律が学校に戻ってきたのは、退院してから一週間後だった。
朝、昇降口の前でその姿を見つけた瞬間、
私は立ち止まった。
制服を着て、
鞄を肩にかけて、
いつものような顔で立っている。
それだけのことなのに、胸の奥が強く鳴る。
「……瀬川くん」
呼ぶと、律が振り向いた。
「おはよ」
その声を聞いた瞬間、
少しだけ泣きそうになった。
病院で見る顔じゃない。
ベッドの上でも、白いシーツの中でもない。
学校にいる律だった。
「おはよう」
なんとかそれだけ返す。
近くで見ると、まだ少し痩せていた。
顔色も前みたいに完全には戻っていない。
でも、ちゃんとここにいる。
その事実だけで、朝の空気が少し違って見えた。
「午前だけだけど」
律が言う。
「先生たちが、最初は無理すんなって」
「うん」
私はうなずく。
無理しないで、という言葉は飲み込んだ。
もう何度も言ってきたし、
たぶん今の律も、自分で分かっていると思ったからだ。
「でも、来れてよかった」
律が小さく笑う。
その笑い方は少しだけ弱かったけれど、
ちゃんと律の笑い方だった。
私はそれを見て、
やっと少し呼吸がしやすくなる。
「……私も、よかった」
言うと、律は少しだけ目を細めた。
それ以上は何も言わない。
でも、その沈黙は前みたいに気まずくなかった。
私たちは同じ校舎へ歩き出す。
前なら当たり前だった距離が、
今はひどく大事なものみたいに思えた。
授業中も、私は何度か窓の外を見た。
美術科棟はここから見えない。
律が今どこにいるのか、分かるわけでもない。
それでも、
学校の中のどこかに律がいる、と思うだけで
胸の奥が少し落ち着いた。
昼休み、私は渡り廊下へ向かった。
前はそこで律を待つことが多かった。
でも今日は、待つというより確かめに行く感じに近かった。
本当に来たんだ。
本当に学校に戻ってきたんだ。
そんなことを、自分の目で何度も確認したかった。
しばらくして、律がゆっくり歩いてくる。
「いた」
その一言に、胸がやわらかくなる。
「いた」
私も同じ言葉を返すと、律が少し笑った。
「なにそれ」
「……ほんとにいるんだなって」
言ったあと、少し恥ずかしくなる。
でも律は笑わなかった。
「いるよ」
ただ、それだけ言う。
その言い方がやさしくて、
また少しだけ泣きそうになった。
私たちは渡り廊下の手すりの近くに並んで立つ。
冬ほどじゃないけれど、空気は少し冷たかった。
「教室、変わってなかった?」
律が聞く。
「変わってない」
「そっか」
本当に何でもない話だった。
提出物のこと。
先生のこと。
クラスの子が言っていたこと。
でも、その何でもなさがうれしかった。
病気の話でも、
悪魔の話でもない。
ただ、今日学校に来て、昼休みに少し話しているだけ。
前には気づかなかったけれど、
それは奇跡みたいなことだった。
「午後も出るの」
私が聞くと、律は首を振った。
「今日は午前だけ」
「でも、少しずつ増やすって」
少しずつ。
その言葉に、私は小さくうなずく。
前なら、それでは足りないと思ったかもしれない。
でも今は、少しずつで十分だった。
ゼロじゃないことのほうが、ずっと大きい。
昼休みが終わる前、
律がふいに言った。
「また来る」
私は一瞬、返事に詰まる。
前なら何でもなかった言葉なのに、
今はそれだけで胸がきゅっとなる。
また、がある。
それが、こんなにうれしい。
「……うん」
小さく答えると、律は軽く手を上げて行ってしまった。
その背中を見送りながら、
私はしばらく動けなかった。
放課後、美術科棟の前で立ち止まる。
今日はもう帰ったかもしれないと思った。
午前だけだと言っていたし、
無理をしてほしくないとも思う。
でも、足が自然とここまで来ていた。
扉の向こうから、小さく物音がした。
私はそっと中をのぞく。
律がいた。
美術室の奥、
あのキャンバスの前に立っている。
ほんの少し離れた場所からでも分かった。
手にはまだ筆を持っていない。
ただ、絵を見ていた。
私は扉の前で止まる。
律が気づいて、こちらを見る。
「水瀬」
その呼び方に、胸の奥が熱くなる。
「……来てたんだ」
「少しだけ」
律はキャンバスのほうを見てから言う。
「見たくなって」
私はうなずく。
分かる、と思った。
この絵は、止まったままだった時間そのものみたいだったから。
私はゆっくり中に入る。
前と同じ絵の具のにおい。
少し冷えた空気。
窓際の机。
全部同じなのに、
戻ってきたあとで見ると少しだけ違って見えた。
失いかけたものを、
