冬の屋上。
白い息。
冷たいフェンス。
それから、温かい手。
あの日のことが、一瞬で体の奥から戻ってくる。
「……瀬川、くん」
名前を呼ぶだけで、喉が少し震えた。
律は少しだけ目を細めた。
「やっぱり水瀬だ」
その言い方が、あまりにも自然だった。
私はすぐに言葉が出なかった。
あの日、律は言っていたから。
卒業したら、県立北浜高校に行く。
美術科があるんだ、と。
私はそれを、ずっと覚えていた。
「……久しぶり」
やっとそれだけ言うと、律はうなずいた。
「久しぶり」
本当は、その言葉だけじゃ全然足りなかった。
ありがとう、って言いたかった。
本当は、最初に言わなきゃいけないのに。
でも、言えなかった。
ありがとう、の四文字が、喉の奥で引っかかる。
言ってしまったら、あの日の自分のことも、
律に助けられたことも、
全部をちゃんと認めることになる気がした。
それが、少し怖かった。
「同じ高校だったんだな」
律がそう言う。
「……うん」
「俺、美術科」
「あの日、言ってた」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
でも律は、ただ少し笑っただけだった。
「そっか」
それだけだった。
重くしない。
探らない。
でも、軽くもしない。
あの日もそうだった。
何があったのか無理に聞かなかった。
説教もしなかった。
かわいそうなものを見る目もしなかった。
ただ、自分の未来の話をした。
卒業したら終わるから、と言った。
その言葉だけで、私はあそこから降りた。
「昼、それだけ?」
律が私の手元を見る。
「うん」
「足りる?」
「……たぶん」
「たぶんって」
少し笑う。
私は、この人の前だと少しだけ呼吸がしやすい。
うまく笑えなくても、黙ってしまっても、
それで嫌な顔をされる気がしない。
「水瀬、普通科?」
「そう」
「クラス何組?」
「三組」
「近いな。俺、美術科の棟だから、ちょっと離れてるけど」
会話はそれだけなのに、
ひとつひとつが、思っていたよりずっと胸に残った。
「……あの」
気づいたら、声が出ていた。
律がこっちを見る。
「なに」
今だと思った。
ありがとう、って言うなら今しかない。
でも。
口を開いたまま、何も続かなかった。
喉がつまる。
心臓だけがうるさい。
ありがとう。
たったそれだけなのに、出てこない。
言ってしまったら、泣いてしまいそうだった。
「……なんでもない」
やっと出たのは、それだった。
最低だ、と思った。
律は少しだけ首をかしげたけど、
それ以上は聞かなかった。
「そっか」
その言い方が、やさしかった。
午後の授業が始まるまで、少しだけ話した。
通学にどれくらいかかるか。
美術科は課題が多いこと。
校舎が少し離れていること。
本当に、何でもない話だった。
でも私には、その何でもない時間が特別だった。
チャイムが鳴る。
「あ、やば」
律が廊下の向こうを見る。
「先生来るわ」
それから、私のほうを見た。
「またな」
私は小さくうなずいた。
「……うん。また」
律は軽く手を上げて、そのまま行ってしまった。
私はしばらく、その背中を見ていた。
見えなくなってからも、すぐには動けなかった。
放課後、駅までの道を歩きながらも、ずっと律のことを考えていた。
同じ高校だったこと。
私の名前を覚えていたこと。
何でもないみたいに話しかけてくれたこと。
それから、ありがとうが言えなかったこと。
家に帰って、制服を脱いで、ベッドに座る。
静かな部屋で、一人になると、
昼のことばかり思い出した。
律の声。
笑い方。
「やっぱり水瀬だ」と言ったときの顔。
でも、私には違った。
あの日から先の時間は、全部、律の言葉の続きだった。
春まで、生きてみようと思った。
その春が来て。
私は今日、ここにいた。
律と同じ高校で、
律にまた名前を呼ばれて、
それでもまだ、ありがとうを言えなかった。
でも。
また会えた。
それだけで、今日は十分だった。
明日も学校に行く。
また名前を呼ばれる。
もしかしたら、また律に会える。
そんな小さな未来を考えられることが、少しだけうれしかった。
ベッドに横になる。
目を閉じると、最初に浮かぶのは冬の屋上じゃなかった。
今日、律に名前を呼ばれた瞬間だった。
私は毛布を胸まで引き上げる。
春は、ちゃんと来ていた。


