診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

その日の夜勤は、思っていたよりも静かだった。

 急変もなく、ナースコールも少ない。
 廊下には落ち着いた空気が流れていて、時間がゆっくり進んでいるように感じる。

 ――でも。

 陽菜の心は、まったく落ち着いていなかった。

 休憩室での出来事。
 腕を引かれたときの距離。
 あの低い声。

『無理をするな』

 何度も頭の中で繰り返される。

「……だめだ」

 小さく首を振る。

 仕事中なのに、こんなことを考えている場合じゃない。

 ――集中しないと。

 自分に言い聞かせて、カルテに視線を戻す。

     ◇

 深夜二時。

 見回りを終え、ナースステーションに戻ると、そこには珍しく人影があった。

 黒崎凌。

 白衣のまま、デスクに肘をつき、カルテを見ている。

 こんな時間に。

「……先生?」

 思わず声をかける。

 黒崎は顔を上げた。

「白石か」
「はい。どうされたんですか?」
「術後患者のデータ確認だ」

 短い返答。

 でも、どこかいつもと違う気がした。

 表情が、少しだけ硬い。

「……まだ帰られてなかったんですね」
「帰る必要がない」

 淡々とした言い方。

 それ以上踏み込むべきじゃない気がして、陽菜は「そうですか」とだけ返した。

 そのまま隣のデスクで記録を始める。

 静かな時間。

 キーボードの音だけが小さく響く。

 ふと、横を見る。

 黒崎は画面を見つめたまま、まったく動いていない。

 ――疲れている?

