君に届くのは、10分の1だけ

私は視線を落としたまま、
ペンを次の欄へ動かした。

「次、瀬川くん」

律はペンを受け取る。
少しだけ考えてから、
自分の欄の下に年齢を書いた。

18歳
美大合格

その字は迷いがなかった。

私はその文字を見る。
前からずっと見てきた未来が、
今、白いページの上にちゃんと乗った気がした。

律はその下に続ける。

22歳
卒業制作で大きい絵を描く

私はその一行を見て、少し笑う。

「大きいんだ」

「せっかくだから」

律も少し笑った。

それから、もう一つ。

23歳
小さくていいから個展を開く

そこまで書いてから、
律のペンが少し止まった。

私は横顔を見る。

律は少しだけ迷ったあと、
その下にゆっくり書いた。

柚希に「どう?」と聞く
たぶん「好き」って言われる

私は思わず顔を上げる。

「なに、それ」

言うと、律が少し笑う。

「未来」

「勝手」

「だって言うだろ」

私はすぐには返せなかった。
たぶん、言う。
本当に好きだったら、ちゃんと好きと言うと思う。

でもそれを今認めるのは、少し恥ずかしかった。

「……たぶん」

やっとそう答えると、
律がうれしそうに目を細めた。

最後に、二人の欄が残る。

そこがいちばん難しかった。

一緒にしたいことはたくさんある。
でも、たくさんありすぎて、
最初の一行が決まらない。

しばらく黙っていたあと、
私が言う。

「川沿い」

律がこっちを見る。

「なに」

「また、歩きたい」

あの告白をした道。
手が触れた道。
いちばん最初の好きが形になった場所。

律は少しだけ黙ってから、うなずいた。

「うん」

それから、二人の欄の上に
律が小さく年齢を書く。

17歳
川沿いの道をまた歩く
同じ場所で、今度はちゃんとゆっくり

私はその下の20歳の横に書く。

遠くへ行く
朝から夜まで一緒にいる

その一行を見た瞬間、
胸の奥が静かにあたたかくなった。

少し前まで、
「また」はひどく遠い言葉だった。
でも今は、こうして文字にできる。

律がページを眺めながら言う。

「なんか、思ったより普通だな」

私は少し笑う。

「普通がいい」

本当にそう思った。

劇的なことじゃなくていい。
特別な奇跡じゃなくていい。

学校へ行って、
絵を描いて、
見せてもらって、
どこかへ行って、
帰り道を歩いて。

そういうことのほうが、
私にはずっと大事だった。

律も同じことを思ったのか、
小さくうなずいた。

「俺も」

ページをめくる。

まだ、白いページが何枚も続いていた。

でも、二十三歳を過ぎたあたりで、
私たちは自然と手を止める。

書けないわけじゃない。
ただ、今はそこまででいい気がした。

その先も、あるのかもしれない。
でも、それはまだ決めなくていい。

「ここから先は」

律が小さく言う。

「これから、かな」

私はうなずく。

「うん」

それで十分だった。

全部を決めなくてもいい。
今は、ここまで一緒に見られればいい。

律がノートを閉じる。
ぱたん、と小さな音がする。

その音のあと、
教室の中に少しだけ静かな余韻が残った。

未来を、紙の上に書いた。

それだけのことなのに、
自分たちの時間が少しだけ本物になった気がした。

私は閉じたノートを指先でなぞる。
少し迷ってから、それを持って立ち上がった。

律がキャンバスのほうへ向かおうとして、
途中で振り返る。

「どうしたの」

私は答えずに、完成した絵の裏へ手を伸ばす。
キャンバスと壁のあいだに少しだけ隙間があった。

そこへ、黒いノートをそっと差し込む。

律がそれを見て、少しだけ首をかしげた。

「そこに置くの?」

私はうなずく。

「うん。ここがいい」

理由は自分でもうまく説明できなかった。
誰かに見つからないように、というだけでもない。

絵の近くがよかった。
あのノートも、この絵も、
二人で未来を置いたものだからだと思った。

律はしばらく私を見ていたけれど、
それ以上は何も聞かなかった。

「そっか」

それだけ言って、またキャンバスのほうを見る。

私は少しだけ息をつく。

この場所は、たぶん私たちしか知らない。
そう思うと、胸の奥が静かにあたたかくなった。

律がふいに立ち上がる。

「ちょっと待って」

そう言って、キャンバスの前へ行く。

私は椅子に座ったまま、その背中を見る。

律はしばらく絵を見ていた。
少し離れて、
また近づいて、
筆を持つ。

私は息をひそめる。

教室の空気が、少しだけ変わる。

最後だ、と思った。
理由は分からないのに、そう思った。

律が、ひとつだけ色を足す。
それから、少しだけ間を置いて、
もう一度、細く光を入れた。

筆が止まる。

長い沈黙。

私は立ち上がって、ゆっくり近づく。

「……完成した?」

小さく聞くと、
律はキャンバスを見たままうなずいた。

「うん」

その一言が、
胸の奥に静かに落ちた。

完成した。

ずっと途中だった絵が、
今、終わった。

私は律の隣に立つ。

川沿いの道。
夕方の光。
静かな水面。
その全部が、前よりずっと澄んで見えた。

前に感じた、そこにいたくなる感じはそのままだった。
でも今は、それだけじゃない。

ちゃんと、誰かと歩いてきた景色だった。
失いかけて、
それでも戻ってきた時間が、
絵の中に静かに入っている気がした。

私はしばらく、何も言えなかった。

律も、何も言わなかった。

それで十分だった。

言葉にすると、少し壊れそうな気がしたからだ。

放課後の美術室は静かだった。
窓の外の光が少しずつやわらいでいく。

完成した絵と、
裏にノートを隠したキャンバスが、
同じ教室の中にあった。

未来を書いたあとで、
絵が完成した。

その順番が、どうしようもなくきれいだと思った。

私はやっと、小さく息を吐く。

「……好き」

それだけ言うと、
律が少しだけ笑った。

「どっち」

私は絵を見たまま答える。

「たぶん、両方」

律は何も言わなかった。
でも、隣にいる気配が少しだけやわらかくなった。

私たちはそのまま、しばらく絵を見ていた。

何も言わなくていい時間だった。