律は少し息をつく。
「なんでって」
「俺のために水瀬の時間が減るんだろ」
「この前だって、十年」
そこで言葉が切れる。
律もたぶん、その数字の重さをまだ飲み込めていない。
「これ以上は嫌だ」
私はその言葉を聞きながら、
胸の奥で別の痛みが広がるのを感じていた。
守ろうとしてくれているのは分かる。
その優しさも、痛いくらい分かる。
でも。
私はこのまま引いたら、
また自分の気持ちを置いていくことになると思った。
たぶん今までなら、
ここで「なんでもない」と言ってしまっていた。
やっぱりやめる、と笑って、
別の話にしていた。
でも、今日はそれをしたくなかった。
「……揃えなかったら」
そこまで言って、声が止まる。
律が少しだけ眉を寄せる。
「なに」
私は唇を噛む。
でも、もう止まれなかった。
「律が死んだあと」
喉が少しだけ痛い。
「私、一人で生きるんだよ」
言った瞬間、
美術室の空気が変わった気がした。
泣いてはいなかった。
でも、自分でも分かるくらい、
声がいつもと違っていた。
隠していたものが、そのまま出てしまった声だった。
律は何も言わなかった。
私は続ける。
「守りたいって言ってくれるの、うれしい」
「ほんとにうれしい」
「でも、それって」
そこで一度だけ息がつまる。
「律がいなくなったあとを、私一人にするってことでもある」
律の顔が、わずかに揺れた。
私はそのまま言葉を押し出す。
「私、それは嫌だ」
「瀬川くんがいなくなってから、何十年も一人で生きるの」
「そんなの、嫌」
そこまで言ってから、
胸の奥でずっと抱えていたものが
少しだけ形を持った気がした。
これが、私の怖さだった。
律を失うこと。
そのあとも、自分だけが長く残ること。
それを、私はずっと言えなかった。
自己犠牲みたいに見えるほうが、まだましだった。
本当は、自分が残されるのが怖いのだと
認めるのが少し怖かったからだ。
でも、もう隠せなかった。
私は小さく息を吸う。
「計算した」
感情を言ったあとで、
その言葉はひどく乾いて聞こえた。
「何回もノートに書いて」
「何回も消して」
「二十三歳で、揃う」
律が黙る。
私は視線を落としたまま続ける。
「今の残りと」
「この前の一年と」
「もし次に来たとき、同じように渡したら」
言いながら、
これを頭の中で何度も繰り返してきた時間が
自分の中にあるのを感じた。
感情だけで言っているんじゃない。
泣きついているだけでもない。
ずっと考えてきた。
ずっと怖かった。
そのうえで、今ここに立っていた。
律は長いあいだ何も言わなかった。
教室の外で、誰かの足音がして、
でもすぐに遠ざかっていく。
窓の外の光が、少しずつやわらかくなる。
その静けさの中で、
私は初めて、自分が少し震えていることに気づいた。
言い切ったあとで、遅れて怖くなってきた。
律に重いと思われるかもしれない。
困らせるだけかもしれない。
それでも、言ってよかったのかどうかはまだ分からなかった。
やがて、律が小さく息を吐いた。
「……そうか」
その声は低くて、静かだった。
私は顔を上げる。
律はキャンバスのほうを見ていた。
でも、何も見えていないみたいな顔をしていた。
たぶん、今まで考えていなかったものを
初めてちゃんと見ている顔だった。
守りたい。
その言葉の裏に、
私を残す未来があること。
自分だけが先にいなくなることを、
私に引き受けさせる形になること。
律は、たぶん今、
それに気づいているんだと思った。
長い沈黙が落ちる。
私は待った。
何も足さなかった。
もう言うべきことは言ったと思ったし、
ここから先は、律が自分で考えるしかないと思った。
やがて、律が私を見る。
目の奥に、さっきまでとは違う種類の痛みがあった。
それから、ひどく小さな声で言う。
「……分かった」
それだけだった。
説明もしない。
条件もつけない。
ただ、その二文字だけが
美術室の静かな空気の中に落ちた。
私は少しだけ息を吐く。
「うん」
返せたのは、それだけだった。
泣かなかった。
律も泣かなかった。
でも、何かが少しだけ変わったのは分かった。
前みたいに、
ただ戻ってきた日常を喜ぶだけではいられない。
その先まで、二人で見ることを選んだのだと思った。
律はゆっくりキャンバスのほうを向く。
私はその隣に立ったまま、絵を見る。
川沿いの道は、前より少しだけ光を持っていた。
まだ完成していない。
でも、ちゃんと続いていく景色だった。
教室は静かだった。
時計の音と、遠くの運動部の声だけが小さく届く。
その静けさの中で、
私たちはもう何も言わなかった。
言葉は終わっていた。
でも、終わったあとの沈黙は
前より少しだけ深かった。
私はその沈黙の中で、
二十三歳、という数字をもう一度だけ思い浮かべる。
遠いようで、近い。
怖いようで、少しだけあたたかい。
それはまだ、未来と呼ぶには不安定だった。
でも、さっきよりは少しだけ形があった。
帰り道、
律はいつもより少し静かだった。
私も、無理に話さなかった。
改札の前で立ち止まる。
少しだけ間があってから、
律が言う。
「また明日」
その声は、前より少しだけ深かった。
私はうなずく。
「……うん。また明日」
また明日。
その言葉の先に、
今までより少しだけ長い時間を
初めて重ねられた気がした。
