君に届くのは、10分の1だけ

律はキャンバスの前で小さく息をつく。

「まだ途中だな」

その言い方に、
私は少しだけ笑いそうになる。

前からずっとそうだった。
何度見ても、律はこの絵を途中だと言う。

「……うん」

「でも、前より近い気はする」

私は絵を見る。

川沿いの道。
夕方の光。
静かな水面。

前よりもずっと、そこに時間があるように見えた。
誰かを待っている景色じゃない。
ちゃんと、この先へ続いていく景色だった。

「前より」

私は言葉を探す。

「ちゃんと戻ってこれる感じがする」

律がこちらを見る。

私は絵を見たまま続ける。

「遠くなる感じじゃなくて」
「一回離れても、またそこに来られるみたいな」

言いながら、自分でもそれが絵の感想なのか、
今の私たちのことなのか分からなくなった。

でも律は笑わなかった。

「そっか」

小さく言う。

「それ、ちょっとうれしい」

私は少しだけ息をつく。

「ほんとに思ったから」

「うん」

律はキャンバスを見る。

「俺も、もう少し描けそう」

その一言が、
胸の奥に静かに落ちた。

描けそう。

それは、前なら何でもない言葉だった。
でも今は、未来の話だった。

私はキャンバスの横に立って、
しばらく一緒に絵を見た。

話さなくても、落ち着いた。
前にもそういう時間はあった。
でも今日は、ただ静かなだけじゃない。

なくなるかもしれないと知ったあとで、
まだここにある静けさだった。

それが、ひどくきれいだった。

帰り道、私たちは前よりゆっくり歩いた。

駅までの道は、変わっていない。
部活帰りの声。
自転車の音。
コンビニの明かり。

全部、ずっと前からそこにあったものだ。

でも今日は、
そのどれもが少しだけ新しく見えた。

律が言う。

「学校って、普通に疲れるな」

私は少し笑った。

「それはそう」

「でも、ちょっと楽しかった」

その言葉に、胸がやわらかくなる。

「私も」

返すと、律は少しだけこっちを見る。

「水瀬、今日ずっと変な顔してた」

「え」

「泣きそうなの我慢してるみたいな」

私はすぐに視線をそらした。

たぶん、ばれていた。
朝からずっと、何度もそうだったから。

「……だって」

そこまで言って、言葉が止まる。

律は急かさずに待っていた。

「また、学校で会えたから」

やっとそれだけ言う。

恥ずかしいと思ったけれど、
それ以上ごまかしたくなかった。

律は少し黙ってから、小さく笑った。

「俺も、ちょっと思った」

その返事だけで、
今日一日の重さが少しやわらぐ気がした。

改札の前で立ち止まる。

前なら、ここで「またな」とか「また明日」とか、
もっと軽く言えていた。

今は、その一言の重さを知ってしまっている。

だから、少しだけ沈黙が落ちる。

でもそのあと、律が言った。

「また明日」

その声は静かだった。
でも、ちゃんと前を向いていた。

私は胸の奥がきゅっとなるのを感じる。

また明日。

前にも何度も聞いたはずの言葉なのに、
今日はまるで違った。

明日が来ること。
会えるつもりで別れられること。
それが、こんなにすごいことだったなんて知らなかった。

私はうなずく。

「……うん。また明日」

ちゃんと口にできた。

それだけで、少しだけ世界が戻った気がした。

律は改札の向こうへ行く。
その背中を見送ってから、私も歩き出す。

家に帰る電車の中で、
私は何度も今日のことを思い出した。

昇降口の前にいた律。
渡り廊下の「いた」。
美術室の、止まっていた絵の前の横顔。
それから、改札前の「また明日」。

どれも前から知っているはずのものだった。

でも、失うかもしれないと知ったあとでは、
全部が少しずつ形を変えていた。

前より重い。
前よりきれい。
前より、こわい。

そして、それでもうれしかった。

夜、スマホが震える。

今日は少し疲れた
でも学校行けてよかった

その短い文を見ただけで、胸があたたかくなる。

私はすぐに返す。

私もよかった
無理しないでね
また明日

送ってから、最後の四文字をもう一度見る。

また明日。

前は、ただの別れ際の言葉だった。
でも今は違う。

願いみたいで、
約束みたいで、
それだけで少しだけ泣きそうになる言葉だった。

すぐに返信が来る。

うん
また明日

その文字を見て、
私はスマホを胸の上に置いた。

明日が来る。
律がいて、
学校へ行って、
たぶんまた少し話せる。

そんな当たり前が、
こんなにもきれいで、こわれやすいものだったなんて
前の私は知らなかった。

毛布を胸まで引き上げる。

目を閉じると、
浮かぶのは病室じゃなかった。

今日、昇降口で「おはよ」と言った律の顔だった。

私は静かに息を吐く。

また明日が言えることを、
今夜はちゃんと幸せだと思った。