 そう思った。

 この人は、いつも完璧に見える。
 隙なんて一つもないように思える。

 でも今は。

 ほんの少しだけ、違って見えた。

「……先生」

「何だ」

「大丈夫ですか?」

 一瞬、空気が止まる。

 黒崎がゆっくりと顔を上げた。

「何がだ」
「……なんとなく、ですけど」

 うまく言葉にできない。

 でも、放っておけなかった。

 黒崎はしばらく何も言わなかった。

 そして。

「……問題ない」

 短く答える。

 いつも通りの返答。

 でも――

 どこか、嘘のように聞こえた。

「……そうですか」

 それ以上は聞けなかった。

 聞いていいことじゃない気がしたから。

     ◇

 そのまま時間は過ぎていく。

 午前三時を回った頃だった。

 ナースコールが鳴る。

「A号室です」
「行きます」

 陽菜はすぐに立ち上がる。

 部屋に入ると、患者は苦しそうに胸を押さえていた。

「どうされましたか?」
「少し……息が……」

 モニターを確認する。
 数値が不安定だ。

「先生を呼びますね」

 ナースコールで医師を呼ぶ。

 すぐに、足音が近づいてきた。

「状態は」

 黒崎だ。

「呼吸苦あり、数値も少し下がっています」
「わかった」

 短く答え、患者の状態を確認する。

「大丈夫だ。すぐに楽になる」

 低く、落ち着いた声。

 患者の表情が少しだけ和らぐ。

 そのまま迅速に処置が行われる。

 数分後、状態は安定した。

「……ありがとう」

 患者が小さく呟く。

「礼は不要だ」

 黒崎は淡々と返す。

 でも、その声はどこか柔らかかった。

     ◇

 病室を出る。

 廊下は静かだ。

「白石」

「はい」

「さっきの対応、悪くなかった」
「……え?」

 思わず顔を上げる。

「判断も遅くない」
「……ありがとうございます」

 胸がじんわり温かくなる。

 そのまま少しだけ並んで歩く。

 沈黙。

 でも、不思議と気まずくはなかった。

「……先生」

「何だ」

「さっきの患者さん」

「何だ」

「先生が声をかけたとき、すごく安心した顔をしてました」

 黒崎は何も言わない。

「やっぱり、すごいなって思って」

 素直な感想だった。

 技術だけじゃない。
 あの場を支配する力。

 安心させる力。

「……そんなものは必要ない」

 ぽつりと落ちる言葉。

「え?」

「結果だけがすべてだ」

 冷たい言い方。

 でも。

 どこか、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

「でも」

 思わず言葉が出る。

「患者さんにとっては、大事だと思います」

「……」

「安心できるって、それだけで違うと思うので」

 黒崎は足を止めた。

 陽菜もつられて止まる。

「……お前は、そういう看護をするのか」

「え?」

「技術よりも、感情を優先する」

「……違います」

 首を振る。

「どっちも必要だと思います」

 少しだけ間を置いて、続ける。

「でも……どっちか一つなら、私は“安心できるほう”を選びたいです」

 言いながら、少しだけ不安になる。

 この人には、否定されるかもしれない。

 そう思ったのに。

「……甘いな」

 黒崎はそう言った。

 やっぱり、と思った。

 でも。

「だが」

 そのあとに続いた言葉は、予想と違っていた。

「嫌いじゃない」

「……え?」

 思わず聞き返す。

 黒崎は視線を逸らした。

「そういう人間がいないと、現場は回らない」

 それは、遠回しな肯定だった。

「……はい」

 少しだけ嬉しくなる。

     ◇

 再び歩き出す。

 静かな廊下。

 夜の病院。

 誰もいない空間。

「……先生」

「何だ」

「どうして、そこまで結果にこだわるんですか?」

 聞いてしまった。

 本当は聞いていいことじゃないとわかっているのに。

 でも、知りたかった。

 黒崎はすぐには答えなかった。

 数秒の沈黙。

 やがて、低い声が落ちる。

「……昔、患者を死なせた」

「……」

 言葉を失う。

「助けられるはずだった」

 感情のない声。

 でも、その奥にあるものは、重かった。

「判断が一瞬遅れた」

「……」

「その一瞬で、すべてが終わった」

 静かすぎる語り口。

 だからこそ、痛いほど伝わる。

「それ以来だ」

 黒崎は続ける。

「感情で動くのをやめた」

 淡々とした言葉。

「迷いは判断を遅らせる」
「……」
「遅れは、死に繋がる」

 はっきりと。

 迷いなく。

「だから、結果だけを見る」

 それが、この人のすべてだった。

     ◇

 胸が苦しくなる。

 そんな過去があったなんて、知らなかった。

 誰にも言わなさそうなことなのに。

 どうして、今。

「……先生」

「何だ」

「それでも」

 言葉を探す。

「それでも、先生はちゃんと患者さんを見てると思います」

「……」

「さっきも、声かけてましたし」

 黒崎は何も言わない。

「結果だけじゃないです」

 はっきりと言う。

「ちゃんと、人として向き合ってると思います」

 沈黙。

 長い沈黙。

 やがて。

「……変わったな」

 黒崎がぽつりと呟く。

「え?」

「最初は何も言えなかったくせに」

「……」

 少しだけ、恥ずかしくなる。

「……成長してるってことにしてください」

 小さく言うと。

「……ああ」

 短い返答。

 でも、それは確かに認める声だった。

     ◇

 そのまま歩き出す。

 少しだけ距離が近い。

 さっきよりも、空気が柔らかい。

「白石」

「はい」

「お前は」

 少しだけ言葉が止まる。

「……向いている」

「……え?」

「この仕事に」

 思わず立ち止まる。

「……本当ですか?」

「嘘は言わない」

 まっすぐな言葉。

 胸が、熱くなる。

「……ありがとうございます」

 声が少し震える。

 でも、それ以上に嬉しかった。

     ◇

 夜の廊下。

 静かな時間。

 隣にいる存在。

 この人は、冷たい人だと思っていた。

 怖い人だと思っていた。

 でも。

 違った。

 ただ、不器用なだけだった。

 誰よりも命と向き合って。

 誰よりも、背負っている。

 その孤独に、ほんの少しだけ触れてしまった。

 だから――

 もっと知りたいと思ってしまう。

 この人のことを。

 もっと。