診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

病院独特の匂いは、嫌いではない。
 消毒液の清潔な香りと、ひんやりと張り詰めた空気。ここには、人の命を守るために働く人たちの覚悟が満ちている――看護師を目指していた頃の私は、そんなふうに思っていた。


 でも、現実は少し違った。


「白石さん、ぼーっとしないで。次、点滴ルートの確認」
「は、はいっ」


 朝七時過ぎ。
 白石陽菜は慌てて返事をし、メモを握りしめた手に力を込めた。


 四月。大学病院に入職して、まだ三日目。
 新品だったナースシューズはすでに足に馴染み始めていたけれど、病棟のスピードにも、人間関係にも、仕事の流れにも、陽菜はまるでついていけていなかった。


 覚えることが多すぎる。
 患者の顔と名前、投薬内容、観察項目、処置の準備、記録の書き方、先輩看護師の癖、医師ごとの指示の出し方。


 頭の中は、ずっと渋滞していた。


「白石さん、さっき言ったこと復唱して」
「え、っと……十時に採血、九時半に抗生剤投与、そのあと……」
「そのあと?」
「……申し訳ありません」
「謝る前に覚えて。患者さんに関わることなんだから」


 プリセプターの先輩看護師、真壁は厳しい。
 けれど、それが当然だと陽菜もわかっている。ここは命を扱う場所だ。曖昧な返事も、うろ覚えも、許されるはずがない。


「すみません。もう一度確認します」
「そうして。あと、今日の午後、手術室見学入るって言ったよね? 心臓外科のオペ。遅れないで」
「はい」


 心臓外科。


 その言葉だけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 この大学病院の心臓外科には、ひときわ有名な医師がいる。
 若くして海外で実績を積み、帰国後は難症例を次々成功に導いている天才外科医。医療誌でも特集され、患者からの指名も多い。けれど、同時に“氷の外科医”とも呼ばれていた。


 黒崎凌。


 整った顔立ちに隙のない佇まい、冷徹な判断力。
 オペの成功率は群を抜いている一方で、妥協を許さず、スタッフへの要求も厳しい。新人が一番関わりたくない医師として、すでに病棟内で名前を聞いていた。


 できれば会いたくない。
 心の底からそう思ったのに、現実はだいたい逆を選ぶものだ。


     ◇


 午後一時。
 陽菜は手術室前の廊下で、貸与された見学用キャップをかぶりながら深呼吸した。


「そんなに緊張しなくていいよ。今日は器械出しじゃないし、見学メインだから」


 隣で笑ったのは、同じ病棟の先輩看護師・中原だった。真壁より少し年上で、柔らかい雰囲気の人だ。


「は、はい。でも心臓外科なんて初めてで……」
「大丈夫。邪魔しなければ怒鳴られないから」
「怒鳴られる前提なんですか……?」
「黒崎先生だからね」


 冗談めかした声に、余計に緊張が増した。


 オペ室に入ると、空気は想像以上に冷たく、張り詰めていた。
 機械音、足音、短く交わされる専門用語。誰もが無駄なく動いている。そこにいるだけで、自分が場違いな存在に思えた。


 患者はすでに麻酔がかかり、静かに横たわっている。術野の準備が進む中、陽菜は端に立ち、少しでも多くを吸収しようと目を凝らした。


「先生、入られます」


 誰かの声で、室内の空気が変わった。


 すっと背筋が伸びるような緊張。
 入口から現れた男を見て、陽菜は思わず息を呑んだ。


 長身。
 無駄のない歩き方。
 帽子とマスクで顔の下半分は隠れているのに、それでもわかるほど整った輪郭と鋭い目元。白衣ではなく手術着姿なのに、不思議と圧倒的な存在感があった。


