次の日の朝、病室に入った瞬間、
私は足を止めた。
律が、ベッドの上に座っていた。
昨日までみたいに、背中を預けてやっと起きている感じじゃない。
ちゃんと体を起こして、窓の外を見ていた。
私に気づくと、律が振り向く。
「おはよ」
その声が、昨日よりずっとはっきりしていた。
私はすぐに返事ができなかった。
顔色が違う。
青白さが、薄い。
目の下の影も、昨日ほど濃くない。
たった一日で、そんなに変わるはずがない。
「……どうしたの」
やっと出たのは、それだった。
律は少し困ったみたいに笑う。
「それ、俺も聞きたい」
私は鞄を抱えたまま、ベッドの横まで行く。
近くで見ても、やっぱり違った。
もちろん元気そのものじゃない。
でも、昨日までそこにあった、終わりに向かって落ちていく感じが薄れている。
「朝から先生が何回も来てる」
律が言う。
「数値、おかしいくらい上がってるって」
おかしいくらい。
その言い方で、胸の奥が強く鳴った。
私は膝のあたりで手を握る。
昨日の夢が、急に現実へ寄ってくる。
十年。
一年。
取引成立。
そんなの、信じたくない。
でも、目の前の律のほうが、もっと信じられなかった。
「熱も下がってるらしいし」
「朝、普通に起きられた」
律は自分の手を見る。
「なんか、昨日までの体じゃないみたい」
その言葉に、私は息を止めた。
昨日までの体じゃない。
それは、あまりにもそのままだった。
しばらくして、看護師さんが来た。
血圧を測って、熱を測って、
記録を見てから首をかしげる。
「ほんとに、昨日と全然違いますね」
軽い驚きじゃなかった。
本気で不思議がっている声だった。
「先生にもすぐ伝えます」
病室を出ていく足音が、少し早い。
私はその背中を見ながら、
うれしいのに、寒いみたいな気持ちになっていた。
昼前には、検査がいくつも入った。
採血。
画像。
心電図。
先生たちの動きが、昨日までと違った。
慎重というより、混乱している感じに近い。
私が廊下で待っているあいだも、
低い声が何度も行き交った。
「この数値は」
「昨日のデータと合わない」
「機械の誤差じゃ……」
「いや、それでも説明が」
扉の向こうから、途切れ途切れに聞こえる。
そのどれもが、
私の胸の奥に沈んでいった。
やっぱり、おかしいんだと思った。
ただ良くなったんじゃない。
誰が見ても不自然なくらい、急に変わってしまったんだ。
午後、担当の先生が律のご両親を呼んだ。
私もその場にいていいのか迷ったけれど、
律が「いて」と小さく言ったので、そのまま病室の隅に残った。
先生はいつもよりずっと疲れた顔をしていた。
でも、それ以上に、戸惑っている顔だった。
「……率直に言います」
そう前置きして、検査結果の紙を置く。
「改善しています」
律のお母さんが口元を押さえる。
お父さんは紙と先生の顔を何度も見た。
でも先生は、そこで止まらなかった。
「改善、という表現でも足りないかもしれません」
病室がしんとする。
「昨日の時点で見られた異常が、急激に引いています」
「進行の速さから考えて、こんな変化は通常ありません」
「正直に言って、私たちも説明がついていません」
説明がついていません。
その言葉が、ひどく重かった。
うれしい、じゃ足りない。
ただの希望でもない。
これは、誰が見ても異常な回復なんだ。
先生は紙を指で押さえながら続ける。
「昨日は一ヶ月前後とお伝えしました」
「ですが、現時点でその見立ては完全に崩れています」
完全に崩れています。
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
一ヶ月が、消えた。
「もちろん経過観察は必要です」
「ただ、この状態なら、少なくとも今すぐ命に関わるという段階ではありません」
律のお母さんが泣き出した。
今度は、こらえきれないみたいだった。
お父さんも顔を伏せる。
律は、先生の言葉を聞きながら、
何も言わなかった。
ただ、膝の上の手だけが少し強く握られていた。
私はその手を見て、
律も分かっているのだと思った。
これは、ただの運の良さじゃない。
先生が出ていったあとも、
病室には誰もしばらく言葉を置けなかった。
泣いているお母さんの肩をお父さんがさする。
律はその二人を見て、小さく目を伏せた。
私は胸の奥がいっぱいになって、
でも泣けなかった。
うれしさより先に、
昨日の夢の輪郭がどんどんはっきりしていくからだ。
悪魔は、本物だった。
その事実が、助かったことと同じくらい、
いや、それ以上に怖かった。
その日の夕方、面会時間が終わるころ、
律が小さく言った。
「水瀬、ちょっと残って」
ご両親が気をきかせて先に病室を出る。
扉が閉まると、部屋は急に静かになった。
律はベッドの上で、しばらく前を向いていた。
私は椅子に座ったまま、待つ。
私は何度か息を吸って、
それから、先に口を開いた。
「……私、話したいことがある」
律がこっちを見る。
その目に、もう少しもごまかせないと思った。
「昨日」
「瀬川くんの横で、少し寝ちゃったとき」
喉が少しつまる。
「夢、見た」
律は黙ったまま、続きを待っていた。
私は膝の上で手を握る。
「病室に、黒い服のひとがいた」
「人じゃない感じの」
「自分で、悪魔って言ってた」
