君に届くのは、10分の1だけ

そこまで言っても、
律は笑わなかった。
夢の話だと片づける顔も、しなかった。

私は続ける。

「寿命を渡せるって言われた」
「私の寿命を削って、瀬川くんに足せるって」
「十年で、一年」

病室の空気が静かに固まる。

律の喉が、一度だけ動いた。

「……それで」

低い声だった。

「水瀬は、どうしたの」

私は唇を噛む。

「十年、渡すって言った」

言った瞬間、
律の目が揺れた。

そこにあったのは、怒りより先に痛みだった。

「取引成立って、言われた」
「夢のはずなのに」
「でも、今日……」

最後まで言い切れなくなる。

今日の回復が、その夢の続きみたいだったからだ。

律はしばらく何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。

やがて、小さく息を吐く。

「……それで、これか」

その一言で、
胸の奥が強く鳴った。

律は前を向く。

「昨日、一ヶ月って言われたのに」
「次の日に、見立てが完全に崩れるとか」
「そんなの、普通じゃない」

私はうなずく。

普通じゃない。

先生たちの顔も、
言葉も、
全部がそう言っていた。

律は膝の上で手を組み直す。

「夢の話なんて、ほんとは信じたくない」

小さく言う。

「でも」
「今日のこれ見たら、信じるしかない」

私は顔を上げる。

律もこっちを見た。

その目にあったのは、疑いじゃなかった。
怖さと、確信だった。

「悪魔ってやつ、本当にいたんだな」

私は何も言えず、
ただ小さくうなずいた。

私も、同じだった。

昨日までは、まだどこかで夢だと思いたかった。
でも今日、先生の言葉を聞いて、
数値がひっくり返るのを見て、
もう逃げられなくなった。

悪魔は、本物だった。

そして、その本物が、
私たちの時間に手を入れた。

私がそう言うと、
律は目を閉じた。

長い沈黙が落ちる。

機械の小さな音だけが、やけに遠く聞こえた。

やがて律が言う。

「ほんとに」

かすれた声だった。

「ほんとに、そんなことしたの」

私はうなずく。

「……一ヶ月で終わるの、嫌だったから」

声が震える。

「嫌に決まってる」
「絵も途中だったし」
「その先だってあるのに」
「何もしないでなくなるの、無理だった」

律は顔を上げる。

「だからって」

その一言は強くなかった。
強くなれないくらい、傷ついていた。

「だからって、十年は駄目だろ」

私は何も言えない。

律は続ける。

「今、助かったのはうれしい」
「ほんとにうれしいよ」
「でも、これが水瀬の十年でできてるなら、全然うれしいだけじゃない」

その言葉が胸に刺さる。

私はずっと、
律が助かればそれでいいと思っていた。
嫌がられても、怒られても、
生きてくれるならそれでいいと思っていた。

でも、実際に本人の口から言われると、
思っていたよりずっと苦しかった。

「……じゃあ、どうすればよかったの」

気づいたら、そう言っていた。

「あのまま何もしないで」
「一ヶ月って言われたまま、見てるだけなんて」

喉がつまる。

「私には無理だった」

律はすぐに答えなかった。

しばらくして、低く息を吐く。

「分かるよ」

その声で、逆に泣きそうになる。

「分かるけど」
「それでも、俺のために水瀬の人生削るのは嫌だ」

私はうつむく。

律は膝の上で手を握ったまま、言った。

「だって、悪魔ってことは」
「これ、一回じゃ終わらない気がする」

その言葉に、私ははっとする。

悪魔の最後の声がよみがえる。

あなたは、きっとまた私を呼ぶ。

律も、そこまで見えているんだと思った。

「また来るかもしれない」

律が言う。

「そのときも水瀬が一人で決めるの、無理」

私はしばらく黙った。

うれしさと、怖さと、後ろめたさが、
全部混ざっていた。

でも、ひとつだけ分かったことがある。

今日の回復で、
悪魔が本物だと分かってしまった以上、
もう夢みたいな話では済まない。

次があるなら、
次は二人で向き合うしかない。

私はゆっくり息を吸う。

「……次に来たら」

律がこっちを見る。

「そのときは、ちゃんと話す」

私は続ける。

「ひとりで決めない」
「勝手に渡したりしない」

律はすぐには何も言わなかった。
でも、その沈黙はさっきまでと少し違った。

考えている沈黙だった。

やがて、小さく言う。

「絶対」

私はうなずく。

「絶対」

律は目を伏せる。
それから、ひどく疲れたみたいに笑った。

「ほんと、意味わかんないな」

前にも聞いた言葉だった。
でも今は、一ヶ月の宣告に対してじゃない。
奇跡みたいに戻ってきた時間と、
その裏にある代償のことを言っている。

「……うん」

私も小さく答える。

意味なんて分からなかった。
でも、律はここにいる。

それだけは、もう疑いようがなかった。

数日後、律は退院した。

先生は最後まで首をかしげていた。
「こんな経過は見たことがない」と、
カルテを閉じながら小さくこぼしていた。

病院の外へ出た律は、まだ少し細かったけれど、
自分の足で歩いていた。

その姿を見るたび、
私は助かってよかったと思う。

同時に、
奇跡ではなく取引だったのだということも、
何度でも思い知らされた。