 ――黒崎凌だ。


「バイタル」
「安定しています」
「画像」
「こちらです」


 低くよく通る声が、簡潔に飛ぶ。
 誰も無駄な言葉を返さない。必要な情報だけが正確に往復する。そのやり取りだけで、彼がこの場の中心なのだと理解できた。


 陽菜は呆然と見入ってしまう。


 怖いと聞いていた。
 近寄りがたい人だとも。


 けれど、実際に目の前にすると、それだけではなかった。
 冷たい。確かに冷たい。なのに目が離せない。洗練された刃物のような危うい美しさがあった。


「新人、見学なら視界に入らない位置に立て」


 唐突に声が飛んできて、陽菜は肩を跳ねさせた。


「え……」
「君だ。そこだと動線を塞ぐ」


 鋭い視線が、まっすぐ自分に向いているとわかった瞬間、心臓が嫌な音を立てた。


「も、申し訳ありません!」


 慌てて横に下がろうとした、そのときだった。


 足元のコードにシューズの先が引っかかる。
 体がぐらりと傾いた。


「あっ――」


 一瞬で血の気が引いた。
 転ぶ、と思った次の瞬間、強い力で腕を掴まれる。


 ぐい、と引き寄せられ、陽菜は倒れ込む寸前で体勢を戻した。


 目の前に、黒崎凌の顔があった。


 至近距離。
 息が止まりそうになる。マスク越しでもわかるほど、その目は冷えていた。


「何をしている」


 低く抑えた声なのに、叱責の重みで膝が震えた。


「す、すみません……っ」
「ここでの不注意は、自分だけの問題じゃない」
「……はい」
「わかっているなら、以後気をつけろ」


 掴まれた腕が離される。
 それだけのことなのに、触れられた場所が熱くなっていた。


 恥ずかしい。情けない。
 初対面で最悪すぎる。


 陽菜は唇を噛み、視線を落とした。見学に来ただけなのに、転びそうになるなんて。新人丸出しどころか、足手まといそのものだ。


 けれど黒崎は、それ以上陽菜に注意を向けることなく、すでに患者へと視線を戻していた。


「始める」


 その一言で、空気が切り替わる。


 オペが始まると、陽菜はさっきまでの自分の失態を忘れるほど、黒崎の手技に見入った。


 迷いがない。
 速いのに雑ではない。
 緊迫した場面ですら、彼の声は静かで、短く、的確だ。


「吸引」
「はい」
「視野良好。次」
「縫合糸」
「そこじゃない。深部、もう少し右だ」


 スタッフたちも必死に応じているが、黒崎だけがまるで別の次元にいるように見えた。全体を把握し、先を読み、少しの乱れも許さず、患者の命を繋ぎ止めている。


 怖い人だと思った。
 でも同時に、純粋にすごいとも思った。


 こんな医師が本当にいるんだ。


「白石さん、次のガーゼ取って」


 不意に中原に小声で言われ、陽菜ははっとした。


「はいっ」


 見学だけのつもりだったのに、近くに置かれていた滅菌外の補助物品を渡すくらいなら、と手を伸ばす。けれど焦ったせいで、確認が甘かった。


 手に取ったのは、指定されたサイズとは違うガーゼだった。


「違う、それじゃなくて――」


 中原が言い終える前に、黒崎の声が被さる。


「何を渡している」


 ぴたり、と室内の空気が止まった気がした。


 陽菜の手が固まる。


「すみません……!」
「必要物品の区別もつかないなら、勝手に動くな」
「……っ」
「善意で現場を乱されるのが一番困る」


 胸の奥がぐさりと痛んだ。


 間違っていない。
 全部、その通りだ。
 けれど、人前で言われた言葉は想像以上にきつく、陽菜の目の奥がじわりと熱くなる。


「黒崎先生、私が――」
「新人を庇う暇があるなら、自分の持ち場を見ろ」


 中原の言葉も、ぴしゃりと遮られた。


 陽菜は邪魔にならないよう一歩下がり、必死で涙をこらえた。
 泣くのは違う。怒られて泣くなんて、学生じゃない。ここは職場だ。患者の命がかかっている場所で、自分の感情に浸っていいはずがない。