もう一度触り直している感じがした。
朝、昇降口の前でその姿を見つけた瞬間、
私は立ち止まった。
制服を着て、
鞄を肩にかけて、
いつものような顔で立っている。
それだけのことなのに、胸の奥が強く鳴る。
「……瀬川くん」
呼ぶと、律が振り向いた。
「おはよ」
その声を聞いた瞬間、
少しだけ泣きそうになった。
病院で見る顔じゃない。
ベッドの上でも、白いシーツの中でもない。
学校にいる律だった。
「おはよう」
なんとかそれだけ返す。
近くで見ると、まだ少し痩せていた。
顔色も前みたいに完全には戻っていない。
でも、ちゃんとここにいる。
その事実だけで、朝の空気が少し違って見えた。
「午前だけだけど」
律が言う。
「先生たちが、最初は無理すんなって」
「うん」
私はうなずく。
無理しないで、という言葉は飲み込んだ。
もう何度も言ってきたし、
たぶん今の律も、自分で分かっていると思ったからだ。
「でも、来れてよかった」
律が小さく笑う。
その笑い方は少しだけ弱かったけれど、
ちゃんと律の笑い方だった。
私はそれを見て、
やっと少し呼吸がしやすくなる。
「……私も、よかった」
言うと、律は少しだけ目を細めた。
それ以上は何も言わない。
でも、その沈黙は前みたいに気まずくなかった。
私たちは同じ校舎へ歩き出す。
前なら当たり前だった距離が、
今はひどく大事なものみたいに思えた。
授業中も、私は何度か窓の外を見た。
美術科棟はここから見えない。
律が今どこにいるのか、分かるわけでもない。
それでも、
学校の中のどこかに律がいる、と思うだけで
胸の奥が少し落ち着いた。
昼休み、私は渡り廊下へ向かった。
前はそこで律を待つことが多かった。
でも今日は、待つというより確かめに行く感じに近かった。
本当に来たんだ。
本当に学校に戻ってきたんだ。
そんなことを、自分の目で何度も確認したかった。
しばらくして、律がゆっくり歩いてくる。
「いた」
その一言に、胸がやわらかくなる。
「いた」
私も同じ言葉を返すと、律が少し笑った。
「なにそれ」
「……ほんとにいるんだなって」
言ったあと、少し恥ずかしくなる。
でも律は笑わなかった。
「いるよ」
ただ、それだけ言う。
その言い方がやさしくて、
また少しだけ泣きそうになった。
私たちは渡り廊下の手すりの近くに並んで立つ。
冬ほどじゃないけれど、空気は少し冷たかった。
「教室、変わってなかった?」
律が聞く。
「変わってない」
「そっか」
本当に何でもない話だった。
提出物のこと。
先生のこと。
クラスの子が言っていたこと。
でも、その何でもなさがうれしかった。
病気の話でも、
悪魔の話でもない。
ただ、今日学校に来て、昼休みに少し話しているだけ。
前には気づかなかったけれど、
それは奇跡みたいなことだった。
「午後も出るの」
私が聞くと、律は首を振った。
「今日は午前だけ」
「でも、少しずつ増やすって」
少しずつ。
その言葉に、私は小さくうなずく。
前なら、それでは足りないと思ったかもしれない。
でも今は、少しずつで十分だった。
ゼロじゃないことのほうが、ずっと大きい。
昼休みが終わる前、
律がふいに言った。
「また来る」
私は一瞬、返事に詰まる。
前なら何でもなかった言葉なのに、
今はそれだけで胸がきゅっとなる。
また、がある。
それが、こんなにうれしい。
「……うん」
小さく答えると、律は軽く手を上げて行ってしまった。
その背中を見送りながら、
私はしばらく動けなかった。
放課後、美術科棟の前で立ち止まる。
今日はもう帰ったかもしれないと思った。
午前だけだと言っていたし、
無理をしてほしくないとも思う。
でも、足が自然とここまで来ていた。
扉の向こうから、小さく物音がした。
私はそっと中をのぞく。
律がいた。
美術室の奥、
あのキャンバスの前に立っている。
ほんの少し離れた場所からでも分かった。
手にはまだ筆を持っていない。
ただ、絵を見ていた。
私は扉の前で止まる。
律が気づいて、こちらを見る。
「水瀬」
その呼び方に、胸の奥が熱くなる。
「……来てたんだ」
「少しだけ」
律はキャンバスのほうを見てから言う。
「見たくなって」
私はうなずく。
分かる、と思った。
この絵は、止まったままだった時間そのものみたいだったから。
私はゆっくり中に入る。
前と同じ絵の具のにおい。
少し冷えた空気。
窓際の机。
全部同じなのに、
戻ってきたあとで見ると少しだけ違って見えた。
失いかけたものを、
もう一度触り直している感じがした。


