診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

距離を置くと決めてから、二日。

 白石陽菜は、自分でも驚くほど冷静に仕事をしていた。

 呼ばれても必要最低限だけ応じる。
 視線が合っても、すぐに逸らす。
 余計な会話はしない。

 ――これでいい。

 そう思い込むことで、なんとか保っていた。

     ◇

「白石さん、最近どうしたの?」

 佐伯が心配そうに覗き込む。

「え?」
「なんか急に距離置いてる感じじゃない? 黒崎先生と」

「……そんなことないです」

 即答する。

 でも、自分でもわかっていた。

 あからさまだ。

「まあ、いいけどさ」

 佐伯はそれ以上追及しなかった。

     ◇

 その日の午後。

 急変対応が入った。

「白石、こっちだ」

 黒崎の声。

「……はい」

 短く返事をする。

 それ以上は言わない。

 近づかない。

 必要なことだけ、正確に。

 それだけを意識する。

「ライン確保」
「はい」

 動く。

 考えない。

 感情を切る。

 それなのに。

「……遅い」

 低い声が落ちる。

「……申し訳ありません」

 反射的に謝る。

「謝罪は不要だ」

 いつもの言葉。

 でも。

「白石」

 名前を呼ばれる。

「……はい」

「こっちを見ろ」

「……」

 見ない。

 見たら、崩れそうだった。

「……見ろ」

 少しだけ強い声。

 でも、陽菜は動かなかった。

「……仕事に集中します」

 それだけ言う。

 空気が、一瞬で変わる。

「……そうか」

 低い声。

 それ以上は何も言われなかった。

     ◇

 処置は無事に終わった。

 患者も安定した。

 でも。

 胸の奥が、ずっとざわついていた。

     ◇

「白石」

 呼ばれる。

 まただ。

「……はい」

「少し来い」

「……」

 断るべきか、一瞬迷う。

 でも。

「……仕事ですか」

「違う」

 即答だった。

 それでも。

「……少しだけなら」

 そう答えてしまった。

     ◇

 連れて行かれたのは、誰もいない処置室。

 ドアが閉まる。

 静寂。

 逃げ場がない。

「……何だ」

 黒崎が低く言う。

「最近の態度は」

「……」

 答えない。

「距離を置くと言ったな」

「……はい」

「理由は」

「……」

 言ったはずだ。

 でも。

「……必要だからです」

 それだけ答える。

「何に対して」

「……自分に対して」

 少しだけ視線を上げる。

「このままだと、だめになると思ったので」

「……」

 黒崎は黙る。

「……ちゃんと、区別したいんです」

 仕事と、それ以外。

「曖昧なままは、嫌なので」

 はっきり言う。

 これで終わるはずだった。

 でも。

「……それで」

 黒崎が一歩近づく。

「納得しているのか」

「……」

 言葉に詰まる。

 納得なんて、していない。

 でも。

「……するしかないです」

 小さく言う。

 その瞬間だった。

「……ふざけるな」

 低く、押し殺した声。

 初めて聞くトーンだった。

「……え」

 次の瞬間。

 腕を強く掴まれる。

「……っ!」

 引き寄せられる。

 逃げられない距離。

「納得している顔には見えない」

 低い声。

 でも、その中に明確な感情があった。

「……先生」

「逃げるな」

 はっきりと。

 強く。

「俺から距離を取って、何が解決する」

「……」

「何も変わらない」

「……変わります」

 必死に言い返す。

「私の気持ちが変わります」

「変わらない」

 即答だった。

「……変わります!」

「変わらない」

 押し返される。

 視線がぶつかる。

「……お前は」

 低く、ゆっくりと。

「俺から逃げられない」

「……っ」

 息が詰まる。

「……そんなこと」

「ある」

 迷いなく言い切る。

「……どうして」

 思わず聞いてしまう。

 その答えを。

 聞くのが怖いのに。

「……」

 黒崎は一瞬だけ黙った。

 そして。

「……お前が必要だからだ」

 静かに。

 でも、はっきりと。

「……え」

 頭が、追いつかない。

「仕事じゃない」

 続ける。

「それ以上だ」

 心臓が、大きく跳ねる。

「……先生」

「お前がいないと、落ち着かない」

 そんな言葉、想像していなかった。

「……っ」

「視界にいないと、探している」

「……」

「他の男と話していると、気に障る」

 あのときのことだと、すぐにわかった。

「……」

「距離を置かれると、苛立つ」

 全部。

 全部、言葉にされる。

「……だから」

 黒崎が少しだけ息を吐く。

「離れるな」

 それは命令じゃなかった。

 初めて。

 願いに近かった。

「……それって」

 声が震える。

「どういう意味ですか」

 ちゃんと、聞きたかった。

 逃げないで。

 曖昧にしないで。

「……」

 黒崎は、もう目を逸らさなかった。

「……好きだ」

 はっきりと。

 迷いなく。

「お前が」

 心臓が、止まりそうになる。

「……だから、離すつもりはない」

 強い言葉。

 でも。

 その奥にあるのは、確かな感情だった。

「……先生」

 涙が滲む。

「……遅いです」

 小さく言う。

「……ああ」

 否定しない。

「わかっている」

 それでも。

「……それでも言う」

 一歩、距離が縮まる。

「逃がさない」

 そのまま。

 抱き寄せられる。

「……っ」

 強く。

 でも、優しく。

「……白石」

 耳元で、名前を呼ばれる。

「……はい」

「もう一度言う」

 低い声。

「好きだ」

 今度は、少しだけ柔らかく。

「……」

 もう、逃げられなかった。

「……私も」

 小さく言う。

「……好きです」

 その瞬間。

 抱きしめる力が、少しだけ強くなった。

「……遅い」

「……先生が遅いんです」

 少しだけ笑う。

 涙が混じる。

「……ああ」

 短く答える。

 でも。

 その声は、どこか安心していた。

「……だから」

 少しだけ顔が離れる。

 視線が合う。

「これからは、逃げるな」

「……はい」

 素直に頷く。

 次の瞬間。

 唇が、重なった。

 今度は。

 迷いなく。

 優しく。

 でも、確かに――

 想いを込めたキスだった。