 でも、悔しかった。


 わかっている。
 自分が未熟なのは。
 何もできない新人だということも。


 それでも、頑張ろうとしていた。迷惑をかけないように、少しでも役に立ちたくて、緊張しながら手を伸ばしたのだ。


 その“頑張り”すら否定された気がして、苦しかった。


 オペはその後、何事もなく進んだ。
 予定より早く終了し、患者は無事に集中治療室へと移送される。


 見学終了後、陽菜は誰より早くオペ室を出た。
 廊下に出た途端、張り詰めていたものが一気に緩み、壁際で深く息を吐く。


「はぁ……」


 だめだ。
 全然だめだった。


 足を引っ張った。
 注意されただけならまだしも、完全に役立たずだった。


「白石さん」


 後ろから中原が追いかけてくる。


「ごめんね、急に頼んじゃって」
「いえ……私が確認不足だったので」
「黒崎先生、ああいう言い方だからきつく感じるけど、悪気があるわけじゃないの」
「……はい」
「落ち込まないで。新人なら誰でも通る道だよ」
「ありがとうございます」


 無理やり笑ったつもりだったけれど、たぶんうまく笑えていなかった。中原は気づいていたようだが、それ以上は何も言わなかった。


 ナースステーションに戻っても、陽菜の気持ちは沈んだままだった。
 記録を見返しても頭に入らない。処置の準備でも動きが鈍る。真壁には「集中して」と一言だけ釘を刺された。


 そして勤務終了後。


 更衣室で着替えながら、陽菜はとうとう小さく息を漏らした。


「向いてないのかな……」


 口にした途端、情けなさで泣きたくなる。


 看護師になりたくて頑張ってきた。
 勉強も、実習も、国家試験も、乗り越えてきた。やっと立てたスタートラインなのに、たった数日で心が折れそうになっている。


 こんなんじゃ駄目だ。
 もっと強くならなきゃいけないのに。


 ロッカーを閉め、人気の少ない職員通用口へ向かう。
 外に出ると、夕方の風は少し冷たくて、火照った目元に気持ちよかった。


 俯いたまま歩いていた、そのときだった。


「白石陽菜」


 いきなり名前を呼ばれ、陽菜は反射的に顔を上げた。


 数歩先に立っていた人物を見て、息が止まる。


 黒崎凌。


 手術着ではなく、白衣を羽織った姿だった。
 すらりとした長身に、整いすぎた顔立ち。オペ室では半分隠れていた表情が露わになり、その冷ややかな美貌に陽菜は一瞬言葉を失う。


「く、黒崎先生……」
「帰るところか」
「は、はい」
「少し来い」


 有無を言わせない口調だった。


 どうして自分が呼び止められるのかまったくわからない。
 叱責の続きだろうか。今日のミスについて、さらに何か言われるのかもしれない。


 緊張で喉が渇く。
 けれど逆らえる雰囲気ではなく、陽菜は「はい」と答えるしかなかった。


 連れていかれたのは、外来棟と病棟の渡り廊下近くにある小さな面談室だった。黒崎はドアを閉めると、こちらを振り返る。


「座れ」
「失礼します……」


 陽菜は恐る恐る椅子に腰を下ろした。
 黒崎は机を挟んだ向かいではなく、少し斜め前に立ったまま、じっと陽菜を見下ろしている。


 逃げ場がない。


「今日のオペ見学で、君は二度ミスをした」
「……はい。申し訳ありません」
「謝罪は聞いていない。理解しているかを確認している」
「……理解しています」
「ならいい」


 あまりにも淡々とした言い方に、胸がまた痛んだ。
 叱られるのは当然だ。けれど、こうして改めて指摘されると、自分が本当にどうしようもない失敗をしたのだと突きつけられる。


