それは、ほんの一瞬の出来事だった。
「先輩、それ持ちます」
「ありがとう」
陽菜がカルテを持ち直したそのとき。
橘が自然な動きで手を伸ばしてきた。
指先が触れる。
ほんの一瞬。
それだけ。
それなのに――
「……」
空気が、変わった。
はっきりと。
背中に、強い視線を感じる。
◇
「……先輩?」
「え、あ、ごめん」
橘の声で我に返る。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
そう答えながらも、視線が気になって仕方ない。
振り返らなくてもわかる。
誰が見ているのか。
◇
「白石」
「……っ」
低い声。
逃げられない。
「はい」
「こっちに来い」
短く、はっきりと。
「……はい」
橘に軽く会釈して、その場を離れる。
◇
処置室。
ドアが閉まる。
いつもと同じはずの空間。
でも。
空気が重い。
「……何だ」
黒崎が口を開く。
「え?」
「さっきの」
「……さっき?」
わかっている。
でも、あえて聞き返す。
「……新人と何をしていた」
「指導です」
即答する。
「それだけか」
「……それだけです」
少しだけ間が空く。
「……問題あるんですか?」
思い切って聞く。
黒崎は何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
「……先生?」
「……ない」
低い声。
「業務の範囲なら」
「……」
その言い方に、少しだけ違和感を覚える。
「……じゃあ、何で」
言いかけた、その瞬間。
ぐっと腕を引かれる。
「……っ!」
一気に距離が縮まる。
壁際。
逃げ場がない。
「……先生」
「……あいつは」
低い声。
いつもより、確実に近い。
「距離が近い」
「……それは」
「わかっている」
遮られる。
「……」
「だから、気に入らない」
その一言に、息が止まる。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
「……気に入らない?」
「……ああ」
はっきりと、頷く。
「……どうして」
思わず聞いてしまう。
その答えを。
知りたいのに、少し怖い。
「……」
黒崎は一瞬だけ黙った。
そして。
「……近い」
「……」
「必要以上に」
「……」
「お前に触れる距離にいる」
言葉が、低く落ちてくる。
一つ一つが、重い。
「……」
「それが、気に入らない」
はっきりとした感情。
初めてだった。
この人が、こんなふうに“感情”で話すのは。
◇
「……それって」
声が少し震える。
「……嫉妬ですか」
言ってしまった。
沈黙。
ほんの一瞬。
でも。
逃げなかった。
「……ああ」
そのまま、認めた。
「……している」
迷いなく。
はっきりと。
◇
心臓が、大きく跳ねる。
この人が。
あの黒崎凌が。
嫉妬してる?
「……先生」
「何だ」
「……びっくりしました」
正直な感想だった。
「……そうか」
「だって、そんなふうに見えなかったから」
「……見せていない」
低い声。
「……必要がなかった」
その言葉に、少しだけ息を呑む。
「……じゃあ、今は?」
「……」
一瞬、間が空く。
そして。
「……必要がある」
視線が、まっすぐ刺さる。
◇
「……」
言葉が出ない。
ただ、見つめ返すことしかできない。
「……白石」
「はい」
「勘違いするな」
低く言う。
「……何をですか」
「お前が誰と関わろうと、制限するつもりはない」
「……はい」
「仕事なら、なおさらだ」
「……」
それは、正しい。
でも。
「……ただ」
少しだけ声が低くなる。
「目の前で見せられると、苛立つ」
その一言に、胸がぎゅっとなる。
「……」
「……それだけだ」
少しだけ、距離が離れる。
でも、まだ近い。
◇
「……先生」
「何だ」
「……ちゃんと言ってくれたほうがいいです」
小さく言う。
「……何をだ」
「嫉妬してるって」
まっすぐ言う。
「……」
黒崎は一瞬だけ黙った。
「……言っただろう」
「もっと早くです」
少しだけ笑う。
「そしたら、私も気をつけます」
「……」
ほんの少しだけ、空気が柔らぐ。
「……気をつける必要はない」
「え?」
「……俺が慣れる」
「……無理ですよ」
「……やってみないとわからない」
珍しく、少しだけ曖昧な言い方。
それが少しだけ可笑しくて。
「……無理しないでくださいね」
そう言うと。
「……無理はしていない」
即答。
でも。
「……少しはしてますよね」
「……」
