その違和感に気づいたのは、午後の処置がひと段落した頃だった。
「白石さん、ちょっといい?」
呼び止めたのは、外科病棟のベテラン看護師・長谷川だった。
普段は穏やかで、患者からの信頼も厚い人だ。
「はい」
陽菜が振り返ると、長谷川は少しだけ真剣な表情をしていた。
「さっきのA号室の患者さんの件、聞いた?」
「いえ……何かありましたか?」
胸がざわつく。
「点滴の速度、少し早かったって言われてるの」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「確認したら、白石さんが調整した時間帯と一致してるって」
「そんな……」
思わず声が漏れる。
たしかに、午前中に点滴の確認はした。
でも、指示通りに設定したはずだ。
「患者さん、少し気分悪くなったみたいでね。大事には至ってないけど」
「……っ」
血の気が引く。
自分のせいで、患者に不快な思いをさせたかもしれない。
「一応、確認しとこうか。記録見せてもらえる?」
「はい……!」
震える手でカルテを開く。
記録は残っている。
時間も、滴下速度も、指示通りのはずだ。
なのに――
「……合ってるね」
長谷川がぽつりと呟く。
「え……?」
「記録上は問題ない」
じゃあ、どうして。
頭の中が混乱する。
「でも患者さんの訴えもあるし、一応、医師に報告入れるね」
「……はい」
小さく返事をするしかなかった。
喉が乾く。
胸が苦しい。
もし、本当に自分のミスだったら。
患者に何かあったら。
――取り返しがつかない。
◇
数分後。
ナースステーションの空気が、少しだけ張り詰める。
「黒崎先生、今よろしいですか」
長谷川が声をかける。
振り返ると、黒崎がカルテに目を落としたまま立っていた。
「何だ」
「A号室の件で。点滴の件なんですが――」
淡々と説明がされる。
陽菜はその場に立ったまま、息をするのも苦しかった。
黒崎は一言も挟まず、最後まで話を聞く。
そして。
「カルテを見せろ」
短く言った。
「はい」
長谷川が差し出したカルテを受け取り、黒崎はすぐに目を走らせる。
沈黙。
数秒なのに、何分にも感じる。
「白石」
名前を呼ばれる。
「……はい」
喉がうまく動かない。
「この記録はお前が入力したか」
「はい……」
「指示は確認したか」
「……はい」
声が小さくなる。
でも、嘘はついていない。
ちゃんと確認した。
昨日のことがあったから、何度も見直した。
「ダブルチェックは」
「……そのときは、していません」
「なぜだ」
「……忙しくて……」
言いながら、自分でもわかる。
言い訳だ。
黒崎の目が、わずかに細くなる。
――やっぱり、怒られる。
そう思った瞬間だった。
「これは白石のミスじゃない」
「……え?」
思わず顔を上げる。
黒崎はカルテを閉じ、淡々と続けた。
「滴下速度は適正。記録も正確だ」
「でも、患者さんが――」
「その時間帯、他に触った人間は」
黒崎の視線が、周囲に向く。
一瞬、空気が止まる。
長谷川が口を開いた。
「……交代で確認に入ったのは、私です」
「変更したか」
「いえ……確認だけのつもりで……」
言葉が少し曖昧になる。
黒崎はわずかに間を置いたあと、静かに言った。
「滴下速度、微調整したな」
「……」
長谷川は一瞬黙り込んだあと、小さく頷いた。
「少しだけ……早い気がして」
「その判断の根拠は」
「……経験で」
「データは」
「……見ていません」
ぴたりと空気が張り詰める。
黒崎の声は低いままだったが、その中に明確な厳しさがあった。
「経験は否定しない。だが、根拠のない調整は不要だ」
「……申し訳ありません」
「患者の状態は数値で見る。感覚で動くな」
静かに、しかし確実に叱責する。
怒鳴っていないのに、重い。
周囲の空気が一段階引き締まる。
「白石」
再び名前を呼ばれる。
「はい」
