診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

翌朝。

 白石陽菜は、いつもより三十分早く病院に来ていた。

 ロッカーで制服に着替えながら、昨日の出来事を何度も思い返す。
 オペ室での失敗。黒崎凌の冷たい声。そして――最後に言われた言葉。

『辞めるな』

 あの一言がなければ、たぶん今日、ここには来られなかった。

「……よし」

 小さく自分に言い聞かせ、ナースステーションへ向かう。

 今日は、昨日よりちゃんと動く。
 ミスは減らす。確認は二回する。勝手に判断しない。

 やるべきことは、もうわかっている。

     ◇

「白石さん、今日の受け持ちは三人。さっそく回って」

 朝の申し送り後、真壁の声が飛ぶ。

「はい」

 陽菜はすぐにカルテを確認し、患者の部屋へ向かった。
 まだ慣れない足取りでも、昨日よりは少しだけ頭が整理されている気がする。

 最初の患者は術後二日目の男性。
 バイタルチェック、創部確認、痛みの有無。

「おはようございます。白石です」
「ああ、おはよう」

 穏やかな声に少しだけ肩の力が抜ける。
 丁寧に確認を進め、メモを取る。昨日のように慌てて抜けることはなかった。

 ――できてる。少しだけ。

 小さな手応えに、胸の奥がじんわり温かくなる。

 けれど、その安心は長く続かなかった。

「白石さん、急変対応入る。来て」

 ナースステーションに戻った瞬間、中原に呼ばれる。

「え、はいっ」

 慌てて処置室へ向かうと、そこにはすでに数人の医療スタッフが集まっていた。ベッドの上の患者は呼吸が荒く、モニターの数値も不安定だ。

「酸素飽和下がってる、準備急いで」
「はい!」

 空気が一気に緊迫する。

 陽菜は言われた通り器材の準備に入るが、頭の中が一瞬で真っ白になる。何を優先すべきか、どの順番で動くべきか、考えが追いつかない。

 ――落ち着いて。昨日のこと、思い出して。

 深呼吸をひとつ。
 言われたことを一つずつ確実に。

「白石さん、それ持って」
「はい!」

 指示通りに動こうとした、そのとき。

「違う、それじゃない」

 低い声が、背後から落ちた。

 心臓が跳ねる。

 振り返らなくてもわかる。
 この声は――

「黒崎先生、呼びました」
「状況は」
「呼吸状態悪化、血圧も低下しています」
「了解」

 すっと横に入ってきた黒崎凌が、患者の状態を一目で把握する。
 視線、動き、判断。すべてが速い。

「ライン確保。薬剤準備」
「はい」

 スタッフの動きが一斉に揃う。
 陽菜は固まったまま、持っていた器材を握りしめていた。

「白石」

 名前を呼ばれ、びくりと体が揺れる。

「それは不要だ。代わりに生理食塩水を用意しろ」
「は、はいっ!」

 指示が具体的で、迷いがない。
 その言葉に従うことで、ようやく体が動き出す。

 冷静に、正確に。
 黒崎の声が、場を支配していた。

「呼吸補助、もう少し強く」
「はい」
「まだ下がるな……よし、そのまま維持」

 短い指示の連続。
 誰も余計なことは言わない。ただ必要なことだけが交わされる。

 その中心にいる黒崎は、やはり圧倒的だった。

 怖い。
 けれど、頼もしい。

 昨日と同じ感情が、胸の中で混ざり合う。

 処置は数分で落ち着いた。
 患者の数値も徐々に安定し、場の緊張が少しだけ緩む。

「ひとまず大丈夫だな」
「はい」

 医師と看護師たちが小さく息を吐く。

 陽菜もようやく肩の力を抜いた、その瞬間だった。

「白石」

 また名前を呼ばれる。

「は、はいっ」

「さっきの行動、説明できるか」

 静かな問いだった。
 怒鳴られているわけではないのに、逃げ場がない。

「……指示を受けて、器材を取ろうとして……」
「何を根拠にそれを選んだ」