沈黙。
そして。
「……しているかもしれない」
ぽつりと認める。
その素直さに、思わず笑ってしまう。
◇
「……白石」
「はい」
「……あまり」
言葉が少しだけ止まる。
「……近づくな」
「誰にですか」
「……新人に」
はっきり言う。
その顔が、少しだけ真剣で。
「……はい」
素直に頷く。
理由は、もうわかっているから。
◇
その瞬間。
ぐっと腕を引かれる。
「……っ」
また、距離が近くなる。
「……先生?」
「……確認だ」
「何のですか」
「……俺の位置だ」
低く言う。
そして。
そのまま、軽く唇が触れる。
「……っ」
一瞬だけ。
でも、確かに。
「……これでいい」
離れる。
何事もなかったかのように。
「……よくないです」
思わず言う。
「ここ、職場です」
「誰も見ていない」
「そういう問題じゃないです」
「問題ない」
さらっと言う。
「……もう」
顔が熱い。
でも。
嫌じゃない。
◇
「……戻るぞ」
「はい」
ドアに向かう背中。
でも。
さっきまでとは、少し違う。
◇
ナースステーションに戻る。
「先輩!」
橘が笑う。
「さっきの続き――」
「……」
一瞬、迷う。
でも。
「うん、やろうか」
自然に答える。
ただし。
ほんの少しだけ、距離を取る。
「……あれ?」
「どうした?」
「いや、ちょっと遠いなって」
「気のせいだよ」
笑ってごまかす。
その瞬間。
「……」
また視線を感じる。
◇
でも今度は、わかっている。
この視線の意味を。
◇
冷徹外科医は。
感情を見せない人だった。
でも。
一度溢れたそれは、もう止まらない。
静かに。
でも確実に。
独占は、始まっていた。
「先輩、それ持ちます」
「ありがとう」
陽菜がカルテを持ち直したそのとき。
橘が自然な動きで手を伸ばしてきた。
指先が触れる。
ほんの一瞬。
それだけ。
それなのに――
「……」
空気が、変わった。
はっきりと。
背中に、強い視線を感じる。
◇
「……先輩?」
「え、あ、ごめん」
橘の声で我に返る。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
そう答えながらも、視線が気になって仕方ない。
振り返らなくてもわかる。
誰が見ているのか。
◇
「白石」
「……っ」
低い声。
逃げられない。
「はい」
「こっちに来い」
短く、はっきりと。
「……はい」
橘に軽く会釈して、その場を離れる。
◇
処置室。
ドアが閉まる。
いつもと同じはずの空間。
でも。
空気が重い。
「……何だ」
黒崎が口を開く。
「え?」
「さっきの」
「……さっき?」
わかっている。
でも、あえて聞き返す。
「……新人と何をしていた」
「指導です」
即答する。
「それだけか」
「……それだけです」
少しだけ間が空く。
「……問題あるんですか?」
思い切って聞く。
黒崎は何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
「……先生?」
「……ない」
低い声。
「業務の範囲なら」
「……」
その言い方に、少しだけ違和感を覚える。
「……じゃあ、何で」
言いかけた、その瞬間。
ぐっと腕を引かれる。
「……っ!」
一気に距離が縮まる。
壁際。
逃げ場がない。
「……先生」
「……あいつは」
低い声。
いつもより、確実に近い。
「距離が近い」
「……それは」
「わかっている」
遮られる。
「……」
「だから、気に入らない」
その一言に、息が止まる。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
「……気に入らない?」
「……ああ」
はっきりと、頷く。
「……どうして」
思わず聞いてしまう。
その答えを。
知りたいのに、少し怖い。
「……」
黒崎は一瞬だけ黙った。
そして。
「……近い」
「……」
「必要以上に」
「……」
「お前に触れる距離にいる」
言葉が、低く落ちてくる。
一つ一つが、重い。
「……」
「それが、気に入らない」
はっきりとした感情。
初めてだった。
この人が、こんなふうに“感情”で話すのは。
◇
「……それって」
声が少し震える。
「……嫉妬ですか」
言ってしまった。
沈黙。
ほんの一瞬。
でも。
逃げなかった。
「……ああ」
そのまま、認めた。
「……している」
迷いなく。
はっきりと。
◇
心臓が、大きく跳ねる。
この人が。
あの黒崎凌が。
嫉妬してる?
