それは、ほんの少しの違和感からだった。
「先輩、これ持ちます」
「え、いいですよ」
「いやいや、俺がやります」
自然に、当たり前のように手を伸ばしてくる。
距離も近い。
声も、少し低めでよく通る。
「……ありがとう」
陽菜がそう言うと、橘はにっと笑った。
「頼ってくださいよ」
その言葉に、少しだけ戸惑う。
新人に頼るのは、まだ慣れない。
◇
「先輩、ここってこうですか?」
「うん、そうそう」
肩が触れそうな距離。
カルテを覗き込むために自然と近づくのはわかる。
でも。
「……近いです」
「え?」
橘が顔を上げる。
「すみません、癖なんですよね」
悪びれずに言う。
「人の話聞くとき、つい寄っちゃって」
「……気をつけてください」
「はい、努力します」
言いながら、すぐまた距離が戻る。
――あまり意味がない。
◇
「先輩って、優しいですよね」
「え?」
唐突に言われて、陽菜は瞬きをする。
「教え方も丁寧だし、怒らないし」
「怒るときは怒りますよ?」
「でも、怖くないです」
真っ直ぐ見てくる。
「……そうですか」
「はい。だから安心して聞けます」
その言葉に、少しだけ照れる。
嬉しくないわけじゃない。
でも。
距離が近いままだから、余計に意識してしまう。
◇
「白石」
「……っ」
低い声。
背中に走る緊張。
振り返ると、黒崎が立っていた。
「……はい」
「処置室だ」
「はい」
短く答えて、橘に軽く会釈する。
「すぐ戻るね」
「はい、待ってます」
その言葉に、黒崎の視線が一瞬だけ動いた。
◇
処置室。
ドアが閉まる。
静かな空間。
「……何だ」
黒崎が先に口を開く。
「え?」
「さっきの」
「さっきの?」
「……新人だ」
少しだけ言葉が詰まる。
「……ああ、橘くんですか」
「……ああ」
「指導してただけですよ」
普通に答える。
でも。
「……距離が近い」
低く言われる。
「……え?」
「必要以上に」
視線が鋭い。
「……そうですか?」
「そうだ」
即答だった。
「……でも、あの子ああいうタイプで」
「関係ない」
ぴしゃりと切られる。
「業務上必要な距離を保て」
「……はい」
少しだけ戸惑う。
ここまで言われること、あっただろうか。
◇
そのまま処置が始まる。
指示はいつも通り。
正確で、無駄がない。
でも。
「……そこ」
「はい」
「違う」
「……すみません」
「集中しろ」
声が、少しだけ鋭い。
明らかに、いつもより厳しい。
「……はい」
思わず背筋が伸びる。
◇
処置が終わる。
道具を片付けながら、陽菜は小さく息を吐いた。
「……先生」
「何だ」
「今日、ちょっと厳しくないですか?」
思い切って聞いてみる。
「……通常だ」
「いつもより強い気がします」
「気のせいだ」
即答。
でも。
「……本当に?」
「……」
一瞬、沈黙。
そして。
「……気のせいだ」
繰り返す。
でも。
その声は、少しだけ低かった。
◇
ナースステーションに戻る。
「先輩!」
すぐに橘が近づいてくる。
「終わりました?」
「うん」
「さっきの続き、いいですか?」
「いいよ」
自然に返す。
でも。
「……」
背中に、また視線を感じる。
振り返らなくてもわかる。
◇
「先輩、ここって――」
説明している途中で。
「……白石」
「……っ」
また呼ばれる。
「はい」
「こっちだ」
「……はい」
橘に「ごめんね」と言って離れる。
◇
廊下。
二人きり。
「……先生?」
「……何だ」
「さっきから何回も呼びますよね」
「必要だからだ」
「……本当に?」
少しだけ、じっと見る。
黒崎は一瞬だけ言葉を止めた。
そして。
「……あいつは」
「え?」
「距離が近すぎる」
はっきりと言う。
「……橘くんのことですか?」
「……ああ」
「でも、あの子ああいう性格で」
「だからと言って許容する必要はない」
きっぱり。
「……」
少しだけ、胸がざわつく。
「……先生」
「何だ」
「もしかして」
一歩近づく。
「……気にしてます?」
「……何をだ」
「私と後輩の距離」
沈黙。
ほんの数秒。
でも、それが長く感じる。
「……」
「……先生?」
「……業務に支障が出ると言っている」
「それだけですか?」
「……」
もう一度、沈黙。
そして。
「……それ以上はない」
そう言った。
でも。
その答えは、どこか曖昧だった。
◇
「……そうですか」
小さく答える。
でも。
胸の奥に、ほんの少しだけ引っかかるものが残る。
◇
ナースステーションに戻る。
「先輩!」
また橘が笑う。
「さっきの続きいいですか?」
「うん」
自然に答える。
でも。
「……」
今度は、少しだけ距離を意識する。
ほんの少しだけ、離れる。
「……あれ?」
「え?」
「先輩、なんか距離取ってません?」
「……気のせい」
「えー、絶対そうですよ」
笑いながら、また近づいてくる。
そのとき。
「……」
視線。
やっぱり、感じる。
◇
黒崎は何も言わない。
ただ。
静かに見ている。
その視線が、少しずつ重くなっていく。
◇
このとき、まだ誰も気づいていなかった。
無意識の距離が。
何気ない会話が。
少しずつ、確実に――
