その言葉は、何気ない顔で言われた。
「先輩って」
橘が、いつもと変わらない口調で言う。
「……ちょっと損してますよね」
「……え?」
唐突すぎて、聞き返す。
「何が?」
「いや、そのままの意味です」
カルテを見ながら、軽く言う。
「優しいし、気も使うし、仕事もできるのに」
「……」
「ちゃんと評価されてないっていうか」
「……」
少しだけ、胸がざわつく。
でも、それだけじゃなかった。
◇
「……特に」
橘が続ける。
「黒崎先生の隣にいると」
「……っ」
息が詰まる。
「どうしても、比べられるじゃないですか」
「……」
「最近来た研修医の先生とか」
やめてほしい。
その話は。
「……あの人」
橘は淡々と言う。
「正直、先生と並んでても違和感ないですよね」
「……」
わかってる。
そんなこと。
ずっと、見てたから。
◇
「……でも先輩は」
少しだけ顔を上げる。
「ちょっと違うっていうか」
「……どういう意味?」
静かに聞く。
声が、少しだけ硬くなる。
「いや、悪い意味じゃなくて」
軽く笑う。
「タイプが違うっていうか」
「……」
「隣に立つ人、って感じじゃないですよね」
◇
その一言で。
胸の奥が、はっきりと痛んだ。
◇
「……そう」
それだけ返す。
それ以上、言葉が出ない。
「……あ、すみません」
橘が少しだけ慌てる。
「言いすぎました?」
「……ううん」
小さく首を振る。
「大丈夫」
笑おうとする。
でも。
うまく笑えない。
◇
そのまま、業務に戻る。
手は動く。
頭も動く。
でも。
心だけが、置いていかれたみたいだった。
◇
(……隣に立つ人、じゃない)
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
◇
知っていた。
最初から。
黒崎の隣に立てる人は、限られていること。
同じスピードで動ける人。
同じ判断ができる人。
同じレベルで会話できる人。
◇
(……私じゃない)
ずっと、わかっていたこと。
でも。
言葉にされると、こんなにも痛いなんて。
◇
「白石」
「……っ」
呼ばれる。
反射的に振り返る。
「はい」
黒崎が立っている。
いつも通りの顔。
いつも通りの距離。
それなのに。
――遠い。
◇
「これ」
資料を渡される。
「確認しろ」
「……はい」
受け取る。
指が触れる。
でも。
何も感じない。
◇
「……」
黒崎が少しだけ、眉を寄せる。
「……どうした」
「……何も」
即答する。
「……問題ないです」
「……」
視線が、じっと向けられる。
「……嘘をつくな」
「……」
一瞬、言葉が詰まる。
でも。
「……何もないです」
繰り返す。
◇
「……」
黒崎が黙る。
少しだけ空気が張り詰める。
「……そうか」
短い一言。
それ以上、何も言わない。
◇
それが。
逆に苦しかった。
◇
その日の帰り。
並んで歩く。
でも。
言葉がない。
◇
「……白石」
「……」
呼ばれる。
でも、すぐには返事ができない。
「……何?」
少し遅れて答える。
「……今日」
言いかけて、止まる。
「……何でもない」
また、それ。
◇
「……」
胸が、限界だった。
「……もういい」
思わず言ってしまう。
「……何がだ」
「“何でもない”ってやつ」
足を止める。
「そればっかり」
声が震える。
「言いたいことあるなら、言ってよ」
◇
「……」
黒崎は黙る。
「……私、わかんないよ」
続ける。
「先生が何考えてるのか」
「……」
「最近、ずっと変だし」
「……」
「私も変かもしれないけど」
言葉が止まらない。
「……でも」
息が少し荒くなる。
「ちゃんと向き合ってほしい」
◇
沈黙。
長い沈黙。
◇
「……」
黒崎がゆっくり口を開く。
「……余計なことを考えるな」
「……っ」
その一言で。
何かが、切れた。
◇
「……余計なこと?」
笑いそうになる。
「これが?」
「……」
「私が思ってることが?」
視線をぶつける。
「……それ、全部余計なの?」
「……そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味!」
声が強くなる。
◇
「……」
黒崎は、何も言わない。
それが答えみたいで。
◇
「……もういい」
小さく言う。
「……私」
少しだけ息を吸う。
「……自分のこと、ちゃんと考える」
「……何だ」
「……このままじゃ、だめだから」
はっきり言う。
「……」
「……距離、置きたい」
言ってしまった。
◇
空気が凍る。
「……本気か」
低い声。
「……はい」
目を逸らさずに答える。
「……今のままだと」
言葉が少し震える。
「……苦しいので」
◇
沈黙。
重い沈黙。
◇
「……そうか」
黒崎が言う。
それだけ。
止めない。
◇
それが。
何よりも、苦しかった。
◇
「……じゃあ」
小さく言う。
「……お疲れさまでした」
背を向ける。
◇
歩き出す。
止まらない。
止まれない。
◇
涙が出そうになる。
でも。
ここで泣いたら、全部崩れる。
◇
(……好きなのに)
どうして。
こんなふうになってしまったんだろう。
◇
その頃。
その場に残された黒崎凌は――
「……」
動かなかった。
ただ。
拳だけが、強く握られていた。
◇
はじめてだった。
この感情が。
