診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

その女性は、あまりにも場違いだった。

 午後の外科病棟。
 白衣とスクラブが行き交う中、ひとりだけ違う空気をまとっている。

 上品なワンピース。
 無駄のない所作。
 そして、誰もが一度は振り返るほどの美しさ。

「……どなたですか?」

 思わず隣の佐伯に小声で尋ねる。

「ああ、あの人ね」

 佐伯は少しだけ声を潜めた。

「院長の娘さん」
「……え?」

「しかも、黒崎先生の“お見合い相手”って噂」

 心臓が、ひとつ大きく鳴る。

「……そうなんですか」
「正式じゃないけどね。周りが勝手にそういう流れにしたがってる感じ」

 冗談のように言うけれど、どこか現実味があった。

 院長の娘。
 外科医。
 釣り合いすぎている。

 ――ああ、そういう世界なんだ。

 自然と、そう思ってしまった。

     ◇

「黒崎先生、少しお時間よろしいかしら」

 柔らかな声が、ナースステーションに響く。

 その女性――西條美月は、穏やかな笑みを浮かべていた。

「……何だ」

 黒崎の声はいつも通り淡々としている。

「少しお話があって」
「ここでは無理だ」
「では、後ほどでも」

 落ち着いたやり取り。

 でも、周囲の視線は明らかに二人に集まっていた。

 誰が見ても、お似合いだと思う。

 そう思った瞬間。

 胸の奥が、少しだけざわついた。

     ◇

 その日の午後。

 陽菜はいつものように回診に同行していた。

 黒崎の後ろを歩く。
 指示を聞く。
 患者の状態を確認する。

 いつもと同じはずなのに。

 どうしてか、集中できない。

 さっきの女性の姿が、頭から離れない。

「白石」

「……はいっ」

 呼ばれて、はっとする。

「この患者の状態を言え」

「えっと……」

 一瞬、言葉が詰まる。

 いつもなら答えられる内容なのに。

「……発熱はなく、創部も安定していて……」

「遅い」

 短く言われる。

「……すみません」
「謝罪は不要だ」

 いつものやり取り。

 でも、今日は少し違った。

 視線が鋭い。

「集中しろ」
「……はい」

 小さく頷く。

 わかっている。
 自分が今、乱れていることくらい。

 ――でも。

 どうしても気になってしまう。

     ◇

 回診が終わる。

 ナースステーションに戻ったところで。

「黒崎先生」

 また、あの声。

 振り返ると、西條美月が立っていた。

「お時間いただいても?」
「今は無理だ」
「少しだけでも」

 引かない。

 でも、押しつけがましくもない。

 余裕のある大人の女性、という印象だった。

「……五分だ」

 黒崎が短く言う。

「ありがとう」

 二人はそのまま少し離れた場所へ移動する。

 会話の内容は聞こえない。

 でも、姿は見える。

 並んで立つ二人。

 違和感がない。

 むしろ、しっくりくる。

 ――ああ。

 この人は、ああいう人と一緒になるんだ。

 自然と、そう思ってしまった。

 胸が、少しだけ痛む。

     ◇

「白石さん、大丈夫?」

 中原が心配そうに声をかけてくる。

「え?」
「顔色悪いよ」

「……大丈夫です」

 笑ってみせる。

 でも、自分でもわかる。

 うまく笑えていない。

     ◇

 その日の業務は、どこか上の空だった。

 ミスはしていない。
 でも、完璧でもない。

 どこか、ずっと引っかかっている。

 ――私、何してるんだろう。

 仕事に集中しないといけないのに。

 こんなことで、気を取られて。

     ◇

 勤務終了後。

 更衣室を出て、外に向かう。

 夕方の空気が、少し冷たい。

「……はぁ」

 小さく息を吐く。

 ――関係ない。

 そう、自分に言い聞かせる。

 あの人が誰と関わろうと、自分には関係ない。

 ただの上司と部下。

 それだけ。

 なのに。

「……なんでこんなに」

 気になるんだろう。

「白石」

「……っ」

 振り返る。

 そこには、黒崎が立っていた。

「帰るのか」
「は、はい」

 短く答える。

 いつもならもう少し普通に話せるのに。

 今日はうまくいかない。

「……様子がおかしいな」

「え?」
「集中が切れている」

 図星だった。

「……すみません」

「理由は」

「……」

 言えるわけがない。

