それは、特別な出来事があったわけじゃなかった。
ほんの少しの違和感。
ほんの少しの沈黙。
それが、少しずつ積み重なっていっただけだった。
◇
「……ただいま」
「……おかえりなさい」
玄関で交わす、短い言葉。
以前なら、もう少しだけ続いていた会話。
今日の出来事とか。
ちょっとした愚痴とか。
些細なことでも、話していたはずなのに。
今は――
「……夕飯、できてます」
「……ああ」
それだけ。
◇
「……」
食卓に並ぶ料理。
湯気が立っているのに、どこか静かすぎる。
「……いただきます」
「……いただきます」
同時に言う。
でも、それ以上は続かない。
◇
カチャ、と食器の音だけが響く。
テレビもつけていない。
ただ、静かに時間だけが流れる。
◇
「……仕事は」
凌がぽつりと口を開く。
「……大丈夫か」
「……はい」
短く答える。
「問題ないです」
「……そうか」
それだけ。
◇
本当は、話したいことはたくさんある。
橘のこと。
高瀬のこと。
自分の中にあるモヤモヤ。
でも。
――言えない。
◇
「……ごちそうさまでした」
「……ああ」
先に席を立つ。
これ以上、ここにいると苦しくなる。
◇
リビング。
ベビーベッドの中で、子どもが小さく手を動かしている。
「……ただいま」
そっと声をかける。
小さく笑うような表情。
それだけで、少しだけ心が緩む。
◇
「……陽菜」
「……っ」
後ろから声がする。
振り返る。
凌が立っていた。
「……何?」
「……」
一瞬、言葉が止まる。
「……何でもない」
そう言って、視線を外す。
「……」
その一言が、胸に刺さる。
◇
「……そう」
それだけ返す。
本当は、何か言おうとしていたのに。
やめた。
◇
また、沈黙。
同じ空間にいるのに。
距離が遠い。
◇
夜。
「……っ」
小さな泣き声。
「……起きた」
陽菜がすぐに体を起こす。
「……私行くね」
「……いい」
凌が先に動く。
「俺が行く」
「……でも」
「いいと言っている」
強めの声。
思わず言葉が止まる。
「……わかった」
小さく頷く。
◇
ベビーベッドの前。
凌が赤ちゃんを抱き上げる。
「……泣くな」
低い声。
でも、優しい。
ゆらゆらと揺らす。
「……大丈夫だ」
静かに言う。
「……俺がいる」
その言葉に、胸が少しだけ締めつけられる。
◇
そのまま、しばらく見ている。
この人は変わっていない。
ちゃんと優しいし、ちゃんと大切にしてくれている。
それなのに。
どうしてこんなに、遠く感じるんだろう。
◇
「……寝たな」
凌が小さく言う。
「……うん」
陽菜も頷く。
静かにベッドに戻す。
◇
「……」
そのまま、二人並んで立つ。
距離は近い。
でも。
言葉がない。
◇
「……白石」
「……」
呼ばれる。
でも、すぐには返事ができない。
「……何?」
少し遅れて答える。
「……今日」
言いかけて、止まる。
「……何でもない」
また、それ。
◇
「……」
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
「……それ、やめて」
思わず言ってしまう。
「……何だ」
「“何でもない”ってやつ」
視線を上げる。
「言いたいことあるなら、ちゃんと言って」
少しだけ強くなる。
「……」
凌は黙る。
「……何もない」
低い声。
「……あるでしょ」
「ない」
言い切られる。
◇
「……そう」
それ以上、言えなくなる。
だって。
否定されたら、それ以上踏み込めない。
◇
「……私も」
ぽつりと呟く。
「……何もない」
意地みたいに。
そう言ってしまう。
◇
沈黙。
重い沈黙。
◇
お互いに、気づいている。
本当は、何もないわけじゃないこと。
言いたいことがあること。
でも。
言えない。
言えば、壊れそうで。
◇
「……寝る」
凌が先に言う。
「……うん」
陽菜も小さく頷く。
◇
ベッドに入る。
同じ布団。
でも。
少しだけ距離がある。
◇
「……」
天井を見つめる。
眠れない。
隣の気配は、ちゃんとあるのに。
手を伸ばせば触れる距離なのに。
その一歩が、遠い。
◇
(……どうして)
こんなふうになってしまったんだろう。
好きなのに。
大切なのに。
それでも。
うまくいかない。
◇
同じ時間。
隣で。
黒崎凌もまた、目を閉じたまま動かなかった。
◇
どちらも、同じことを思っている。
でも。
言葉にできない。
◇
それが――
