診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

産声は、思っていたよりもずっと力強かった。

「――おぎゃあ、おぎゃあ!」

 その声が分娩室いっぱいに響いた瞬間、白石陽菜は張り詰めていたものがふっと緩んでいくのを感じた。

 終わった。

 無事に、生まれた。

「……っ、は……」

 長かった痛みと緊張が一気に押し寄せて、ぼんやりと霞んだ視界の向こうで助産師たちが慌ただしく動いている。

「元気な男の子ですよ」
「体重もしっかりありますね」
「お母さん、頑張りましたね」

 優しい声がいくつも重なる。

 陽菜は汗で額に張りついた髪の感触すら気にする余裕もなく、ただ浅く呼吸を繰り返した。

「……赤ちゃん……」

「今、きれいにしてお連れしますからね」

 助産師にそう言われて、小さく頷く。

 体はへとへとで、腕も脚も自分のものじゃないみたいに重かった。それでも胸の奥には、不思議な高揚感と安堵がじわじわと広がっている。

 本当に、この腕に抱けるんだ。

 自分たちの子どもを。

 そのときだった。

「白石さん、旦那さん入りますね」

 分娩室の扉が開く音がして、陽菜はゆっくりと顔を向けた。

 そこに立っていたのは、もちろん黒崎凌だった。

 普段と変わらない整った顔立ち。いつも通りきっちりとした身なり。けれど、その表情は陽菜の知っている“冷徹外科医”のものとは少し違っていた。

 どこか張り詰めていて、硬い。

 それなのに目だけが、ひどく熱を帯びている。

「……先生」

 つい昔の呼び方が出てしまって、陽菜は少しだけ笑う。

 凌はすぐにベッド脇まで来た。

「大丈夫か」

 低い声。

 けれど、その声はかすかに揺れていた。

「……たぶん、大丈夫です」

「たぶん、じゃない。痛みは」
「ありますけど……でも、平気です」

 そう答えると、凌は険しい顔のまま陽菜の額にかかった髪をそっと払った。

 その指先が、驚くほど優しい。

「……無茶をしたな」
「出産って、たぶん無茶しないと無理です」
「そういう意味じゃない」

 ぴしゃりと言われる。

 でも、怒っているわけではないのはすぐにわかった。

 陽菜は少しだけ目を細めた。

「……心配、しました?」
「当然だ」

 即答だった。

 あまりにも迷いがなくて、陽菜はふっと笑ってしまう。

「……よかった」

「何がだ」

「ちゃんと、心配してくれてるんだなって」

 そう言うと、凌はほんの一瞬だけ言葉を失ったように黙り込んだ。

 それから、深く息を吐く。

「……するに決まっている」

 低く抑えた声。

「お前のことだぞ」

 その一言に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 何年経っても、この人は変わらない。

 不器用で、言葉は少なくて、でも肝心なところでは絶対に逃げない。

「旦那さん、お子さん連れてきますね」

 助産師に声をかけられ、陽菜と凌は同時にそちらを向いた。

 小さな、小さな赤ちゃんだった。

 白いタオルに包まれて、目を閉じたまま小さく口を動かしている。さっきまで力強く泣いていたのに、今は少し落ち着いたようで、時々ふにゃっと眉を寄せるだけだ。

「……」

 陽菜は息を呑んだ。

 かわいい、とか、愛しい、とか、そういう言葉では足りない気がした。

 ただ、見た瞬間に涙が滲みそうになる。

「……この子が」

「はい。お母さんにもお父さんにもよく似てますよ」

 助産師が微笑む。

「抱っこ、されますか?」

 その問いに、凌がほんのわずかに固まった。

 陽菜は思わずそちらを見る。

「……凌さん?」

「……いや」

 珍しく、返事が遅い。

「……その前に、陽菜だ」

「え?」

「先に母親に抱かせろ」

 助産師は優しく頷いて、そっと赤ちゃんを陽菜の腕の中へ移してくれた。

 軽い。

 でも、確かに温かい。

「……っ」

 胸がいっぱいになって、言葉にならない。

 小さな鼻。小さな口。小さな手。全部が信じられないくらい愛おしい。

「……こんにちは」

 かすれた声でそう呟くと、赤ちゃんが少しだけ身じろぎをした。

「……私たちの子なんだね」

 ぽろりと涙がこぼれそうになる。

 その隣で、凌は黙ったまま赤ちゃんを見つめていた。

 表情は変わらないように見えるのに、その目には見たことがないほど深い感情が宿っている。

「……抱っこ、しますか?」

 陽菜がそっと尋ねると、凌は一瞬だけ目を伏せた。

「……落とさないか」
「落としません」

「絶対か」
「先生じゃあるまいし、そんな失敗しません」

 疲れているのに、つい笑ってしまう。

 助産師もくすりと笑って、「大丈夫ですよ、お父さん」と声をかけた。

 ようやく凌は静かに頷き、慎重すぎるくらい慎重な手つきで赤ちゃんを受け取った。

 その姿を見た瞬間、陽菜は思わず息を止めた。

 あの黒崎凌が。

 手術室では一切迷わずメスを握り、どんな緊急時にも冷静に対処する人が、今はたった一人の新生児を抱くことにこんなにも緊張している。

「……」

 腕の中の小さな命を見下ろす凌の横顔は、ひどく静かだった。

 けれどその静けさの奥に、どうしようもなく大きな感情があることがわかる。

「……ちいさいな」

 ぽつりと落ちた声は、驚くほど柔らかかった。

 陽菜は目を瞬く。

 こんな声、聞いたことがない。

「……そうですね」

「こんなに小さいのか」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 その指先が、赤ちゃんの頬に触れそうになって、でも途中で止まる。触れていいのか迷っているようなその仕草に、陽菜は胸の奥がきゅっと締めつけられた。

