逃げ場がない。
「……必要か」
「え?」
「関係の定義が」
「……必要です」
はっきりと言う。
「わからないままだと、困ります」
仕事でも。
気持ちでも。
全部が曖昧で。
「……」
黒崎はゆっくりと手を離した。
一歩、距離が空く。
さっきまでの近さが嘘みたいに。
「……まだ早い」
「……え?」
「今はそれでいい」
それだけ。
答えになっていない。
でも。
「……逃げないでください」
思わず口にしてしまう。
「……っ」
黒崎の目がわずかに揺れる。
「私、ちゃんと知りたいです」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声だった。
「中途半端なままは、嫌です」
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
「……お前は」
低く、ゆっくりと。
「面倒なことを言う」
「……すみません」
「だから謝るな」
少しだけ、息を吐く。
そして。
「……少し来い」
「え?」
腕を引かれる。
そのまま、ナースステーションを出る。
「せ、先生……?」
「黙ってついて来い」
◇
連れて行かれたのは、誰もいない処置室だった。
ドアが閉まる。
静寂。
逃げ場がない。
「……先生」
「さっきの質問の答えだ」
「……え?」
心臓が跳ねる。
黒崎が一歩近づく。
また、距離が縮まる。
「関係を定義したいと言ったな」
「……はい」
「なら、教えてやる」
低い声。
そのまま――
腕を引かれる。
体が引き寄せられる。
「……っ!」
次の瞬間。
唇が、触れた。
「――……っ」
一瞬だけ。
でも、確かに触れた感触。
頭が真っ白になる。
離れたあとも、何も言えない。
「……これでわかるか」
低く囁かれる。
息が近い。
「……先生」
声が震える。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
逃げない。
はっきりとした視線。
「仕事だけの関係に、こんなことはしない」
心臓が、うるさい。
「……」
「それでもわからないなら」
少しだけ顔が近づく。
「もう一度教えるか」
「……っ」
慌てて首を振る。
「わかります……!」
顔が熱い。
でも。
逃げたいとは思わなかった。
「……ならいい」
少しだけ距離が離れる。
でも、まだ近い。
「……お前は」
黒崎が低く言う。
「俺の側にいろ」
それは命令のようで。
でも、どこか――
独占のようだった。
「……はい」
気づけば、そう答えていた。
「白石、残れ」
勤務終了間際。
黒崎の一言で、陽菜の手が止まる。
「……はい」
周囲の視線が一瞬だけ集まるのを感じる。
まただ、と思った。
最近、こういうことが増えている。
「カルテの確認をする」
理由はいつも仕事だ。
でも――
それだけじゃない気がしてしまうのは、気のせいじゃない。
◇
人が少なくなったナースステーション。
静かな空間に、キーボードの音だけが響く。
黒崎は隣に立ち、カルテを覗き込んでいた。
「ここ」
「はい」
「記録が曖昧だ。具体的に書け」
「……はい」
指摘はいつも通り厳しい。
でも、距離が近い。
肩が触れそうなほど近くに立たれているだけで、どうしてこんなに意識してしまうのか、自分でもわからない。
「……集中しろ」
低い声。
「は、はい……」
バレてる。
視線を落とし、必死に画面を見る。
でも。
すぐ隣にいる存在が、どうしても気になる。
「……先生」
「何だ」
「近いです」
思わず口にしてしまう。
沈黙。
数秒。
そして。
「だから何だ」
「……っ」
逃がしてくれない。
「仕事に支障があるか」
「……あります」
「具体的に」
「……集中できません」
言ってしまった。
言った瞬間、顔が熱くなる。
黒崎は一瞬だけ黙った。
そして。
「……そうか」
低く呟く。
そのまま、少しだけ距離を――
離さなかった。
「じゃあ、慣れろ」
「……え?」
「この距離で」
さらっと言い切る。
「……無理です」
「無理かどうかは関係ない」
「関係あります」
思わず反論してしまう。
黒崎の視線が、ゆっくりとこちらに向く。
「……そんなに意識しているのか」
「……っ」
言葉に詰まる。
図星だった。
視線を逸らそうとした、その瞬間。
顎を軽く掴まれる。
「……!」
強制的に顔を上げさせられる。
距離が、近すぎる。
「目を逸らすな」
低く、静かな声。
「……先生」
「何だ」
「……離してください」
「理由は」
「……心臓がもちません」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「……そうか」
ほんのわずかに、黒崎の口元が動いた気がした。
「なら、余計に慣れたほうがいい」
「慣れません……!」
小さく抗議する。
でも、手は離されない。
そのまま、少しだけ顔が近づく。
「……っ」
息が止まる。
あと少しで触れそうな距離。
「お前は」
低く、ゆっくりとした声。
「無防備すぎる」
「……え?」
「こんな顔をして、よく平気でいられるな」
「……どんな顔ですか」
「……」
一瞬、言葉が止まる。
その沈黙が、余計に意識させる。
「……知らなくていい」
ぽつりと落ちる言葉。
でも、その声は少しだけ掠れていた。
「……先生」
「何だ」
「私たちって」
言いかける。
ずっと引っかかっていたこと。
「どういう関係なんですか」
静かな問い。
空気が変わる。
黒崎はすぐには答えなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
逃げ場がない。
「……必要か」
「え?」
「関係の定義が」
「……必要です」
はっきりと言う。
「わからないままだと、困ります」
仕事でも。
気持ちでも。
全部が曖昧で。
「……」
黒崎はゆっくりと手を離した。
一歩、距離が空く。
さっきまでの近さが嘘みたいに。
「……まだ早い」
「……え?」
「今はそれでいい」
それだけ。
答えになっていない。
でも。
「……逃げないでください」
思わず口にしてしまう。
「……っ」
黒崎の目がわずかに揺れる。
「私、ちゃんと知りたいです」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声だった。
「中途半端なままは、嫌です」
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
「……お前は」
低く、ゆっくりと。
「面倒なことを言う」
「……すみません」
「だから謝るな」
少しだけ、息を吐く。
そして。
「……少し来い」
「え?」
腕を引かれる。
そのまま、ナースステーションを出る。
「せ、先生……?」
「黙ってついて来い」
◇
連れて行かれたのは、誰もいない処置室だった。
ドアが閉まる。
静寂。
逃げ場がない。
「……先生」
「さっきの質問の答えだ」
「……え?」
心臓が跳ねる。
黒崎が一歩近づく。
また、距離が縮まる。
「関係を定義したいと言ったな」
「……はい」
「なら、教えてやる」
低い声。
そのまま――
腕を引かれる。
体が引き寄せられる。
「……っ!」
次の瞬間。
唇が、触れた。
「――……っ」
一瞬だけ。
でも、確かに触れた感触。
頭が真っ白になる。
離れたあとも、何も言えない。
「……これでわかるか」
低く囁かれる。
息が近い。
「……先生」
声が震える。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
逃げない。
はっきりとした視線。
「仕事だけの関係に、こんなことはしない」
心臓が、うるさい。
「……」
「それでもわからないなら」
少しだけ顔が近づく。
「もう一度教えるか」
「……っ」
慌てて首を振る。
「わかります……!」
顔が熱い。
でも。
逃げたいとは思わなかった。
「……ならいい」
少しだけ距離が離れる。
でも、まだ近い。
「……お前は」
黒崎が低く言う。
「俺の側にいろ」
それは命令のようで。
でも、どこか――
独占のようだった。
「……はい」
気づけば、そう答えていた。



