診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

夜中の三時。

 静かなはずの部屋に、小さな泣き声が響いた。

「……っ」

 陽菜はすぐに目を開けた。

 体が先に動く。

 考えるより前に、ベッドから起き上がる。

「……泣いてる」

 当たり前のことを、ぼんやりと呟く。

     ◇

 ベビーベッドへ向かう。

 小さな体が、くしゃっと顔を歪めて泣いている。

「……大丈夫、大丈夫」

 そっと抱き上げる。

 温かい。

 軽い。

 でも、確かにそこにある命。

「……どうしたの?」

 優しく揺らす。

 でも。

 今日はなかなか泣き止まない。

     ◇

「……」

 少しだけ焦る。

 いつもなら、もう少しで落ち着くのに。

「……どうしたの」

 声が少しだけ不安になる。

 そのとき。

     ◇

「……貸せ」

 低い声。

「……っ」

 振り返る。

 黒崎が立っていた。

     ◇

「……起きてたの?」

「……ああ」

 短く答える。

「……俺がやる」

「……大丈夫」

 思わず言ってしまう。

「私、できるから」

 少しだけ強く。

     ◇

 沈黙。

 ほんの一瞬。

「……わかっている」

 低い声。

「……」

「それでも」

 一歩近づく。

「貸せ」

     ◇

 その言い方に、少しだけ胸が揺れる。

 でも。

 抵抗はしなかった。

 そっと、腕の中の子を渡す。

     ◇

「……」

 黒崎が抱き上げる。

 動きは、以前よりもずっと自然だった。

「……泣くな」

 低く、静かな声。

 ゆらゆらと揺らす。

「……大丈夫だ」

 変わらない言葉。

「……俺がいる」

     ◇

 その声を聞いた瞬間。

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

     ◇

 前にも、聞いた。

 同じ言葉。

 同じ声で。

 あのときも。

 こうやって。

 この人は、そばにいた。

     ◇

「……」

 気づけば、泣き声が少しずつ弱くなっていた。

「……あ」

 小さく呟く。

 やがて。

 静かに、呼吸だけになる。

「……寝た」

 黒崎が言う。

「……うん」

 陽菜も頷く。

     ◇

 そのまま、そっとベッドに戻す。

 二人で、同時に手を離す。

 その瞬間。

 指先が、ほんの少しだけ触れた。

「……」

「……」

 どちらも、すぐには離れなかった。

     ◇

 ゆっくりと、手が離れる。

 でも。

 その余韻が残る。

     ◇

「……」

 しばらく、何も言わずに立つ。

 静かな時間。

 子どもの寝息だけが聞こえる。

     ◇

「……白石」

「……」

 呼ばれる。

 でも。

 すぐには返事ができない。

「……何?」

 少し遅れて答える。

「……無理をするな」

 低い声。

「……」

「お前がやらなくてもいいことは、俺がやる」

     ◇

 その言葉に、胸が揺れる。

「……なんで」

 思わず聞いてしまう。

「……」

「さっき、距離置くって言ったのに」

 自分でも、矛盾していると思う。

     ◇

 沈黙。

 そして。

「……関係ない」

 短い一言。

     ◇

「……え?」

「お前が何を言っても」

 少しだけ近づく。

「俺がやることは変わらない」

     ◇

 胸が、強く打つ。

「……」

「……子どもは、二人のものだ」

 はっきりと言う。

「……」

「お前一人に任せる気はない」

     ◇

 その言葉に。

 涙が出そうになる。

     ◇

「……」

 何も言えない。

 でも。

 心の奥で、何かがほどけていく。

     ◇

「……白石」

「……」

「……」

 言いかけて、止まる。

     ◇

 その沈黙が。

 前とは、少し違う。

     ◇

「……」

 陽菜は、ゆっくりと口を開く。

「……覚えてる?」

「……何をだ」

「……最初の頃」

 少しだけ笑う。

「私がミスして、怒られたとき」

     ◇

 黒崎がわずかに目を細める。

「……ああ」

「……すごく怖かった」

「……」

「でも」

 続ける。

「ちゃんと見てくれてた」

     ◇

 あの頃。

 厳しくて。

 怖くて。

 でも。

 ちゃんと向き合ってくれていた。

     ◇

「……」

「……今も」

 小さく言う。

「変わってないよね」

     ◇

 沈黙。

 でも。

 否定はされない。

     ◇

「……」

 黒崎が一歩近づく。

「……変わっていない」

 低い声。

「……」

「お前に対しては」

 はっきりと。

     ◇

 その一言で。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

     ◇

「……」

 少しだけ、距離が近い。

 でも。

 前みたいな緊張はない。

     ◇

「……先生」

「何だ」

「……ちょっとだけ」

 小さく言う。

「……疲れた」

     ◇

 その瞬間。

 そっと、腕が伸びる。

 無言で。

 自然に。

     ◇

「……」

 抱き寄せられる。

 強くもなく、弱くもない。

 ただ。

 安心する力で。

     ◇

「……」

 陽菜は、そのまま力を抜いた。

     ◇

 この人の腕の中は。

 やっぱり、変わらない。

     ◇

「……白石」

「……ん」

「……逃げるな」

 低く、でも静かな声。

     ◇

「……」

 すぐには答えられない。

 でも。

 拒否もできない。

     ◇

 子どもの寝息が、静かに響く。

 その間に。

 二人の距離は、少しだけ戻っていた。