「……凌さん」

「何だ」

「すごく、緊張してます?」

 そう聞くと、凌はわずかに眉を寄せた。

「していない」
「してますよ」
「していない」

「してます」
「……している」

 最後は観念したようにそう言って、陽菜は思わず笑ってしまった。

「ふふ……」

「笑うな」
「だって、珍しいから」

 凌は何も言い返さなかった。

 ただ、もう一度腕の中の赤ちゃんを見つめる。

「……無事でよかった」

 その言葉が、誰に向けられたものなのかはわからなかった。

 赤ちゃんに対してかもしれないし、陽菜に対してかもしれない。たぶん、その両方だ。

「……うん」

 陽菜も小さく頷く。

「本当に、よかった」

 凌が赤ちゃんを助産師に返し、今度は空いた片手で陽菜の頬に触れた。

「……よくやった」

 低く、まっすぐな声。

 その一言で、堪えていたものが一気にこみ上げる。

「……っ」

「泣くな」

「……無理です」

 涙声で返すと、凌は困ったように、でもどこか優しい顔で陽菜の額にそっと唇を寄せた。

「……ありがとう」

 その言葉に、陽菜は目を見開く。

「……先生が?」

「今は夫だ」

 訂正されて、陽菜はまた少しだけ笑う。

「……じゃあ、凌さんが?」

「ああ」

 迷いなく頷く。

「お前が頑張ったから、会えた」

 赤ちゃんのことだとわかる。

「だから、ありがとう」

 胸がいっぱいになった。

 この人がこんなふうに感謝を言葉にするなんて、結婚した今でもそう多くはない。だからこそ、一つ一つが真っ直ぐに響く。

「……こちらこそ」

「何だ」

「一緒にいてくれて、ありがとうございました」

 そう言うと、凌は少しだけ目を細めた。

「最初から最後までいたのは当然だ」
「でも、ずっと怖そうな顔してましたよ」
「……当然だろう」

「外科医なのに?」
「外科医でも、夫は別だ」

 その言葉に、陽菜はまた泣きそうになる。

 この人は、ちゃんと夫なんだ。

 ちゃんと、父親になろうとしてる。

 そのことが、たまらなく嬉しかった。

「……これから大変ですね」

 赤ちゃんを見ながら陽菜が言うと、凌はほんの少しだけ間を置いてから答えた。

「構わない」

「夜泣きとか、寝不足とか、すごいらしいですよ」
「問題ない」
「育児書も読まないと」
「読む」
「おむつ替えも、沐浴も」
「覚える」

 あまりにも即答で、陽菜は目を丸くした。

「……本気ですね」
「当たり前だ」

 低い声。

「お前一人にやらせる気はない」

 その一言が、何よりも頼もしかった。

「……ありがとうございます」
「だから礼はいらない」

 昔と同じ言い方なのに、今は少し違って聞こえる。

 夫として。

 父親として。

 この人はもう、最初から家族なんだ。

「……名前、どうしましょうか」

 陽菜がそっと言うと、凌は少しだけ表情を和らげた。

「候補はいくつか考えている」
「えっ、もう?」
「遅いくらいだ」
「聞いてないです」
「言っていないからな」

「ずるいです」
「ずるくない」

 珍しく少しだけ会話が軽くなる。

 そのやり取りが可笑しくて、陽菜はくすりと笑った。

「……楽しみですね」
「ああ」

「これから、三人で」
「……ああ」

 凌の声は短い。

 でも、その短い一言の中にすべてが詰まっていた。

 三人で生きていく未来。

 泣いて、笑って、眠れない夜があって、きっと大変なこともたくさんある。それでも、この人となら乗り越えていけると思えた。

「……白石」
「もう白石じゃないです」
「……陽菜」

 名前を呼ばれて、胸が高鳴る。

「お前は少し休め」
「はい」
「俺が見ている」
「赤ちゃんを?」
「お前たちをだ」

 その言葉に、陽菜は目を細めた。

 やっぱり、この人らしい。

「……逃げられないですね、私」
「今さら何を言っている」

 即答されてしまう。

「最初から逃がすつもりはない」

 昔と変わらない強い声音。

 でも今は、それが何より心地よかった。

 陽菜は眠気と疲れで重くなり始めたまぶたをゆっくり閉じながら、最後にもう一度だけ小さな我が子の顔を見た。

 その隣で、不器用なほど真剣な顔で赤ちゃんを見守る凌の姿も。

 恋人になった日も。
 夫婦になった日も。
 そして今、親になったこの瞬間も。

 何度でも思う。

 この人を、好きになってよかったと。

 小さな泣き声とともに始まった新しい毎日は、きっと想像以上に慌ただしくて、幸せだ。