「今回の件、お前の責任ではない」
「……っ」
胸の奥に、じんわりと何かが広がる。
「だが」
黒崎は続ける。
「ダブルチェックを怠ったのは事実だ」
「……はい」
「忙しさは理由にならない」
「……はい」
厳しい。
でも、納得できる。
「次からは必ず確認しろ」
「はい」
はっきりと答える。
黒崎はそれ以上何も言わず、カルテを返した。
「以上だ」
それだけ言って、視線を外す。
場の空気が少しずつ緩む。
長谷川も深く頭を下げた。
「すみませんでした。私の確認不足です」
「いえ……」
陽菜は言葉を返せなかった。
責める気持ちはなかった。
ただ、驚いていた。
――守られた。
そう思った。
◇
その日の業務が終わる頃には、陽菜の中で何かが変わっていた。
怖い人。
厳しい人。
その印象は変わらない。
でも。
ちゃんと見てくれる人。
正しく判断してくれる人。
そして――
理不尽から、守ってくれる人。
◇
更衣室を出て、外に向かう廊下。
足取りは少しだけ軽かった。
あのまま誤解されたままだったらどうなっていたかわからない。新人のミスとして処理されても、おかしくなかった。
でも、黒崎は違った。
感情ではなく、事実で判断した。
その上で、必要な指摘だけを残した。
――すごい。
素直に、そう思った。
「白石」
「……っ」
また、あの声。
振り返ると、予想通り黒崎が立っていた。
「帰るのか」
「は、はい」
「ついて来い」
「……え?」
まただ。
この人はどうして、いつもこうなのか。
断る間もなく歩き出す。
陽菜は慌ててその後を追った。
連れて行かれたのは、病院近くの小さなカフェだった。
「座れ」
「し、失礼します」
向かいに座ると、黒崎はメニューも見ずに注文を済ませた。
「コーヒーと、あと軽食」
「はい」
店員が去ると、静かな空間が戻る。
気まずい沈黙。
「あの……」
勇気を出して口を開く。
「今日のこと、本当にありがとうございました」
黒崎は少しだけ視線を上げる。
「礼を言う必要はない」
「でも……私、誤解されたままだったら……」
「事実と違うなら、正すだけだ」
あっさりとした言葉。
でも、その一言にどれだけ救われたか。
「……それでも、助かりました」
小さく言うと、黒崎は一瞬だけ黙った。
「……泣くなよ」
「えっ」
慌てて目元を押さえる。
また、涙が滲んでいた。
「す、すみません……」
「だから謝るな」
いつものやり取り。
でも、今日は少しだけ違った。
「……弱いな」
ぽつりと呟かれる。
責めるような言い方ではなかった。
「はい……自覚してます」
苦笑する。
「でも、強くなります」
「……」
「今日みたいなことがあっても、ちゃんと自分で説明できるように」
まっすぐ言うと、黒崎はじっとこちらを見た。
数秒の沈黙。
「……ああ」
短く、肯定の声。
それだけで十分だった。
注文したものが運ばれてくる。
温かい飲み物の香りが、少しだけ緊張をほどく。
「食え」
「え、私もですか?」
「当然だ」
「でも……」
「今日はまともに食事を取っていないだろう」
「……」
言い当てられて、言葉に詰まる。
忙しくて、昼はほとんど食べられなかった。
「体調管理も仕事のうちだ」
「……はい」
素直に頷く。
フォークを手に取りながら、ふと思う。
この人は、やっぱり冷たい。
でも。
こうして、ちゃんと見ている。
気づいている。
そして――
さりげなく、守る。
それがどうしようもなく、心に残る。
「白石」
「はい」
「無駄に気にするな」
「……え?」
「周りの評価も、今日の件も」
低い声。
「お前はやるべきことをやれ」
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……はい」
小さく答える。
もう一度、頷く。
この人の言葉なら、信じられると思った。
怖いのに。
厳しいのに。
どうしてか――
