診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

復帰初日。

 白衣に袖を通した瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

「……戻ってきたんだな」

 ぽつりと呟く。

 久しぶりのナースステーション。
 変わらない空気。
 慌ただしく動くスタッフたち。

 それなのに、少しだけ景色が違って見えるのは――

「白石さん!」

「……っ」

 声をかけられて振り返る。

 中原が大きく手を振っていた。

「おかえりなさい!」
「ただいま戻りました」
「待ってましたよー!」

 そのまま軽く抱きつかれて、思わず笑ってしまう。

「すみません、いきなり」
「いいんです。嬉しいです」

 本当に、戻ってきたんだと実感する。

「赤ちゃん元気?」
「はい、元気すぎるくらいで」
「それは大変だ」

 周りからも次々と声をかけられる。

 温かい空気。

 少しだけ緊張していた気持ちが、ゆるんでいく。

     ◇

「白石」

「はい」

 聞き慣れた低い声。

 振り返ると、黒崎がいつもの位置に立っていた。

 白衣姿。
 変わらない、冷静な表情。

 でも。

「問題ないか」

 その一言が、少しだけ優しい。

「はい、大丈夫です」
「無理はするな」
「はい」

 短いやり取り。

 でも、それだけで安心する。

     ◇

「そうだ、紹介するね」

 佐伯が手招きする。

「今日からこのチームに入る新人くん」

「新人……?」

 振り向くと、そこにいたのは――

「はじめまして!」

 明るい声。

 少し軽めの雰囲気をまとった、背の高い男性。

「橘悠真(たちばな ゆうま)です。よろしくお願いします!」

 にこっと笑う。

 人懐っこい。

 一瞬でそうわかるタイプだった。

「白石陽菜です。よろしくお願いします」
「白石先輩ですね!聞いてます!」

「え?」

「めちゃくちゃ仕事できるって!」

「……それは言い過ぎです」
「いやいや、みんな言ってますよ?」

 距離が近い。

 会話のテンポも軽い。

 でも嫌な感じはない。

「復帰したばっかりなのに、いきなりすみません!」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」

 自然と会話が続く。

     ◇

「先輩、これどうやって記録します?」

「ここはこうして――」
「あーなるほど!」

 説明すると、素直に理解する。

「すごいですね、先輩」
「普通ですよ」
「いや、普通じゃないです」

 じっと見てくる。

「……近いです」
「え?」

 自覚なし。

「すみません!」

 少し離れる。

 でもすぐまた近くなる。

 無意識だ。

 こういうタイプ、いるなと思う。

「先輩って、教え方上手いですね」
「そうですか?」
「はい。すごい安心します」

 その言葉に、少しだけ照れる。

「ありがとうございます」

     ◇

「……」

 そのときだった。

 背中に、視線を感じる。

 はっきりと。

 重いくらいの。

「……先生?」

 振り返る。

 黒崎がこちらを見ていた。

 表情は変わらない。

 いつも通り。

 でも――

「……」

 ほんの少しだけ、目が鋭い。

「……何かありましたか?」

「いや」

 短い返答。

 でも、視線は外れない。

「業務に戻れ」
「はい」

 それだけ言って、背を向ける。

     ◇

「……今の、黒崎先生ですよね?」

 橘が小声で言う。

「はい」
「うわ、圧すごい……」

 苦笑する。

「でも、めっちゃかっこいいですね」
「……そうですね」

 少しだけ、複雑な気持ちになる。

「先輩、あの先生とよく組むんですか?」
「はい、まあ」
「いいなー」

「え?」
「絶対、成長できますよね」

 純粋な言葉。

 仕事として見ている。

 それが、少しだけほっとする。

     ◇

 でも。

 その日の業務中。

「先輩、これ持ちます」
「ありがとうございます」
「いや、当然なんで」

 自然にフォローしてくる。

「疲れてないですか?」
「大丈夫ですよ」
「無理しないでくださいね」

 優しい。

 素直。

 そして――

 距離が近い。

     ◇

「白石」

「はい」

 再び呼ばれる。

 黒崎だ。

「こっちに来い」
「はい」

 橘に軽く会釈して、そちらへ向かう。

「……何だ」

 低い声。

「え?」
「さっきから」

 一瞬、言葉が止まる。

「……距離が近い」

「……え?」

 思わず聞き返す。

「誰とですか」
「……」

 一瞬の沈黙。

 そして。

「新人だ」

「……橘くんですか?」

「……ああ」

 なぜか、少しだけ間があった。

「えっと、指導してただけで」
「……そうか」

 短い返事。

 でも。

「……必要以上に関わるな」

「え?」

 予想外の言葉だった。

「業務に支障が出る」

「……そんなことないです」

「ある」

 言い切られる。

 その目が、まっすぐこちらを見ている。

「……先生?」

 少しだけ違和感を覚える。

 この人、今――

「……何でもない」

 黒崎は視線を外した。

「業務に戻れ」

「……はい」

     ◇

 戻りながら、少しだけ考える。

 今の、何だったんだろう。

 ただの指導?

 それとも――

     ◇

「先輩!」

「はい」

「さっきの続き教えてもらっていいですか?」

 橘が笑う。

「いいですよ」
「ありがとうございます!」

 また、距離が近い。

 でも。

「……」

 ふと、さっきの視線を思い出す。

「……先輩?」

「え、あ、ごめん」
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」

 笑って答える。

 でも。

 胸の奥に、小さな違和感が残ったままだった。

     ◇

 その日の帰り。

「白石」

「はい」

 黒崎が並ぶ。

「……疲れていないか」
「大丈夫です」

 いつも通りの会話。

 でも。

「……新人はどうだ」

「橘くんですか?」
「……ああ」

「素直で、いい子ですよ」
「……そうか」

 それだけ。

 でも。

「……先生?」

「何だ」

「なんか、今日ちょっと変じゃないですか?」

 思い切って聞いてみる。

 黒崎は一瞬だけ黙った。

 そして。

「……気のせいだ」

 そう言った。

 でも。

 その声は、少しだけ低かった。

     ◇

 このとき、まだ気づいていなかった。

 これは――

 冷徹外科医の、

 はじめての“嫉妬”のはじまりだったことに。