すれ違いだった。
ほんの少しの違和感。
ほんの少しの沈黙。
それが、少しずつ積み重なっていっただけだった。
◇
「……ただいま」
「……おかえりなさい」
玄関で交わす、短い言葉。
以前なら、もう少しだけ続いていた会話。
今日の出来事とか。
ちょっとした愚痴とか。
些細なことでも、話していたはずなのに。
今は――
「……夕飯、できてます」
「……ああ」
それだけ。
◇
「……」
食卓に並ぶ料理。
湯気が立っているのに、どこか静かすぎる。
「……いただきます」
「……いただきます」
同時に言う。
でも、それ以上は続かない。
◇
カチャ、と食器の音だけが響く。
テレビもつけていない。
ただ、静かに時間だけが流れる。
◇
「……仕事は」
凌がぽつりと口を開く。
「……大丈夫か」
「……はい」
短く答える。
「問題ないです」
「……そうか」
それだけ。
◇
本当は、話したいことはたくさんある。
橘のこと。
高瀬のこと。
自分の中にあるモヤモヤ。
でも。
――言えない。
◇
「……ごちそうさまでした」
「……ああ」
先に席を立つ。
これ以上、ここにいると苦しくなる。
◇
リビング。
ベビーベッドの中で、子どもが小さく手を動かしている。
「……ただいま」
そっと声をかける。
小さく笑うような表情。
それだけで、少しだけ心が緩む。
◇
「……陽菜」
「……っ」
後ろから声がする。
振り返る。
凌が立っていた。
「……何?」
「……」
一瞬、言葉が止まる。
「……何でもない」
そう言って、視線を外す。
「……」
その一言が、胸に刺さる。
◇
「……そう」
それだけ返す。
本当は、何か言おうとしていたのに。
やめた。
◇
また、沈黙。
同じ空間にいるのに。
距離が遠い。
◇
夜。
「……っ」
小さな泣き声。
「……起きた」
陽菜がすぐに体を起こす。
「……私行くね」
「……いい」
凌が先に動く。
「俺が行く」
「……でも」
「いいと言っている」
強めの声。
思わず言葉が止まる。
「……わかった」
小さく頷く。
◇
ベビーベッドの前。
凌が赤ちゃんを抱き上げる。
「……泣くな」
低い声。
でも、優しい。
ゆらゆらと揺らす。
「……大丈夫だ」
静かに言う。
「……俺がいる」
その言葉に、胸が少しだけ締めつけられる。
◇
そのまま、しばらく見ている。
この人は変わっていない。
ちゃんと優しいし、ちゃんと大切にしてくれている。
それなのに。
どうしてこんなに、遠く感じるんだろう。
◇
「……寝たな」
凌が小さく言う。
「……うん」
陽菜も頷く。
静かにベッドに戻す。
◇
「……」
そのまま、二人並んで立つ。
距離は近い。
でも。
言葉がない。
◇
「……白石」
「……」
呼ばれる。
でも、すぐには返事ができない。
「……何?」
少し遅れて答える。
「……今日」
言いかけて、止まる。
「……何でもない」
また、それ。
◇
「……」
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
「……それ、やめて」
思わず言ってしまう。
「……何だ」
「“何でもない”ってやつ」
視線を上げる。
「言いたいことあるなら、ちゃんと言って」
少しだけ強くなる。
「……」
凌は黙る。
「……何もない」
低い声。
「……あるでしょ」
「ない」
言い切られる。
◇
「……そう」
それ以上、言えなくなる。
だって。
否定されたら、それ以上踏み込めない。
◇
「……私も」
ぽつりと呟く。
「……何もない」
意地みたいに。
そう言ってしまう。
◇
沈黙。
重い沈黙。
◇
お互いに、気づいている。
本当は、何もないわけじゃないこと。
言いたいことがあること。
でも。
言えない。
言えば、壊れそうで。
◇
「……寝る」
凌が先に言う。
「……うん」
陽菜も小さく頷く。
◇
ベッドに入る。
同じ布団。
でも。
少しだけ距離がある。
◇
「……」
天井を見つめる。
眠れない。
隣の気配は、ちゃんとあるのに。
手を伸ばせば触れる距離なのに。
その一歩が、遠い。
◇
(……どうして)
こんなふうになってしまったんだろう。
好きなのに。
大切なのに。
それでも。
うまくいかない。
◇
同じ時間。
隣で。
黒崎凌もまた、目を閉じたまま動かなかった。
◇
どちらも、同じことを思っている。
でも。
言葉にできない。
◇
それが――
すれ違いだった。