私は足を止めた。
律が、ベッドの上に座っていた。
昨日までみたいに、背中を預けてやっと起きている感じじゃない。
ちゃんと体を起こして、窓の外を見ていた。
私に気づくと、律が振り向く。
「おはよ」
その声が、昨日よりずっとはっきりしていた。
私はすぐに返事ができなかった。
顔色が違う。
青白さが、薄い。
目の下の影も、昨日ほど濃くない。
たった一日で、そんなに変わるはずがない。
「……どうしたの」
やっと出たのは、それだった。
律は少し困ったみたいに笑う。
「それ、俺も聞きたい」
私は鞄を抱えたまま、ベッドの横まで行く。
近くで見ても、やっぱり違った。
もちろん元気そのものじゃない。
でも、昨日までそこにあった、終わりに向かって落ちていく感じが薄れている。
「朝から先生が何回も来てる」
律が言う。
「数値、おかしいくらい上がってるって」
おかしいくらい。
その言い方で、胸の奥が強く鳴った。
私は膝のあたりで手を握る。
昨日の夢が、急に現実へ寄ってくる。
十年。
一年。
取引成立。
そんなの、信じたくない。
でも、目の前の律のほうが、もっと信じられなかった。
「熱も下がってるらしいし」
「朝、普通に起きられた」
律は自分の手を見る。
「なんか、昨日までの体じゃないみたい」
その言葉に、私は息を止めた。
昨日までの体じゃない。
それは、あまりにもそのままだった。
しばらくして、看護師さんが来た。
血圧を測って、熱を測って、
記録を見てから首をかしげる。
「ほんとに、昨日と全然違いますね」
軽い驚きじゃなかった。
本気で不思議がっている声だった。
「先生にもすぐ伝えます」
病室を出ていく足音が、少し早い。
私はその背中を見ながら、
うれしいのに、寒いみたいな気持ちになっていた。
昼前には、検査がいくつも入った。
採血。
画像。
心電図。
先生たちの動きが、昨日までと違った。
慎重というより、混乱している感じに近い。
私が廊下で待っているあいだも、
低い声が何度も行き交った。
「この数値は」
「昨日のデータと合わない」
「機械の誤差じゃ……」
「いや、それでも説明が」
扉の向こうから、途切れ途切れに聞こえる。
そのどれもが、
私の胸の奥に沈んでいった。
やっぱり、おかしいんだと思った。
ただ良くなったんじゃない。
誰が見ても不自然なくらい、急に変わってしまったんだ。
午後、担当の先生が律のご両親を呼んだ。
私もその場にいていいのか迷ったけれど、
律が「いて」と小さく言ったので、そのまま病室の隅に残った。
先生はいつもよりずっと疲れた顔をしていた。
でも、それ以上に、戸惑っている顔だった。
「……率直に言います」
そう前置きして、検査結果の紙を置く。
「改善しています」
律のお母さんが口元を押さえる。
お父さんは紙と先生の顔を何度も見た。
でも先生は、そこで止まらなかった。
「改善、という表現でも足りないかもしれません」
病室がしんとする。
「昨日の時点で見られた異常が、急激に引いています」
「進行の速さから考えて、こんな変化は通常ありません」
「正直に言って、私たちも説明がついていません」
説明がついていません。
その言葉が、ひどく重かった。
うれしい、じゃ足りない。
ただの希望でもない。
これは、誰が見ても異常な回復なんだ。
先生は紙を指で押さえながら続ける。
「昨日は一ヶ月前後とお伝えしました」
「ですが、現時点でその見立ては完全に崩れています」
完全に崩れています。
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
一ヶ月が、消えた。
「もちろん経過観察は必要です」
「ただ、この状態なら、少なくとも今すぐ命に関わるという段階ではありません」
律のお母さんが泣き出した。
今度は、こらえきれないみたいだった。
お父さんも顔を伏せる。
律は、先生の言葉を聞きながら、
何も言わなかった。
ただ、膝の上の手だけが少し強く握られていた。
私はその手を見て、
律も分かっているのだと思った。
これは、ただの運の良さじゃない。
先生が出ていったあとも、
病室には誰もしばらく言葉を置けなかった。
泣いているお母さんの肩をお父さんがさする。
律はその二人を見て、小さく目を伏せた。
私は胸の奥がいっぱいになって、
でも泣けなかった。
うれしさより先に、
昨日の夢の輪郭がどんどんはっきりしていくからだ。
悪魔は、本物だった。
その事実が、助かったことと同じくらい、
いや、それ以上に怖かった。
その日の夕方、面会時間が終わるころ、
律が小さく言った。
「水瀬、ちょっと残って」
ご両親が気をきかせて先に病室を出る。
扉が閉まると、部屋は急に静かになった。
律はベッドの上で、しばらく前を向いていた。
私は椅子に座ったまま、待つ。
私は何度か息を吸って、
それから、先に口を開いた。
「……私、話したいことがある」
律がこっちを見る。
その目に、もう少しもごまかせないと思った。
「昨日」
「瀬川くんの横で、少し寝ちゃったとき」
喉が少しつまる。
「夢、見た」
律は黙ったまま、続きを待っていた。
私は膝の上で手を握る。
「病室に、黒い服のひとがいた」
「人じゃない感じの」
「自分で、悪魔って言ってた」