ここまで、抑えられないのは。
「先輩って」
橘が、いつもと変わらない口調で言う。
「……ちょっと損してますよね」
「……え?」
唐突すぎて、聞き返す。
「何が?」
「いや、そのままの意味です」
カルテを見ながら、軽く言う。
「優しいし、気も使うし、仕事もできるのに」
「……」
「ちゃんと評価されてないっていうか」
「……」
少しだけ、胸がざわつく。
でも、それだけじゃなかった。
◇
「……特に」
橘が続ける。
「黒崎先生の隣にいると」
「……っ」
息が詰まる。
「どうしても、比べられるじゃないですか」
「……」
「最近来た研修医の先生とか」
やめてほしい。
その話は。
「……あの人」
橘は淡々と言う。
「正直、先生と並んでても違和感ないですよね」
「……」
わかってる。
そんなこと。
ずっと、見てたから。
◇
「……でも先輩は」
少しだけ顔を上げる。
「ちょっと違うっていうか」
「……どういう意味?」
静かに聞く。
声が、少しだけ硬くなる。
「いや、悪い意味じゃなくて」
軽く笑う。
「タイプが違うっていうか」
「……」
「隣に立つ人、って感じじゃないですよね」
◇
その一言で。
胸の奥が、はっきりと痛んだ。
◇
「……そう」
それだけ返す。
それ以上、言葉が出ない。
「……あ、すみません」
橘が少しだけ慌てる。
「言いすぎました?」
「……ううん」
小さく首を振る。
「大丈夫」
笑おうとする。
でも。
うまく笑えない。
◇
そのまま、業務に戻る。
手は動く。
頭も動く。
でも。
心だけが、置いていかれたみたいだった。
◇
(……隣に立つ人、じゃない)
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
◇
知っていた。
最初から。
黒崎の隣に立てる人は、限られていること。
同じスピードで動ける人。
同じ判断ができる人。
同じレベルで会話できる人。
◇
(……私じゃない)
ずっと、わかっていたこと。
でも。
言葉にされると、こんなにも痛いなんて。
◇
「白石」
「……っ」
呼ばれる。
反射的に振り返る。
「はい」
黒崎が立っている。
いつも通りの顔。
いつも通りの距離。
それなのに。
――遠い。
◇
「これ」
資料を渡される。
「確認しろ」
「……はい」
受け取る。
指が触れる。
でも。
何も感じない。
◇
「……」
黒崎が少しだけ、眉を寄せる。
「……どうした」
「……何も」
即答する。
「……問題ないです」
「……」
視線が、じっと向けられる。
「……嘘をつくな」
「……」
一瞬、言葉が詰まる。
でも。
「……何もないです」
繰り返す。
◇
「……」
黒崎が黙る。
少しだけ空気が張り詰める。
「……そうか」
短い一言。
それ以上、何も言わない。
◇
それが。
逆に苦しかった。
◇
その日の帰り。
並んで歩く。
でも。
言葉がない。
◇
「……白石」
「……」
呼ばれる。
でも、すぐには返事ができない。
「……何?」
少し遅れて答える。
「……今日」
言いかけて、止まる。
「……何でもない」
また、それ。
◇
「……」
胸が、限界だった。
「……もういい」
思わず言ってしまう。
「……何がだ」
「“何でもない”ってやつ」
足を止める。
「そればっかり」
声が震える。
「言いたいことあるなら、言ってよ」
◇
「……」
黒崎は黙る。
「……私、わかんないよ」
続ける。
「先生が何考えてるのか」
「……」
「最近、ずっと変だし」
「……」
「私も変かもしれないけど」
言葉が止まらない。
「……でも」
息が少し荒くなる。
「ちゃんと向き合ってほしい」
◇
沈黙。
長い沈黙。
◇
「……」
黒崎がゆっくり口を開く。
「……余計なことを考えるな」
「……っ」
その一言で。
何かが、切れた。
◇
「……余計なこと?」
笑いそうになる。
「これが?」
「……」
「私が思ってることが?」
視線をぶつける。
「……それ、全部余計なの?」
「……そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味!」
声が強くなる。
◇
「……」
黒崎は、何も言わない。
それが答えみたいで。
◇
「……もういい」
小さく言う。
「……私」
少しだけ息を吸う。
「……自分のこと、ちゃんと考える」
「……何だ」
「……このままじゃ、だめだから」
はっきり言う。
「……」
「……距離、置きたい」
言ってしまった。
◇
空気が凍る。
「……本気か」
低い声。
「……はい」
目を逸らさずに答える。
「……今のままだと」
言葉が少し震える。
「……苦しいので」
◇
沈黙。
重い沈黙。
◇
「……そうか」
黒崎が言う。
それだけ。
止めない。
◇
それが。
何よりも、苦しかった。
◇
「……じゃあ」
小さく言う。
「……お疲れさまでした」
背を向ける。
◇
歩き出す。
止まらない。
止まれない。
◇
涙が出そうになる。
でも。
ここで泣いたら、全部崩れる。
◇
(……好きなのに)
どうして。
こんなふうになってしまったんだろう。
◇
その頃。
その場に残された黒崎凌は――
「……」
動かなかった。
ただ。
拳だけが、強く握られていた。
◇
はじめてだった。
この感情が。
ここまで、抑えられないのは。



