診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

それは、あっという間に広まった。

「ねえ、聞いた?」
「もう完全にそうだよね」
「黒崎先生と白石さん」

 ナースステーションの空気が、どこか違う。

 ひそひそ声。
 ちらりと向けられる視線。

 ――バレてる。

 そう思った。

     ◇

「白石さん、大丈夫?」

 中原が小さく声をかけてくる。

「はい……」

 答えながらも、少しだけ落ち着かない。

 昨日までとは明らかに違う空気。

 でも。

 隠すつもりは、もうなかった。

     ◇

「白石」

「はい」

 呼ばれて振り返る。

 黒崎がいつものように立っている。

 でも、もう違う。

 この距離も、視線も、全部が。

 仕事中だから、何も変わらないように振る舞う。

 でも。

「これ、確認しろ」

「はい」

 資料を受け取るとき、ほんの一瞬だけ指が触れる。

 それだけで。

 心臓が、少しだけ跳ねる。

 黒崎の表情は変わらない。

 でも。

 ほんのわずかに、視線が柔らかい。

     ◇

 その日の午後。

 病院内の会議室で、医局関係者が集まる場があった。

 新しい医療体制の説明と、外部からの来賓対応。

 看護師も数名参加している。

 陽菜も、その一人だった。

「……緊張する」

 小さく呟く。

 普段と違う空気。

 そして。

「本日はお時間ありがとうございます」

 聞き覚えのある声。

 視線を上げる。

 そこにいたのは――

 西條美月だった。

 洗練された笑顔。
 堂々とした立ち振る舞い。

 場の空気が、一気に彼女中心になる。

 やっぱり、この人は違う。

     ◇

「では、次に」

 進行が進む。

「今後の体制について、黒崎先生からも一言」

 名前が呼ばれる。

 黒崎が立ち上がる。

 いつも通りの姿。

 でも。

 どこか、距離がある。

 あの夜とは違う顔。

 ――当然だ。

 ここは仕事の場。

 個人的な感情を出す場所じゃない。

     ◇

 説明が終わり、軽い歓談の時間になる。

 陽菜は隅のほうで静かに立っていた。

 こういう場は苦手だ。

 誰に話しかけていいのかもわからない。

「白石さん」

「……っ」

 声をかけられる。

 振り返ると、そこにいたのは西條美月だった。

「少しよろしいかしら」

「……はい」

 逃げられない。

 落ち着いた笑顔に、圧がある。

     ◇

「あなたが白石さんね」

「……はい」

「噂は聞いているわ」

 柔らかい声。

 でも、内容ははっきりしている。

「黒崎先生と、親しくしているって」

「……」

 どう答えればいいのかわからない。

 言葉を選んでいると。

「安心して」

 美月は微笑んだ。

「責めるつもりはないの」

「……え?」

「ただ、確認したいだけ」

 まっすぐな視線。

「あなた、本気なの?」

「……っ」

 言葉が詰まる。

「黒崎先生は」

 少しだけ間を置く。

「簡単な人じゃないわ」

「……はい」

「それでも、関わるつもり?」

 試されている。

 そう思った。

 でも。

「……はい」

 迷わず答える。

「中途半端な気持ちではありません」

 はっきりと。

 逃げない。

 もう決めたから。

「……そう」

 美月は少しだけ目を細めた。

「なら、いいわ」

「……え?」

「あなたの覚悟は伝わった」

 意外な言葉だった。

 でも。

「ただし」

 少しだけ表情が変わる。

「彼を甘く見ないことね」

「……」

「彼は、自分のすべてを簡単に差し出すような人じゃない」

 その言葉は、重かった。

「……はい」

 小さく頷く。

     ◇

「何を話している」

 低い声。

 振り返る。

 黒崎が立っていた。

 空気が一瞬で変わる。

「少しね」

 美月は変わらず落ち着いている。

「彼女と話していただけよ」

「必要ない」

 即答だった。

「……相変わらずね」

 美月は苦笑する。

「心配しなくても、奪ったりしないわ」

「……」

 黒崎は何も言わない。

 でも。

 一歩、陽菜の前に立つ。

 完全に、庇う位置。

「……先生」

 思わず名前を呼ぶ。

 黒崎は振り返らない。

「用が済んだなら戻れ」

 低い声。

 それは、美月に向けたものだった。

「……そうね」

 美月は軽く肩をすくめる。

「今日はこれで失礼するわ」

 そのまま去っていく。

     ◇

 静寂。

 残されたのは、二人だけ。

「……大丈夫か」

 振り返らずに言う。

「はい……」

 小さく答える。

「……何を言われた」

「……少し、話を」

 曖昧に答える。

「問題ないです」

「……そうか」

 短い返事。

 でも。

 その背中は、どこか張り詰めていた。

     ◇

「先生」

「何だ」

「……あの人、綺麗ですね」

 思わず口にする。

 素直な感想だった。

「……だから何だ」

「……お似合いだなって」

 その瞬間。

 空気が、変わった。

「……何を言っている」

 低い声。

 少しだけ、苛立ちが混じる。

「……だって」

「お前は」

 一歩、近づく。

「まだそんなことを言うのか」

「……え?」

 視線がぶつかる。

「……俺が誰を選ぶと思っている」

「……」

 答えられない。

 でも。

「……わからないです」

 正直に言う。

「ちゃんと聞いてないので」

 逃げない。

 もう、逃げない。

 黒崎は一瞬だけ黙った。

 そして。

「……お前だ」

 はっきりと。

 迷いなく。

「選ぶのは」

 その言葉に、息が止まる。

「……白石」

 名前を呼ばれる。

「……はい」

「俺は、お前以外に興味はない」

 強い言葉。

 でも。

 それは、宣言だった。

「……先生」

 胸が熱くなる。

「……でも、周りは」

「関係ない」

 即答だった。

「どう見られようと、どう言われようと」

 一歩、距離が縮まる。

「決めるのは俺だ」

 視線がまっすぐに刺さる。

「……それでも」

 小さく言う。

「大丈夫なんですか」

 立場も、環境も。

 全部違う。

 それでも。

「……問題ない」

 短く答える。

「必要なら、全部切る」

「……っ」

 言葉が重い。

 本気だとわかる。

「……だから」

 少しだけ声が低くなる。

「不安になるな」

 その一言で。

 全部がほどける。

「……はい」

 小さく頷く。

     ◇

 その瞬間。

 周囲の視線なんて、どうでもよくなった。

 この人は、逃げない。

 ちゃんと、選んでくれる。

 それがわかったから。

     ◇

 廊下に出る。

 並んで歩く。

 距離は近い。

 でも、もう迷わない。

「白石」

「はい」

「……さっきの話」

「はい」

「気にするな」

「……はい」

 少しだけ笑う。

 黒崎はその表情を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。

「……それでいい」

 ぽつりと呟く。

 その声は、どこか優しかった。