君に届くのは、10分の1だけ

「……じゃあ」

喉が少し震える。

でも止まらなかった。

「十年、あげる」

言った瞬間、
夢の空気が少しだけ変わった気がした。

悪魔の口元が、ゆっくり深くなる。

「即決ですね」

その言い方が気に障る。

私は強く言い返した。

「だって、一ヶ月しかないんでしょ」

声が、自分でも驚くくらい感情的だった。

「迷ってる時間なんてない」
「十年で一年増えるなら、それでいい」
「お願いだから、助けて」

最後のほうは、ほとんど願いだった。

叫ぶほどではない。
でも、抑えきれない気持ちがそのまま出てしまった声だった。

悪魔はしばらく私を見ていた。

その目は相変わらずよく見えないのに、
見透かされている感じだけは消えなかった。

「その十年は、戻りません」
「後悔しませんね?」

静かな声だった。

私はすぐに首を振る。

「後悔なんて、しない」

本当は、少しあったのかもしれない。
自分の十年より、律の一ヶ月のほうが重く感じてしまっている。

でも、それでよかった。

今は、それでよかった。

「私、そんな先までちゃんと欲しいものがあるわけじゃない」
「でも、律には今、未来がある」
「絵もあるし、その先もあるし」
「こんなところで終わっていいわけない」

言いながら、涙が出そうになる。

「十年なくなっても、まだ先はあるんでしょ」
「だから、助けてよ」

夢の中なのに、声が震えていた。

悪魔は、その言葉を静かに聞いていた。
途中で止めることもしない。

それが、余計に本気の取引みたいで怖かった。

「本当に?」

とてもやさしい声で、悪魔は聞いた。

「十年を差し出しますか?」

まるで確認事項みたいな口調だった。

私は一瞬だけ、息を止める。

怖い。

本当に怖かった。

十年という数字が、改めて重くのしかかる。
この先の人生のどこかを、自分で切り取って渡すみたいだった。

でも、それ以上に、
律のいない未来のほうがずっと怖かった。

私はうなずく。

「……うん」

それでも足りない気がして、ちゃんと口にする。

「差し出す」
「だから、律を助けて」

悪魔は満足そうに笑った。

「取引成立ですね」

その言葉と同時に、
病室の白さがふっと揺れた気がした。

私ははっとして、ベッドを見る。

そこにはまた、律が眠っていた。

さっきまで空だったはずなのに、
何事もなかったみたいにそこにいる。

私は反射みたいに、その手を強く握った。

温度がある。
ちゃんと、いる。

悪魔の声が、もう遠くから聞こえるみたいに響く。

「まずは十年」
「その代わり、あのひとに一年」

私は顔を上げる。

悪魔の姿は、もう少し薄くなっていた。

「でも、忘れないでください」
「これは奇跡ではなく、取引です」

その言葉だけが、ひどく冷たく残る。

私は息を詰めたまま、律の手を握る。

奇跡じゃなくてもよかった。
取引でもよかった。

助かるなら、それでよかった。

悪魔は最後に、少しだけ楽しそうに言った。

「あなたは、きっとまた私を呼ぶ」

その意味を考える前に、
世界がにじんだ。

私ははっと目を覚ました。

白い病室。
夕方の光。
機械の小さな音。

全部、さっきまでと同じだった。

でも、胸の奥だけがまるで違った。

夢だったはずなのに、
十年、という数字だけがはっきり残っている。

私は椅子に座ったまま、律の手を握っていた。

その手を見つめる。

助けたい。

さっきより、もっとはっきりそう思った。

夢の話なんて信じたくない。
でも、もし本当に少しでも可能性があるなら、
私はたぶん、もう引き返せなかった。