この人のそばにいたいと思ってしまう。
「白石さん、ちょっといい?」
呼び止めたのは、外科病棟のベテラン看護師・長谷川だった。
普段は穏やかで、患者からの信頼も厚い人だ。
「はい」
陽菜が振り返ると、長谷川は少しだけ真剣な表情をしていた。
「さっきのA号室の患者さんの件、聞いた?」
「いえ……何かありましたか?」
胸がざわつく。
「点滴の速度、少し早かったって言われてるの」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「確認したら、白石さんが調整した時間帯と一致してるって」
「そんな……」
思わず声が漏れる。
たしかに、午前中に点滴の確認はした。
でも、指示通りに設定したはずだ。
「患者さん、少し気分悪くなったみたいでね。大事には至ってないけど」
「……っ」
血の気が引く。
自分のせいで、患者に不快な思いをさせたかもしれない。
「一応、確認しとこうか。記録見せてもらえる?」
「はい……!」
震える手でカルテを開く。
記録は残っている。
時間も、滴下速度も、指示通りのはずだ。
なのに――
「……合ってるね」
長谷川がぽつりと呟く。
「え……?」
「記録上は問題ない」
じゃあ、どうして。
頭の中が混乱する。
「でも患者さんの訴えもあるし、一応、医師に報告入れるね」
「……はい」
小さく返事をするしかなかった。
喉が乾く。
胸が苦しい。
もし、本当に自分のミスだったら。
患者に何かあったら。
――取り返しがつかない。
◇
数分後。
ナースステーションの空気が、少しだけ張り詰める。
「黒崎先生、今よろしいですか」
長谷川が声をかける。
振り返ると、黒崎がカルテに目を落としたまま立っていた。
「何だ」
「A号室の件で。点滴の件なんですが――」
淡々と説明がされる。
陽菜はその場に立ったまま、息をするのも苦しかった。
黒崎は一言も挟まず、最後まで話を聞く。
そして。
「カルテを見せろ」
短く言った。
「はい」
長谷川が差し出したカルテを受け取り、黒崎はすぐに目を走らせる。
沈黙。
数秒なのに、何分にも感じる。
「白石」
名前を呼ばれる。
「……はい」
喉がうまく動かない。
「この記録はお前が入力したか」
「はい……」
「指示は確認したか」
「……はい」
声が小さくなる。
でも、嘘はついていない。
ちゃんと確認した。
昨日のことがあったから、何度も見直した。
「ダブルチェックは」
「……そのときは、していません」
「なぜだ」
「……忙しくて……」
言いながら、自分でもわかる。
言い訳だ。
黒崎の目が、わずかに細くなる。
――やっぱり、怒られる。
そう思った瞬間だった。
「これは白石のミスじゃない」
「……え?」
思わず顔を上げる。
黒崎はカルテを閉じ、淡々と続けた。
「滴下速度は適正。記録も正確だ」
「でも、患者さんが――」
「その時間帯、他に触った人間は」
黒崎の視線が、周囲に向く。
一瞬、空気が止まる。
長谷川が口を開いた。
「……交代で確認に入ったのは、私です」
「変更したか」
「いえ……確認だけのつもりで……」
言葉が少し曖昧になる。
黒崎はわずかに間を置いたあと、静かに言った。
「滴下速度、微調整したな」
「……」
長谷川は一瞬黙り込んだあと、小さく頷いた。
「少しだけ……早い気がして」
「その判断の根拠は」
「……経験で」
「データは」
「……見ていません」
ぴたりと空気が張り詰める。
黒崎の声は低いままだったが、その中に明確な厳しさがあった。
「経験は否定しない。だが、根拠のない調整は不要だ」
「……申し訳ありません」
「患者の状態は数値で見る。感覚で動くな」
静かに、しかし確実に叱責する。
怒鳴っていないのに、重い。
周囲の空気が一段階引き締まる。
「白石」
再び名前を呼ばれる。
「はい」
「今回の件、お前の責任ではない」
「……っ」