「新人はミスをする」
「……え?」
「しないほうがおかしい」


 予想外の言葉に、陽菜は思わず顔を上げた。


 黒崎の表情は変わらない。
 冷たいほど整った顔に、感情らしいものはほとんど見えなかった。


「だが、同じミスを何度もする人間は現場に要らない」
「……はい」
「今日の件は覚えろ。動線、物品確認、勝手に判断しない。この三つだ」
「はい……」
「そして、落ち込むな」
「……え?」


 また、思考が止まる。


 黒崎は苛立ったように眉を寄せた。


「君は顔に出やすい。病棟でもずっと上の空だった」
「すみません……」
「だから謝るな。今言っているのは、そこじゃない」


 低い声にびくりと肩が揺れる。


「向いていないと思ったか?」
「……っ」


 図星だった。
 陽菜は返事ができず、唇を噛む。


「新人が一度怒られただけで辞めるなら、この病院の看護師は誰も残らない」
「辞めるなんて、そんな……」
「思っただろう」


 否定できなかった。
 更衣室で、たしかに口にしてしまったから。


「お前はまだ、何もやっていない」


 その声は冷たいままだったのに、不思議と胸の奥までまっすぐ届いた。


「できないことが多いのは当たり前だ。経験がないんだからな」
「……はい」
「だが、患者を見ていた。自分が怒られたあとも、最後まで目を逸らさなかった」
「……え……」


 見られていたのだ。
 叱られたあと、もう邪魔にならないよう息を殺しながら、それでもオペから目を離せなかった。あの時間を。


「見込みがない人間は、ああいう目をしない」
「……先生」
「辞めるな」


 短く、けれど強く言い切られる。


 陽菜は呆然と黒崎を見上げた。


「お前はまだ使いものにならない。だが、育てれば伸びる」
「…………」
「逃げるな。ここで覚えろ」


 厳しい言葉のはずなのに、不思議と残酷には聞こえなかった。
 むしろ、初めて真正面から“見てもらえた”気がして、胸が熱くなる。


「……どうして、そこまで」
「患者のためだ」
「え?」
「看護師の質は、患者の生存率と回復に直結する。使える看護師は一人でも多いほうがいい」


 あくまで合理的。
 夢も甘さもない答えだ。


 なのに、少しだけ拍子抜けしながらも、陽菜は救われていた。慰めではない。気休めでもない。この人なりの判断で、必要だと言ってくれている。


「泣くなよ」
「え……っ」


 指摘されて初めて、自分の目に涙が滲んでいることに気づいた。慌てて目元を押さえる。


「す、すみません……!」
「だから、謝るなと言っている」
「は、はい……っ」
「明日からはもっとましに動け」
「……はい」
「返事は一回でいい」


 少しだけ、黒崎の口元が動いた気がした。
 それが呆れなのか、わずかな苦笑なのかはわからない。

 でも、その一瞬で、氷のような印象がほんの少しだけ揺らいだ。

「行っていいぞ」
「あ、ありがとうございました」

 立ち上がり、深く頭を下げる。
 部屋を出る寸前、陽菜は一度だけ振り返った。

 黒崎凌は窓際に立ち、こちらではなく、夕暮れに染まる中庭を見ていた。その横顔は美しいほど静かで、けれどひどく孤独に見えた。

 どうして、そんな顔をするのだろう。

 気になった。
 ほんの一瞬だけ。

 けれど、その疑問が胸に残るより先に、陽菜の中には別の感情が広がっていた。

 悔しい。
 情けない。
 でも、もう少し頑張りたい。

 明日は今日よりましに動きたい。
 次は怒られるだけじゃなく、少しでも役に立ちたい。

 そして、いつか――あの人に認められたい。

 夕暮れの渡り廊下を歩きながら、陽菜はそっと拳を握った。

 最悪の出会いだった。
 もう二度と関わりたくないと思うくらい、怖くて、厳しくて、容赦のない男だった。

 それなのに。

 心のどこかで、あの低い声を思い出している自分がいる。

『辞めるな』

 たったそれだけの言葉が、どうしようもなく胸に残っていた。