君に届くのは、10分の1だけ

その言葉に、私は息を止めた。

命の取引?

あまりにも冷たい言い方だった。

まるでコンビニで何かを買うみたいに、
あの人の命をそういう言葉で扱われたことが、ひどく嫌だった。

「……取引?」

悪魔はうなずく。

「ええ。あなたが差し出すものと、あなたが望むものを交換する」
「そういう話です」

私は空っぽのベッドを見る。

さっきまで律がそこにいたはずなのに、
今は白いシーツだけが広がっている。

その白さが嫌だった。

「あなたは、あのひとを助けたい」
「違いますか?」

違わない。

そんなの、聞くまでもなかった。

私は唇を噛んだまま、悪魔を見た。

悪魔は少しだけ笑う。

「なら、分かりやすく言いましょう」

そう言って、静かに続けた。

「あなたの寿命を、あのひとに分け与えることができる」
「そのための力を、あなたにあげましょう」

寿命。

その言葉が、夢の中なのに妙に重かった。

私はすぐには意味が分からなかった。
でも、分かった瞬間、背中が冷たくなる。

「……寿命って」

「そのままの意味です」

悪魔はやさしい声のまま言う。

「あなたが本来生きるはずだった時間を削って、
 あのひとの残り時間に足す」

私は首を振る。

そんなの、ありえない。
ありえないはずなのに、
悪魔の言葉は変に具体的で、だからこそ気味が悪かった。

「もちろん、等価ではありません」

悪魔は少しだけ目を細める。

「効率が悪いので」

その瞬間、嫌な予感がした。

「あなたが十年差し出して、あのひとに与えられるのは一年」
「そういう比率です」

十年で、一年。

その数字が、頭の中に落ちた瞬間、
夢のはずなのに急に現実みたいな重さを持った。

私は何も言えなかった。

「ちなみに」

悪魔は、天気の話でもするみたいな口調で続けた。

「あなたが本来生きるはずの時間は、およそ八十二歳と二ヶ月まで」
「今が十七ですから、残りは六十五年と少し」

八十二歳と、二ヶ月。

今が十七だから、
残りは六十五年と少し。

七十二歳と二ヶ月。

そう考えた瞬間、
本当なら長いはずの十年が、
妙に具体的になって胸に刺さった。

二十歳でも三十歳でもなく、
七十二歳と二ヶ月までしか生きられない未来。

普通なら、怖いと思うはずだった。

でも。

その次に浮かんだのは、
一ヶ月で終わる律のほうだった。

一ヶ月。

それに比べたら、十年なんて、と思ってしまった。

自分でもぞっとするくらい、すぐにそう思った。

悪魔は、そんな私の顔を見ていた。

「悩みますか?」

その聞き方が、腹が立つほど静かだった。

私は悪魔をにらむ。

「……悩むに決まってる」

「そうでしょうね」

悪魔は少しも揺れない。

「ただ、時間は少ない」
「あなたも、それはもうよくご存じでしょう」

その言葉で、胸の奥がまた痛んだ。

時間は少ない。

分かっている。
分かっているから、こんな夢の中でまで苦しいのに。

私は空っぽのベッドを見た。

律がいない。

その不在だけで、息が詰まりそうになる。

あの人は、まだ描きかけの絵を完成させていない。
まだ学校にもちゃんと戻れていない。
その先だって、本当はもっとあるはずだった。

美大に行って、
また新しい絵を描いて、
何年後かに、今の絵を笑いながら見返すはずだった。

それが、一ヶ月で終わるなんて、そんなの絶対におかしい。

「……一年」

気づいたら、声が出ていた。

悪魔が首を傾ける。

「はい」

「十年で、一年なんだよね」

「ええ」

その返事はあまりにもあっさりしていた。

私は息を吸う。

頭の中はぐちゃぐちゃだった。
怖くないわけじゃない。
おかしいとも思う。
こんなの信じていいのか分からない。

でも、それより先にある感情がひとつだけあった。

助けたい。

それだけだった。

理屈じゃなかった。
正しいかどうかでもない。

ただ、律に終わってほしくなかった。