君に届くのは、10分の1だけ

一年は、思っていたよりずっと早く過ぎた。

未来ノートは、
完成した絵の裏に差し込んだままだった。

毎日開くわけじゃない。
でも、ときどき律が取り出して、
「これ、まだ先だな」とか
「十九歳って意外とすぐかも」とか言うたび、
私はその白いページの先に
ちゃんと時間が続いている気がした。

律は美大を目指して、前よりもっと描くようになった。
学校へ来る日も増えたし、
一緒に帰れる日も、また普通になっていった。

病院へ行く日はあった。
定期検査は続いていたし、
そのたび私は少しだけ落ち着かなくなった。

でも、悪い話は来なかった。

「今回も大丈夫だった」

律がそう言って笑うたび、
私は息をついて、
大丈夫なんだと思おうとした。

本当に、大丈夫になっていくのかもしれない、と。

そう思いかけたころだった。

秋の終わりに近い、少し冷えた日の放課後。
私は美術室の前で、いつもより長く待っていた。

律はその日、午前で病院へ行くと言っていた。
終わったら連絡すると、朝に短く来ていた。

でも、夕方になっても何も来なかった。

私はスマホの画面を何度もつけては消す。
前にもこういうことはあった。
検査が長引いたり、帰りが遅くなったり。

でも今日は、妙に胸が落ち着かなかった。

廊下の向こうに律の姿が見えたのは、
空がもうだいぶ暗くなってからだった。

私はその瞬間、少しだけ安心した。
でも、すぐにその安心は消えた。

歩く速さが遅い。
顔色も、前より白い。

近づいてきた律は、無理に笑うみたいに少しだけ口元を動かした。

「待たせた」

その声が、いつもより低かった。

「……長かったね」

聞くと、律はうなずく。

「検査、増えた」

それだけだった。

私は何を聞けばいいのか分からなくなる。
結果はどうだったのか。
大丈夫だったのか。

聞きたいのに、聞くのが怖い。

律は美術室の前まで来ると、
そのまま扉の近くの壁に少しだけもたれた。

その動きが、前に見たものと重なって、
胸の奥が冷える。

「座る?」

私が言うと、律は少し笑った。

「大丈夫」

その返事が、あまり大丈夫に聞こえなかった。

私は鞄の肩ひもを握る。

「結果」

やっとそれだけ聞く。

律はしばらく黙ってから、前を向いたまま言った。

「あんまり、よくなかった」

その一言で、足元が少し遠くなる。

あんまり、よくなかった。

はっきり悪いと言われたわけじゃない。
でも、その曖昧さが前よりずっと怖かった。

「数値が、ちょっと落ちてるって」

律が続ける。

「まだすぐどうこうじゃないけど」
「前よりちゃんと見たほうがいいって」

私はうなずく。
うなずくことしかできなかった。

ちゃんと見たほうがいい。

その言葉は、前にも一度聞いた。
そしてその先に何があったか、私は知っている。

「そっか」

やっと出たのは、それだけだった。

律が小さく息を吐く。

「ごめん」

「なんで」

思ったより強い声が出た。
律が少しだけこっちを見る。

私は視線をそらして、もう少し小さく言い直す。

「謝らなくていい」

そのやりとりも、前にあった。
同じ言葉なのに、今は少しだけ違って重い。

その日は結局、美術室には入らなかった。

駅までの道を、ゆっくり歩く。
話は続かない。
でも、黙ったまま離れるのも嫌で、
私たちは同じ速さで並んでいた。

改札の前で律が言う。

「また連絡する」

私はうなずく。

「……うん」

また明日、とは言えなかった。

明日も会えるかもしれない。
でも、今日の結果を聞いたあとでは、
その一言を軽く言うことができなかった。

家に帰ってからも、
私はしばらく未来ノートのことを思い出していた。

十八歳。
十九歳。
二十歳。
二十三歳。

紙の上に書いた数字が、
急に遠く見える。

届くのかもしれない。
でも、届かないかもしれない。

そのあいだで、
私は何度もスマホを見た。

遅くなってから届いたのは、
たった一行だった。

今日はもう寝る

それだけ。

前なら、もう少し何か続いていた。
だるい、とか
ねむい、とか
そんな一言が余計についていた。

今日は、それもなかった。

私は少し迷ってから返す。

うん
おやすみ

送ってから、
本当はもっと何か言いたかったのだと気づく。

大丈夫、とか
会いたい、とか
一人で抱えないで、とか。

でも、どれも違う気がした。

次の週、律は学校を二日休んだ。

病院に行く日が増えたらしい、と
美術科の先生が小さく言っているのを聞いた。

私は聞こえないふりをした。
でも、耳だけが勝手にその言葉を拾ってしまう。

会える日は、前より少し減った。

来ても午後からだったり、
途中で帰ったりする。

美術室にいても、
前みたいに長くは立っていられない日が増えた。

「今日はここまで」

律が自分からそう言うことが増えた。

前なら、あと少し、と続けていたのに。

それが悪いことだとは思わない。
無理してほしくないとも、本当に思う。

でも、その「ここまで」が増えるたび、
何かが少しずつ削れていく気がした。

冬が近づくころには、
律からの連絡もまた短くなっていった。