診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

「黒崎先生、お時間いいですか?」

 その声は、よく通る綺麗な声だった。

 ナースステーションに響くと、自然と視線が集まる。

「……何だ」

 黒崎が振り返る。

 その先にいたのは――

 整った顔立ちの女性だった。

 白衣の着こなしも無駄がなく、立ち姿に自信がある。

「今日から外科に配属された、研修医の高瀬です」

 にこりと笑う。

「ご指導、よろしくお願いします」

 明るく、はっきりとした声。

 第一印象は――

 “できる人”。

     ◇

「高瀬先生ね、優秀らしいよ」

 佐伯が小声で言う。

「大学でも成績トップクラスだったって」
「……そうなんですね」

 自然と視線がそちらに向く。

 黒崎の隣で、何かを説明している。

 距離が近い。

 でも、それが違和感にならない。

 むしろ――

 しっくりくる。

     ◇

「ここはこう考える」

「はい」

「判断が遅い」

「すみません、もう一度お願いします」

 やり取りは、いつも通りの黒崎の指導。

 厳しい。

 容赦ない。

 でも。

「……なるほど、理解しました」

 高瀬はすぐに食らいつく。

 理解も早い。

「……次からは一回で覚えろ」
「はい」

 その返答も、迷いがない。

 無駄がない。

     ◇

「……すごいね」

 中原がぽつりと呟く。

「怒られてるのに全然動じてない」
「……確かに」

「しかもちゃんとついていってるし」

 その通りだった。

 黒崎のスピードに、きちんとついていっている。

     ◇

「お似合いだよね」

 その一言に。

 心臓が、少しだけ止まる。

「……え?」

 思わず聞き返す。

「ほら、あの二人」

 中原がこっそり視線を向ける。

「仕事のテンポも合ってるし」
「……」

「見てて気持ちいいくらい」

 確かに。

 そう見える。

 違和感がない。

 むしろ。

 自然すぎる。

     ◇

「……」

 陽菜は何も言えなかった。

 ただ。

 その光景を見てしまう。

     ◇

「白石」

「……っ」

 名前を呼ばれて、はっとする。

「はい」

「この患者の状態は」

「……えっと」

 一瞬、言葉が詰まる。

 視線が揺れる。

 集中できていない。

「……遅い」

 低い声。

「……すみません」

「謝罪は不要だ」

 いつもの言葉。

 でも。

「集中しろ」

 少しだけ、強い。

「……はい」

     ◇

 そのあとも。

 視線が気になって仕方なかった。

 黒崎と高瀬。

 二人が並ぶ姿。

 自然に会話している姿。

 同じ速度で動いている姿。

     ◇

「……先輩?」

「え?」

 橘の声で現実に戻る。

「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」

「なんか今日、ちょっと変ですよ」

 心配そうに言われる。

「……そうかな」
「そうですよ。ぼーっとしてる」

「……ごめん」

 苦笑する。

     ◇

「先輩」

「ん?」

「さっきの人」

 橘が小さく言う。

「黒崎先生といい感じじゃないですか」

「……」

 また。

 その言葉。

「……そう見える?」

「見えますよ」

 あっさりと言う。

「仕事のレベルも近そうだし」

「……」

「正直、先輩とは違うタイプですよね」

 その一言が。

 胸に刺さる。

     ◇

「……どういう意味?」

 静かに聞く。

「え?」

「違うタイプって」

 はっきりさせたかった。

「……いや、悪い意味じゃなくて」

 少しだけ慌てる。

「先輩は優しい感じで」
「……」

「あの人は、なんていうか……対等って感じ?」

「……」

 言葉が出ない。

     ◇

 対等。

 その言葉が、頭の中に残る。

 確かにそうだ。

 黒崎の隣に立つ人。

 同じ速度で動ける人。

 同じレベルで話せる人。

 それは――

 自分じゃない。

     ◇

「……白石」

「……っ」

 呼ばれる。

 振り返る。

 黒崎が立っている。

「これ」

 資料を渡される。

「確認しろ」
「……はい」

 受け取る。

 指が触れる。

 いつもなら、それだけで少し嬉しいのに。

 今日は違う。

     ◇

「……先生」

「何だ」

「……あの人」

 言葉を選ぶ。

「すごいですね」

「……ああ」

 短い返事。

「優秀だ」

 はっきりと。

 迷いなく。

「……そうですよね」

 小さく頷く。

     ◇

「……」

 そのまま、少しだけ沈黙が流れる。

「……何だ」

 黒崎が言う。

「何が言いたい」

「……」

 一瞬、迷う。

 でも。

「……お似合いですね」

 言ってしまった。

     ◇

 空気が、止まる。

「……何を言っている」

 低い声。

「……だって」

「だって、じゃない」

 はっきりと否定される。

「……でも」

「関係ない」

 即答だった。

「……え?」

「仕事だ」

 それだけ。

「……」

 それ以上、何も言われない。

     ◇

 でも。

 胸の奥のざわつきは、消えなかった。

     ◇

 帰り道。

 並んで歩く。

 いつもと同じ距離。

 でも。

 どこか、遠い。

「……白石」

「はい」

「……今日、様子がおかしい」

「……そうですか」

「……理由は」

「……」

 言えない。

 でも。

「……なんでもないです」

 そう答えるしかなかった。

「……」

 黒崎はそれ以上聞かなかった。

     ◇

 でも。

 その沈黙が。

 余計に苦しかった。

     ◇

 このとき、まだ気づいていなかった。

 これは――

 お互いが同じだけ想っているからこそ起きる、

 すれ違いの始まりだということに。