診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

それに気づいたのは、三日後のことだった。

「ねえ、白石さん」

 ナースステーションで記録を入力していた陽菜は、隣から声をかけられて顔を上げた。

 声の主は、同じ病棟の先輩看護師・佐伯だった。明るくて面倒見がいい人だが、こういうときの表情は少しだけ意味ありげだ。

「はい?」
「最近さ、黒崎先生とよく一緒にいるよね」

「……え?」

 一瞬、言葉の意味がわからなかった。

「回診でも毎回呼ばれてるし、急変対応のときも名前で指示出されてたでしょ」
「それは……たまたまです」
「たまたまねぇ」

 くすっと笑われ、陽菜は困ったように視線を逸らす。

 そんなつもりはない。
 むしろ、できれば関わりを減らしたいくらいだ。

 黒崎凌は相変わらず厳しい。
 少しでも判断が遅れれば指摘されるし、曖昧な返事は一切許されない。

 でも――

 昨日よりましだ、なんて言われてしまったせいで。
 どうしても意識してしまう自分がいる。

「まあ、あの人が新人にここまで関わるの珍しいからさ」
「そうなんですか?」
「うん。普通は必要最低限しか関わらないよ。気に入られてるんじゃない?」

「そ、そんなこと……」

 慌てて否定しながらも、心臓が少しだけ速くなる。

 気に入られている、なんて。
 そんなはずない。あの人は合理的なだけだ。使える人材を育てようとしているだけ。

 それなのに――

「白石」

 低い声が、すぐ後ろから落ちた。

「……っ!」

 驚いて振り返ると、そこには黒崎が立っていた。

 白衣姿のまま、まっすぐこちらを見下ろしている。
 距離が近い。

「カルテ、持って来い。回診だ」
「は、はいっ」

 慌てて立ち上がり、必要な資料を手に取る。

 その様子を見ていた佐伯が、小さく口元を押さえて笑った。

「ほらね」
「……っ」

 否定したかったのに、言葉が出てこなかった。

     ◇

 回診は相変わらずのスピードだった。

 陽菜は必死に黒崎の後ろをついていく。
 指示を聞き逃さないように、患者の状態を見落とさないように。

「白石」

「はい」

「この患者のドレーン量は」

「昨日より減少しています。今朝は――」

 数値を答える。
 少しだけ間が空いたが、なんとか言い切れた。

 黒崎は短く頷く。

「問題ない。次」

 それだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。

 ――ちゃんと答えられた。

 小さな成功が、少しずつ積み重なっていく。

 次の病室へ向かう途中。

「白石」

 また名前を呼ばれる。

「はい」

「歩く速度を上げろ。遅い」

「……っ、すみません」

「謝罪は不要だ」

 いつものやり取り。

 でも、そのあとに続いた言葉は少しだけ違っていた。

「転ぶなよ」

「……え?」

 一瞬、意味がわからなかった。

「前も同じことを言ったはずだ」
「……あ」

 オペ室でのことを思い出す。
 コードに引っかかって転びそうになった、あの最悪の瞬間。

「動線を意識しろ」
「はい」

 相変わらず厳しい。
 でも、ただ叱るだけじゃない。

 ちゃんと“覚えていてくれている”。

 その事実に、少しだけ胸がざわついた。

     ◇

 回診が終わり、ナースステーションに戻ると、陽菜は小さく息を吐いた。

「お疲れ」

 中原が水を差し出してくれる。

「ありがとうございます……」
「だいぶ慣れてきたね」
「まだ全然ですけど……」

 苦笑しながら受け取る。

 そのときだった。

「白石さん」

 別の声がかかる。

 振り返ると、そこにいたのは若い男性医師だった。整った顔立ちで、優しそうな雰囲気の人だ。

「はい」
「昨日の急変対応、一緒に入ってたよね。落ち着いててよかったよ」
「い、いえ……そんな……」

 思わぬ言葉に、戸惑う。

 褒められるなんて思っていなかった。

「新人なのにあそこまで動けるの、すごいと思う。よかったら今度、処置のときも一緒に――」

「必要ない」

 低い声が、ぴたりと空気を切った。

 陽菜の心臓が跳ねる。

 ゆっくりと振り返ると、黒崎がすぐ後ろに立っていた。

 さっきまでいなかったはずなのに、いつの間に。

「黒崎先生」
「その看護師は俺の担当だ」

 淡々とした声。

 けれど、その内容に、陽菜も男性医師も一瞬言葉を失った。

「担当……?」
「教育も含めて、俺が見る」

「……」

 有無を言わせない口調だった。

 男性医師は一瞬だけ戸惑ったあと、小さく苦笑する。

「そうなんですね。すみません、知りませんでした」
「問題ない」

 それ以上の会話はなかった。