胸の奥に、じんわりと何かが広がる。
「だが」
黒崎は続ける。
「ダブルチェックを怠ったのは事実だ」
「……はい」
「忙しさは理由にならない」
「……はい」
厳しい。
でも、納得できる。
「次からは必ず確認しろ」
「はい」
はっきりと答える。
黒崎はそれ以上何も言わず、カルテを返した。
「以上だ」
それだけ言って、視線を外す。
場の空気が少しずつ緩む。
長谷川も深く頭を下げた。
「すみませんでした。私の確認不足です」
「いえ……」
陽菜は言葉を返せなかった。
責める気持ちはなかった。
ただ、驚いていた。
――守られた。
そう思った。
◇
その日の業務が終わる頃には、陽菜の中で何かが変わっていた。
怖い人。
厳しい人。
その印象は変わらない。
でも。
ちゃんと見てくれる人。
正しく判断してくれる人。
そして――
理不尽から、守ってくれる人。
◇
更衣室を出て、外に向かう廊下。
足取りは少しだけ軽かった。
あのまま誤解されたままだったらどうなっていたかわからない。新人のミスとして処理されても、おかしくなかった。
でも、黒崎は違った。
感情ではなく、事実で判断した。
その上で、必要な指摘だけを残した。
――すごい。
素直に、そう思った。
「白石」
「……っ」
また、あの声。
振り返ると、予想通り黒崎が立っていた。
「帰るのか」
「は、はい」
「ついて来い」
「……え?」
まただ。
この人はどうして、いつもこうなのか。
断る間もなく歩き出す。
陽菜は慌ててその後を追った。
連れて行かれたのは、病院近くの小さなカフェだった。
「座れ」
「し、失礼します」
向かいに座ると、黒崎はメニューも見ずに注文を済ませた。
「コーヒーと、あと軽食」
「はい」
店員が去ると、静かな空間が戻る。
気まずい沈黙。
「あの……」
勇気を出して口を開く。
「今日のこと、本当にありがとうございました」
黒崎は少しだけ視線を上げる。
「礼を言う必要はない」
「でも……私、誤解されたままだったら……」
「事実と違うなら、正すだけだ」
あっさりとした言葉。
でも、その一言にどれだけ救われたか。
「……それでも、助かりました」
小さく言うと、黒崎は一瞬だけ黙った。
「……泣くなよ」
「えっ」
慌てて目元を押さえる。
また、涙が滲んでいた。
「す、すみません……」
「だから謝るな」
いつものやり取り。
でも、今日は少しだけ違った。
「……弱いな」
ぽつりと呟かれる。
責めるような言い方ではなかった。
「はい……自覚してます」
苦笑する。
「でも、強くなります」
「……」
「今日みたいなことがあっても、ちゃんと自分で説明できるように」
まっすぐ言うと、黒崎はじっとこちらを見た。
数秒の沈黙。
「……ああ」
短く、肯定の声。
それだけで十分だった。
注文したものが運ばれてくる。
温かい飲み物の香りが、少しだけ緊張をほどく。
「食え」
「え、私もですか?」
「当然だ」
「でも……」
「今日はまともに食事を取っていないだろう」
「……」
言い当てられて、言葉に詰まる。
忙しくて、昼はほとんど食べられなかった。
「体調管理も仕事のうちだ」
「……はい」
素直に頷く。
フォークを手に取りながら、ふと思う。
この人は、やっぱり冷たい。
でも。
こうして、ちゃんと見ている。
気づいている。
そして――
さりげなく、守る。
それがどうしようもなく、心に残る。
「白石」
「はい」
「無駄に気にするな」
「……え?」
「周りの評価も、今日の件も」
低い声。
「お前はやるべきことをやれ」
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「……はい」
小さく答える。
もう一度、頷く。
この人の言葉なら、信じられると思った。
怖いのに。
厳しいのに。
どうしてか――
この人のそばにいたいと思ってしまう。



