診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

その夜は、久しぶりに落ち着いていた。

 大きな急変もなく、処置も予定通りに進み、ナースステーションの空気もどこか穏やかだった。

「白石さん、今日いい感じじゃない?」
 佐伯がカルテから顔を上げて言う。

「え、そうですか?」
「うん。動きがだいぶ無駄なくなってきた」
「……ありがとうございます」

 素直に嬉しかった。

 まだ完璧にはほど遠い。
 でも、少しずつ前に進めている実感がある。

 ――あの人に、認められたい。

 気づけば、そんな気持ちが当たり前のように胸の中にあった。

     ◇

 それは、夜勤帯に入る少し前のことだった。

「白石、来い」

 低い声。

 振り返ると、黒崎が立っていた。

「はい」

 もう驚かなくなっている自分に、少しだけ苦笑する。

「処置室だ」

 それだけ言って歩き出す。

 陽菜は慌てて後を追った。

 処置室に入ると、黒崎は手袋をはめながら短く説明する。

「中心静脈ラインの確認をする」
「はい」
「今日はお前も手を出せ」
「……え?」

 一瞬、固まる。

「無理です」
「無理かどうかはやってから言え」
「でも……」
「逃げるな」

 その一言で、言葉が止まる。

「俺がついている」

 淡々とした声。

 でも、その言葉には不思議と安心感があった。

「……はい」

 小さく頷く。

     ◇

 処置は想像以上に緊張した。

 患者の体に触れる。
 直接、命に関わる行為に関わる。

 手が震えそうになるのを必死で抑える。

「そこじゃない」

 黒崎の声がすぐ近くで落ちる。

「もう少し右だ」

「……はい」

 言われた通りに動かそうとするが、距離感が掴めない。

 その瞬間だった。

 後ろから、すっと腕が重なる。

「違う。こうだ」

 黒崎の手が、陽菜の手の上から動きを導く。

「……っ」

 一気に距離が近くなる。

 背後に立たれ、体がほぼ触れ合う距離。

 心臓が、うるさい。

「力を抜け」

 耳元で低く囁かれる。

「そんなに強く握る必要はない」

 声が近すぎる。

 息がかかる距離。

 頭が真っ白になりそうになる。

「……集中しろ」

「は、はい……!」

 慌てて意識を戻す。

 でも、どうしても意識してしまう。

 触れられている手。
 背中に感じる体温。
 すぐ後ろにいる存在。

 こんなに近い距離で関わるなんて、想像していなかった。

「よし、そのまま」

 黒崎の声が少しだけ柔らかくなる。

「できている」

「……え?」

「今の感覚を覚えろ」

 その言葉に、ほんの少しだけ余裕が生まれる。

 震えていた手が、少しだけ落ち着く。

 処置は無事に終わった。

     ◇

 手袋を外しながら、陽菜は深く息を吐く。

「はぁ……」

 緊張が一気に抜ける。

「顔色が悪いな」

 黒崎が言う。

「だ、大丈夫です」
「嘘をつくな」

「……っ」

 即答されて、言葉に詰まる。

「慣れていないだけです」
「それも含めて管理しろ」

 相変わらず厳しい。

 でも。

「……でも、さっきは」
「何だ」

「ちゃんとできてるって言ってもらえて……嬉しかったです」

 思わず口にしてしまう。

 黒崎は一瞬だけ黙った。

「当然だ」

 短い返答。

「できていないなら言わない」

 それは、この人なりの最大の評価だった。

「……はい」

 胸がじんわり熱くなる。

     ◇

 処置室を出ると、廊下には誰もいなかった。

 夜の病院は昼間と違って静かだ。

「白石」

「はい」

「さっきの動き、忘れるな」
「はい」

「次は一人でもできるようにしろ」
「……はい」

 少しだけ不安はある。

 でも、やってみたいとも思った。

「……先生」

「何だ」

「さっき、“俺がついてる”って言ってくれましたよね」

「言ったな」

「……あれ、ちょっと安心しました」

 正直な気持ちだった。

 あの言葉があったから、逃げずにいられた。

 黒崎は少しだけ視線を逸らす。

「それで動けるなら、何度でも言う」

「……え?」

 思わず顔を上げる。

 その視線がぶつかる。

 静かな廊下。

 誰もいない。

 距離が、近い。

「お前はまだ未熟だ」

「……はい」

「だから、俺が見る」

 低く、はっきりとした声。

 逃げ場を与えない言い方。

「中途半端に他に任せるつもりはない」

「……」

 それは、ただの指導のはずなのに。

 どこか、独占的に聞こえた。

「……あの、それって」

 言いかけたときだった。

 突然、足元がぐらつく。

「……っ」

 一瞬、視界が揺れる。

 そのまま倒れそうになった瞬間――

「何をしている」

 強く腕を引かれる。

 気づけば、黒崎の胸元に引き寄せられていた。

「……っ!」

 近い。

 近すぎる。

 心臓が一気に跳ね上がる。

「立てるか」

 低い声。

 でも、どこか焦りが混じっている。

「だ、大丈夫です……!」

「大丈夫じゃない」

 即座に否定される。

「顔色が悪いと言ったはずだ」

「……」

 言い返せない。

 たしかに、少しふらついた。

「無理をするな」

 そのまま腕を支えられる。

 逃げようとしたけれど、離してもらえない。

「……先生、あの」

「黙っていろ」

「……はい」

 言葉を封じられる。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 むしろ――

 守られている、と思った。

「休憩室まで行く」

「自分で歩けます」
「却下だ」

 強引だ。

 でも、足はまだ少し不安定で。

 結局、そのまま支えられながら歩くことになった。

 誰かに見られたらどうしよう、と思うのに。

 それよりも。

 こんなふうに近くにいることのほうが、ずっと意識されてしまう。

 腕に触れる感触。
 近くにある体温。
 低く落ちる声。

「……無茶をするな」

 ぽつりと落ちる言葉。

 叱っているのに。

 どこか、優しい。

「……すみません」

「だから謝るな」

 いつものやり取り。

 でも今は、少し違う。

 この距離で言われると、全部が近すぎて。

 うまく息ができない。

     ◇

 休憩室の椅子に座らされる。

「ここで休め」
「……はい」

 素直に頷くしかない。

 黒崎は少しだけ様子を見たあと、短く息を吐いた。

「……無理をするな」

 もう一度、同じ言葉。

 でも今度は、少しだけ柔らかかった。

「お前が倒れたら、意味がない」

「……はい」

 胸の奥がじんわりと温かくなる。

 この人は、やっぱり――

 厳しいだけじゃない。

「先生」

「何だ」

「……ありがとうございます」

 小さく言う。

 黒崎は一瞬だけ沈黙してから、視線を外した。

「礼は不要だ」

 それだけ。

 でも。

 その横顔は、どこか落ち着かないように見えた。

     ◇

 静かな休憩室。

 一人になって、ようやく大きく息を吐く。

 心臓がまだ落ち着かない。

 さっきの距離。
 触れられた感触。

 全部が頭から離れない。

「……なんでこんなに」

 ドキドキするの。

 怖い人のはずなのに。

 厳しい人のはずなのに。

 どうしてか――

 触れられた瞬間の熱が、ずっと残っている。

 もう、誤魔化せない。

 この気持ちが何なのか。

 少しずつ、わかり始めていた。