 男性医師は軽く会釈して去っていく。

 残されたのは、妙な沈黙だった。

「……あの」

 恐る恐る声をかける。

「私、別に……」
「何だ」

「その……“担当”って」

 言葉を選びながら尋ねると、黒崎はわずかに眉を寄せた。

「言葉のままだ」
「えっと……」
「中途半端に教えられるより、一貫して見たほうが効率がいい」

 合理的な理由。

 たしかにその通りだ。

 でも、さっきの言い方は――

「……他の先生にも、そういうふうに言われるんですか?」

 思わず口にしてしまう。

 黒崎は一瞬だけ沈黙したあと、短く答えた。

「言わない」

「……え?」

「必要がないからな」

 それだけ言うと、視線を外す。

「仕事に戻れ」

「あ、はい」

 会話はそれで終わりだった。

     ◇

 午後の業務を終え、ナースステーションで記録をまとめていると、背後でひそひそと声が聞こえた。

「やっぱりそうだよね」
「完全に目かけられてるじゃん」
「いいなあ、あんな人に気に入られて」

 聞こえないふりをしても、耳に入ってくる。

 目かけられている。
 特別扱い。

 そんなつもりはないのに。

「白石さん」

 中原が小さく声をかけてくる。

「気にしなくていいからね」
「……はい」

 笑おうとしたけれど、少しだけぎこちなくなった。

 嬉しいわけじゃない。
 でも、嫌なわけでもない。

 どう受け止めればいいのか、まだわからなかった。

     ◇

 勤務が終わり、外に出る。

 夕方の空気は少しだけ柔らかくて、昼間の緊張がほどけていく。

 ――特別扱い。

 あの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

 違う。
 あの人はそんな感情で動く人じゃない。

 合理的で、冷静で、無駄を嫌う人。

 ただ、それだけ。

 なのに――

「考えすぎか……」

 小さく呟いた、そのとき。

「白石」

 また、あの声。

「……っ」

 振り返ると、黒崎がすぐ後ろに立っていた。

 今日は何度も呼ばれている気がする。

「帰りか」
「は、はい」
「送る」

「……え?」

 一瞬、理解が追いつかなかった。

「い、いえ、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは俺が決める」

「……っ」

 強引だ。

 昨日といい、今日といい、この人はいつもこうだ。

「夜道は危険だ」
「ここ、病院のすぐ前ですけど……」
「関係ない」

 あっさり言い切られる。

 断る理由を探すけれど、うまく言葉が出てこない。

「行くぞ」

 そう言って歩き出してしまう。

 結局、陽菜は断りきれず、その後ろを追いかけるしかなかった。

 並んで歩く。

 距離は少しだけ近い。

 何を話せばいいのかわからなくて、沈黙が続く。

「……あの」

 勇気を出して口を開く。

「今日のこと、ありがとうございました」

「何がだ」

「急変対応のとき……あと、回診も」

 黒崎は少しだけ視線をこちらに向けた。

「礼を言う必要はない」
「でも……」

「お前がやるべきことをやっただけだ」

 やっぱり、冷たい。

 でも。

「……でも、ちゃんと見てくれてるんだなって思いました」

 ぽつりと本音がこぼれる。

 黒崎は一瞬だけ足を止めた。

「当然だ」

 短い返答。

「見ていない人間に任せるほど、現場は甘くない」

 それは厳しい現実の言葉。

 なのに、なぜか胸の奥がじんわり温かくなる。

「……はい」

 自然と笑みがこぼれた。

 黒崎はそれを見て、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。

「……変な顔をするな」
「えっ」
「気が緩む」

「すみません……」
「だから謝るな」

 また同じやり取り。

 でも、少しだけ空気が柔らかい気がした。

 病院の前に着く。

「ここでいい」
「はい。ありがとうございました」

 頭を下げる。

 帰ろうとして一歩踏み出した、そのとき。

「白石」

 呼び止められる。

「はい」

「明日も来い」

「……え?」

「当たり前のことを言っている」

 そう言いながら、黒崎はわずかに目を細めた。

「逃げるな」

 低く、静かな声。

 でもその言葉は、確かに陽菜の中に残る。

「……はい」

 今度は迷わず頷けた。

 黒崎はそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出す。

 その後ろ姿を見送りながら、陽菜はそっと胸に手を当てた。

 どうしてだろう。

 怖い人のはずなのに。

 関わるたびに、少しずつ――

 この人のことを、もっと知りたいと思ってしまう。