「……先生」
「何だ」
「……びっくりしました」
正直な感想だった。
「……そうか」
「だって、そんなふうに見えなかったから」
「……見せていない」
低い声。
「……必要がなかった」
その言葉に、少しだけ息を呑む。
「……じゃあ、今は?」
「……」
一瞬、間が空く。
そして。
「……必要がある」
視線が、まっすぐ刺さる。
◇
「……」
言葉が出ない。
ただ、見つめ返すことしかできない。
「……白石」
「はい」
「勘違いするな」
低く言う。
「……何をですか」
「お前が誰と関わろうと、制限するつもりはない」
「……はい」
「仕事なら、なおさらだ」
「……」
それは、正しい。
でも。
「……ただ」
少しだけ声が低くなる。
「目の前で見せられると、苛立つ」
その一言に、胸がぎゅっとなる。
「……」
「……それだけだ」
少しだけ、距離が離れる。
でも、まだ近い。
◇
「……先生」
「何だ」
「……ちゃんと言ってくれたほうがいいです」
小さく言う。
「……何をだ」
「嫉妬してるって」
まっすぐ言う。
「……」
黒崎は一瞬だけ黙った。
「……言っただろう」
「もっと早くです」
少しだけ笑う。
「そしたら、私も気をつけます」
「……」
ほんの少しだけ、空気が柔らぐ。
「……気をつける必要はない」
「え?」
「……俺が慣れる」
「……無理ですよ」
「……やってみないとわからない」
珍しく、少しだけ曖昧な言い方。
それが少しだけ可笑しくて。
「……無理しないでくださいね」
そう言うと。
「……無理はしていない」
即答。
でも。
「……少しはしてますよね」
「……」
沈黙。
そして。
「……しているかもしれない」
ぽつりと認める。
その素直さに、思わず笑ってしまう。
◇
「……白石」
「はい」
「……あまり」
言葉が少しだけ止まる。
「……近づくな」
「誰にですか」
「……新人に」
はっきり言う。
その顔が、少しだけ真剣で。
「……はい」
素直に頷く。
理由は、もうわかっているから。
◇
その瞬間。
ぐっと腕を引かれる。
「……っ」
また、距離が近くなる。
「……先生?」
「……確認だ」
「何のですか」
「……俺の位置だ」
低く言う。
そして。
そのまま、軽く唇が触れる。
「……っ」
一瞬だけ。
でも、確かに。
「……これでいい」
離れる。
何事もなかったかのように。
「……よくないです」
思わず言う。
「ここ、職場です」
「誰も見ていない」
「そういう問題じゃないです」
「問題ない」
さらっと言う。
「……もう」
顔が熱い。
でも。
嫌じゃない。
◇
「……戻るぞ」
「はい」
ドアに向かう背中。
でも。
さっきまでとは、少し違う。
◇
ナースステーションに戻る。
「先輩!」
橘が笑う。
「さっきの続き――」
「……」
一瞬、迷う。
でも。
「うん、やろうか」
自然に答える。
ただし。
ほんの少しだけ、距離を取る。
「……あれ?」
「どうした?」
「いや、ちょっと遠いなって」
「気のせいだよ」
笑ってごまかす。
その瞬間。
「……」
また視線を感じる。
◇
でも今度は、わかっている。
この視線の意味を。
◇
冷徹外科医は。
感情を見せない人だった。
でも。
一度溢れたそれは、もう止まらない。
静かに。
でも確実に。
独占は、始まっていた。