関係を揺らし始めていることに。
「先輩、これ持ちます」
「え、いいですよ」
「いやいや、俺がやります」
自然に、当たり前のように手を伸ばしてくる。
距離も近い。
声も、少し低めでよく通る。
「……ありがとう」
陽菜がそう言うと、橘はにっと笑った。
「頼ってくださいよ」
その言葉に、少しだけ戸惑う。
新人に頼るのは、まだ慣れない。
◇
「先輩、ここってこうですか?」
「うん、そうそう」
肩が触れそうな距離。
カルテを覗き込むために自然と近づくのはわかる。
でも。
「……近いです」
「え?」
橘が顔を上げる。
「すみません、癖なんですよね」
悪びれずに言う。
「人の話聞くとき、つい寄っちゃって」
「……気をつけてください」
「はい、努力します」
言いながら、すぐまた距離が戻る。
――あまり意味がない。
◇
「先輩って、優しいですよね」
「え?」
唐突に言われて、陽菜は瞬きをする。
「教え方も丁寧だし、怒らないし」
「怒るときは怒りますよ?」
「でも、怖くないです」
真っ直ぐ見てくる。
「……そうですか」
「はい。だから安心して聞けます」
その言葉に、少しだけ照れる。
嬉しくないわけじゃない。
でも。
距離が近いままだから、余計に意識してしまう。
◇
「白石」
「……っ」
低い声。
背中に走る緊張。
振り返ると、黒崎が立っていた。
「……はい」
「処置室だ」
「はい」
短く答えて、橘に軽く会釈する。
「すぐ戻るね」
「はい、待ってます」
その言葉に、黒崎の視線が一瞬だけ動いた。
◇
処置室。
ドアが閉まる。
静かな空間。
「……何だ」
黒崎が先に口を開く。
「え?」
「さっきの」
「さっきの?」
「……新人だ」
少しだけ言葉が詰まる。
「……ああ、橘くんですか」
「……ああ」
「指導してただけですよ」
普通に答える。
でも。
「……距離が近い」
低く言われる。
「……え?」
「必要以上に」
視線が鋭い。
「……そうですか?」
「そうだ」
即答だった。
「……でも、あの子ああいうタイプで」
「関係ない」
ぴしゃりと切られる。
「業務上必要な距離を保て」
「……はい」
少しだけ戸惑う。
ここまで言われること、あっただろうか。
◇
そのまま処置が始まる。
指示はいつも通り。
正確で、無駄がない。
でも。
「……そこ」
「はい」
「違う」
「……すみません」
「集中しろ」
声が、少しだけ鋭い。
明らかに、いつもより厳しい。
「……はい」
思わず背筋が伸びる。
◇
処置が終わる。
道具を片付けながら、陽菜は小さく息を吐いた。
「……先生」
「何だ」
「今日、ちょっと厳しくないですか?」
思い切って聞いてみる。
「……通常だ」
「いつもより強い気がします」
「気のせいだ」
即答。
でも。
「……本当に?」
「……」
一瞬、沈黙。
そして。
「……気のせいだ」
繰り返す。
でも。
その声は、少しだけ低かった。
◇
ナースステーションに戻る。
「先輩!」
すぐに橘が近づいてくる。
「終わりました?」
「うん」
「さっきの続き、いいですか?」
「いいよ」
自然に返す。
でも。
「……」
背中に、また視線を感じる。
振り返らなくてもわかる。
◇
「先輩、ここって――」
説明している途中で。
「……白石」
「……っ」
また呼ばれる。
「はい」
「こっちだ」
「……はい」
橘に「ごめんね」と言って離れる。
◇
廊下。
二人きり。
「……先生?」
「……何だ」
「さっきから何回も呼びますよね」
「必要だからだ」
「……本当に?」
少しだけ、じっと見る。
黒崎は一瞬だけ言葉を止めた。
そして。
「……あいつは」
「え?」
「距離が近すぎる」
はっきりと言う。
「……橘くんのことですか?」
「……ああ」
「でも、あの子ああいう性格で」
「だからと言って許容する必要はない」
きっぱり。
「……」
少しだけ、胸がざわつく。
「……先生」
「何だ」
「もしかして」
一歩近づく。
「……気にしてます?」
「……何をだ」
「私と後輩の距離」
沈黙。
ほんの数秒。
でも、それが長く感じる。
「……」
「……先生?」
「……業務に支障が出ると言っている」
「それだけですか?」
「……」
もう一度、沈黙。
そして。
「……それ以上はない」
そう言った。
でも。
その答えは、どこか曖昧だった。
◇
「……そうですか」
小さく答える。
でも。
胸の奥に、ほんの少しだけ引っかかるものが残る。
◇
ナースステーションに戻る。
「先輩!」
また橘が笑う。
「さっきの続きいいですか?」
「うん」
自然に答える。
でも。
「……」
今度は、少しだけ距離を意識する。
ほんの少しだけ、離れる。
「……あれ?」
「え?」
「先輩、なんか距離取ってません?」
「……気のせい」
「えー、絶対そうですよ」
笑いながら、また近づいてくる。
そのとき。
「……」
視線。
やっぱり、感じる。
◇
黒崎は何も言わない。
ただ。
静かに見ている。
その視線が、少しずつ重くなっていく。
◇
このとき、まだ誰も気づいていなかった。
無意識の距離が。
何気ない会話が。
少しずつ、確実に――
関係を揺らし始めていることに。