「なんでって」
「俺のために水瀬の時間が減るんだろ」
「この前だって、十年」
そこで言葉が切れる。
律もたぶん、その数字の重さをまだ飲み込めていない。
「これ以上は嫌だ」
私はその言葉を聞きながら、
胸の奥で別の痛みが広がるのを感じていた。
守ろうとしてくれているのは分かる。
その優しさも、痛いくらい分かる。
でも。
私はこのまま引いたら、
また自分の気持ちを置いていくことになると思った。
たぶん今までなら、
ここで「なんでもない」と言ってしまっていた。
やっぱりやめる、と笑って、
別の話にしていた。
でも、今日はそれをしたくなかった。
「……揃えなかったら」
そこまで言って、声が止まる。
律が少しだけ眉を寄せる。
「なに」
私は唇を噛む。
でも、もう止まれなかった。
「律が死んだあと」
喉が少しだけ痛い。
「私、一人で生きるんだよ」
言った瞬間、
美術室の空気が変わった気がした。
泣いてはいなかった。
でも、自分でも分かるくらい、
声がいつもと違っていた。
隠していたものが、そのまま出てしまった声だった。
律は何も言わなかった。
私は続ける。
「守りたいって言ってくれるの、うれしい」
「ほんとにうれしい」
「でも、それって」
そこで一度だけ息がつまる。
「律がいなくなったあとを、私一人にするってことでもある」
律の顔が、わずかに揺れた。
私はそのまま言葉を押し出す。
「私、それは嫌だ」
「瀬川くんがいなくなってから、何十年も一人で生きるの」
「そんなの、嫌」
そこまで言ってから、
胸の奥でずっと抱えていたものが
少しだけ形を持った気がした。
これが、私の怖さだった。
律を失うこと。
そのあとも、自分だけが長く残ること。
それを、私はずっと言えなかった。
自己犠牲みたいに見えるほうが、まだましだった。
本当は、自分が残されるのが怖いのだと
認めるのが少し怖かったからだ。
でも、もう隠せなかった。
私は小さく息を吸う。
「計算した」
感情を言ったあとで、
その言葉はひどく乾いて聞こえた。
「何回もノートに書いて」
「何回も消して」
「二十三歳で、揃う」
律が黙る。
私は視線を落としたまま続ける。
「今の残りと」
「この前の一年と」
「もし次に来たとき、同じように渡したら」
言いながら、
これを頭の中で何度も繰り返してきた時間が
自分の中にあるのを感じた。
感情だけで言っているんじゃない。
泣きついているだけでもない。
ずっと考えてきた。
ずっと怖かった。
そのうえで、今ここに立っていた。
律は長いあいだ何も言わなかった。
教室の外で、誰かの足音がして、
でもすぐに遠ざかっていく。
窓の外の光が、少しずつやわらかくなる。
その静けさの中で、
私は初めて、自分が少し震えていることに気づいた。
言い切ったあとで、遅れて怖くなってきた。
律に重いと思われるかもしれない。
困らせるだけかもしれない。
それでも、言ってよかったのかどうかはまだ分からなかった。
やがて、律が小さく息を吐いた。
「……そうか」
その声は低くて、静かだった。
私は顔を上げる。
律はキャンバスのほうを見ていた。
でも、何も見えていないみたいな顔をしていた。
たぶん、今まで考えていなかったものを
初めてちゃんと見ている顔だった。
守りたい。
その言葉の裏に、
私を残す未来があること。
自分だけが先にいなくなることを、
私に引き受けさせる形になること。
律は、たぶん今、
それに気づいているんだと思った。
長い沈黙が落ちる。
私は待った。
何も足さなかった。
もう言うべきことは言ったと思ったし、
ここから先は、律が自分で考えるしかないと思った。
やがて、律が私を見る。
目の奥に、さっきまでとは違う種類の痛みがあった。
それから、ひどく小さな声で言う。
「……分かった」
それだけだった。
説明もしない。
条件もつけない。
ただ、その二文字だけが
美術室の静かな空気の中に落ちた。
私は少しだけ息を吐く。
「うん」
返せたのは、それだけだった。
泣かなかった。
律も泣かなかった。
でも、何かが少しだけ変わったのは分かった。
前みたいに、
ただ戻ってきた日常を喜ぶだけではいられない。
その先まで、二人で見ることを選んだのだと思った。
律はゆっくりキャンバスのほうを向く。
私はその隣に立ったまま、絵を見る。
川沿いの道は、前より少しだけ光を持っていた。
まだ完成していない。
でも、ちゃんと続いていく景色だった。
教室は静かだった。
時計の音と、遠くの運動部の声だけが小さく届く。
その静けさの中で、
私たちはもう何も言わなかった。
言葉は終わっていた。
でも、終わったあとの沈黙は
前より少しだけ深かった。
私はその沈黙の中で、
二十三歳、という数字をもう一度だけ思い浮かべる。
遠いようで、近い。
怖いようで、少しだけあたたかい。
それはまだ、未来と呼ぶには不安定だった。
でも、さっきよりは少しだけ形があった。
帰り道、
律はいつもより少し静かだった。
私も、無理に話さなかった。
改札の前で立ち止まる。
少しだけ間があってから、
律が言う。
「また明日」
その声は、前より少しだけ深かった。
私はうなずく。
「……うん。また明日」
また明日。
その言葉の先に、
今までより少しだけ長い時間を
初めて重ねられた気がした。