 院長の娘のことが気になってます、なんて。

「……特にありません」

 視線を逸らす。

 沈黙。

 数秒。

 そして。

「嘘だな」

「……っ」

 心臓が跳ねる。

「何があった」

 低い声。

 逃げられない。

「……別に、何も」

「言え」

「……っ」

 強い。

 でも、責めているわけじゃない。

 ただ、知ろうとしている。

 それが余計に苦しい。

「……先生」

「何だ」

「さっきの方……」

 言葉を選びながら口にする。

「院長の娘さんなんですよね」

「……ああ」

「その……」

 喉が詰まる。

 でも、ここまで来たら止められなかった。

「お見合いの話、あるんですか」

 沈黙。

 空気が一瞬で変わる。

 黒崎は何も言わない。

 その沈黙が、答えのように思えた。

「……そうなんですね」

 小さく呟く。

 勝手に納得しようとする。

「私、関係ないのに」

 苦笑する。

「変ですよね」

 自分でもわかっている。

 立場も、距離も。

 全部。

 でも。

「……気になってしまって」

 言ってしまった。

 その瞬間だった。

「……は?」

 低く、抑えた声。

 黒崎が一歩近づく。

「何を言っている」

「え……」

「お前が気にする理由がどこにある」

「……」

 言葉に詰まる。

 その通りだ。

 理由なんて、ない。

 でも。

「……ないです」

 小さく答える。

「だから、変だって言ってるんです」

 視線を落とす。

 これ以上、見られたくなかった。

 でも。

「……顔を上げろ」

 強い声。

 反射的に顔を上げてしまう。

 その瞬間。

 腕を掴まれる。

「……っ!」

 引き寄せられる。

 距離が、一気に近づく。

「……俺が、あんなものを受けると思うか」

 低い声。

 すぐ近く。

「……え?」

「政略だろうが何だろうが、興味がない」

 はっきりと。

 迷いなく。

「……」

 言葉が出ない。

「誰とどうなるかは、俺が決める」

 その視線が、まっすぐこちらを射抜く。

「他人に決められるつもりはない」

 強い。

 でも。

 どこか――

「……じゃあ」

 思わず口を開く。

「どうして、断らないんですか」

「……」

 一瞬、黒崎の表情が変わる。

「必要がないからだ」

「……え?」

「断る価値もない」

 淡々とした答え。

 でも。

 その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。

「……つまり」

「話になっていないということだ」

「……」

 拍子抜けする。

 あんなに気にしていたのに。

 この人にとっては、そこまでの話でもない。

 でも。

「……なら、よかったです」

 自然と口から出る。

「何がだ」

「……なんとなく、です」

 少しだけ笑う。

 胸の奥の重さが、少しだけ軽くなる。

 その瞬間だった。

「……お前」

 黒崎の声が落ちる。

「それだけで安心するのか」

「……え?」

「他の男の話で動揺して」

「……っ」

「俺が否定したら、すぐに落ち着く」

 視線が強くなる。

「随分と都合がいいな」

 低い声。

 でも、その中に――

 ほんのわずかに、苛立ちが混じっていた。

「……すみません」

「だから謝るな」

 ぐっと腕を引かれる。

 さらに距離が縮まる。

「……っ」

 逃げられない。

「軽く扱うな」

「……え?」

「お前のそういう反応は」

 一瞬、言葉が止まる。

「……誤解を招く」

 低く、押し殺した声。

 でも。

 その言葉の意味を理解した瞬間。

 心臓が大きく跳ねた。

「……先生」

「何だ」

「それって……」

 言いかけたところで。

「それ以上言うな」

 遮られる。

「……」

 黒崎はゆっくりと手を離した。

「今日は帰れ」

「……はい」

 それ以上、何も言えなかった。

     ◇

 帰り道。

 夜の空気が少し冷たい。

 でも。

 胸の中は、妙に熱かった。

「……誤解って」

 小さく呟く。

 あの言葉。

 あの反応。

 あの距離。

 全部が頭の中で繰り返される。

 ――もしかして。

 そんな考えが、浮かんでしまう。

 でも。

 まだ、確信には変えられない。

 ただ一つだけ、わかったことがある。

 この人は。

 私が思っているよりずっと――

 私のことを、見ている。