「……え……」

 言葉に詰まる。

 根拠なんて、なかった。
 ただ、近くにあったから。焦っていたから。

「判断基準がない状態で動くな」
「……はい」
「ここは、思いつきで動いていい場所じゃない」

 正論だった。
 わかっているのに、胸に突き刺さる。

「すみません」
「謝罪は不要だと言ったはずだ」

 淡々とした声。

 でも、その次に続いた言葉は、少しだけ違っていた。

「わからないなら、確認しろ」
「……はい」
「聞くことは恥じゃない。間違うほうが問題だ」
「…………」

 顔を上げると、黒崎の視線がまっすぐこちらを見ていた。

 冷たいだけじゃない。
 どこか、試すような目。

「次はどうする」
「……わからないときは、必ず確認します」
「それでいい」

 短く頷く。

 それだけで、少しだけ認められた気がした。

     ◇

 その後の業務も、陽菜は必死だった。

 昨日よりは動けている。
 でも、まだ足りない。判断が遅い。確認が不十分。

 何度も自分の中で反省しながら、ひとつずつ仕事をこなしていく。

 昼過ぎ。

 ようやく一息つけるタイミングで、陽菜はナースステーションの端に立ち、記録を見直していた。

「白石さん」

 真壁に呼ばれ、顔を上げる。

「午後、心臓外科の回診入るから、ついてきて」
「え、私がですか?」
「そう。ちょうどいいでしょ、昨日見学もしたし」

 心臓外科。
 つまり――

「黒崎先生の回診、見て覚えて」
「……はい」

 断れるはずもなく、陽菜は頷いた。

     ◇

 回診は、想像以上に速かった。

「状態は」
「安定しています」
「データは」
「こちらです」

 医師と看護師が次々に情報を共有し、黒崎が短く判断を下していく。迷いがない。無駄がない。

 その中で、陽菜はただ必死についていくしかなかった。

 ある病室で、黒崎の足が止まる。

「白石」

「は、はいっ」

 突然名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。

「この患者の注意点を言え」

 視線が突き刺さる。

 昨日、カルテで確認した内容。
 頭の中を必死に探る。

「えっと……術後で、感染リスクが高く……創部の観察と、発熱の有無……」
「それだけか」

「……血圧の変動にも注意して、早期離床を……」
「遅い」

 ぴしゃりと言われ、言葉が止まる。

 やっぱり、まだ全然足りない。

「覚えろ。ここは覚えた者から使える」
「……はい」

 落ち込みかけた、そのとき。

「だが」

 黒崎が一歩近づいた。

「昨日よりは、ましだ」

「……え?」

 思わず顔を上げる。

 黒崎の表情は相変わらず変わらない。
 けれど、その一言は確かに評価だった。

「無駄な動きが減っている」
「……ありがとうございます」

 胸がじんわり熱くなる。

 ほんの少しでも、前に進めている。

 それを、この人はちゃんと見ている。

「だが、まだ足りない」

「はい」

「お前は俺の患者に関わる」

「……え?」

 一瞬、意味が理解できなかった。

 黒崎は当然のように続ける。

「今日の急変対応も、回診も、見ただろう」
「はい……」
「なら覚えろ。次からは“見ているだけ”は許さない」

 低く、はっきりと。

「俺の患者を任せられる看護師になれ」

 その言葉に、息が止まる。

 重い。
 怖い。
 でも――逃げたくないと思った。

「……はい」

 今度は迷わず答えられた。

 黒崎はそれ以上何も言わず、次の病室へと向かう。

 その背中を見ながら、陽菜は胸の奥に強く残る感情を感じていた。

 厳しい。
 怖い。
 でも、この人の下でなら、ちゃんと成長できる気がする。

 そして――

 ほんの少しだけ。

 あの人に認められたいと思っている自分がいた。