診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

朝の光が、カーテンの隙間から差し込む。

「……ん」

 小さな寝息。

 隣で、子どもが気持ちよさそうに眠っている。

「……」

 その様子を見て、陽菜は自然と微笑んだ。

 そのすぐ後ろから。

「……起きていたのか」

 低い声が落ちる。

「……うん」

 振り返る。

 黒崎がすぐそばにいた。

 距離が近い。

 でも、もうそれが当たり前になっている。

     ◇

「……よく寝てるね」

「ああ」

 短く答える。

 視線は、子どもに向いている。

 その表情が、少しだけ柔らかい。

     ◇

「……昨日」

 陽菜がぽつりと口を開く。

「……ごめんね」

 小さく言う。

 少しだけ、視線を落とす。

     ◇

「……何の話だ」

 すぐに返ってくる。

「……」

「……必要ない」

 低い声。

「お前が謝ることはない」

     ◇

「……でも」

「ない」

 はっきりと言い切られる。

     ◇

 そのまま。

 そっと頬に手が触れる。

「……」

 逃げられない距離。

 でも、もう逃げるつもりもない。

     ◇

「……お前は」

 低く言う。

「何も間違っていない」

     ◇

 その一言で。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

     ◇

「……先生」

「何だ」

「……私」

 少しだけ笑う。

「ちゃんと、信じるね」

     ◇

 黒崎の目が、わずかに細くなる。

「……何をだ」

「……先生のこと」

 まっすぐ言う。

「……」

「ちゃんと見てるって、言ってくれたから」

     ◇

 沈黙。

 でも。

 否定はされない。

     ◇

「……遅い」

 ぽつりと呟かれる。

「……すみません」

「謝るな」

 いつものやり取り。

 でも。

 その空気は、完全に戻っていた。

     ◇

「……白石」

「……ん」

「……もう一度言う」

     ◇

 少しだけ距離が縮まる。

     ◇

「……逃げるな」

 低く、でも優しい声。

     ◇

 陽菜は少しだけ笑った。

「……逃げません」

 はっきりと答える。

     ◇

「……最初から」

 続ける。

「逃げられてないですし」

     ◇

 黒崎が一瞬だけ黙る。

     ◇

「……当然だ」

 低く言う。

「逃がすつもりはない」

     ◇

 その言葉に。

 胸がきゅっとなる。

 でも。

 それが心地いい。

     ◇

「……やっぱり」

 小さく呟く。

「……逃がしてもらえませんね」

     ◇

 黒崎の目が、わずかに細くなる。

     ◇

「……今さら何を言っている」

 低く言う。

「……最初からそうだ」

     ◇

 そのまま。

 ぐっと引き寄せられる。

「……っ」

 腕の中。

 変わらない温度。

     ◇

「……お前は」

 耳元で、低く。

「俺のものだ」

     ◇

 少しだけ、息が止まる。

 でも。

 嫌じゃない。

     ◇

「……はい」

 小さく答える。

     ◇

「……私も」

 続ける。

「先生のものです」

     ◇

 その瞬間。

 腕の力が、少しだけ強くなる。

     ◇

「……知っている」

 低く呟く。

     ◇

 そのまま、唇が触れる。

 ゆっくりと。

 優しく。

 でも、確かに。

     ◇

 変わらないもの。

 増えたもの。

 全部、ここにある。

     ◇

「……」

 そのとき。

「……ん、ぁ……」

 小さな声。

 二人同時に、そちらを見る。

     ◇

 子どもが、目を覚ましていた。

 小さく手を動かして、こちらを見ている。

     ◇

「……起きたな」

「……うん」

 顔を見合わせる。

 少しだけ笑う。

     ◇

「……おはよう」

 陽菜が優しく声をかける。

「……」

 赤ちゃんが、小さく声を出す。

     ◇

 その様子を見て。

 黒崎がそっと抱き上げる。

 もう、迷いはない手つき。

     ◇

「……大丈夫だ」

 低く言う。

「……俺がいる」

     ◇

 その言葉は。

 最初に聞いたときと、同じなのに。

 今は。

 もっと深く、響く。

     ◇

「……」

 陽菜はその光景を見て、そっと微笑んだ。

     ◇

 恋人だった頃。

 夫婦になった日。

 そして今。

 家族になったこの瞬間。

     ◇

 どの時間も、全部大切で。

 全部、この人と一緒だった。

     ◇

「……凌さん」

「何だ」

「……幸せですね」

     ◇

 一瞬の沈黙。

 そして。

     ◇

「……ああ」

 短い返事。

 でも。

 その声は、確かに優しかった。

     ◇

 冷徹外科医は。

 相変わらず不器用で。

 言葉も少なくて。

 でも。

     ◇

 たった一人を、絶対に手放さない人だった。

     ◇

 そして私は――

 やっぱり今日も、

 逃がしてもらえません。



――END――