君に届くのは、10分の1だけ

病室は静かだった。

機械の小さな音。
廊下を通る足音。
カーテンの向こうの、もう弱くなった夕方の光。

白い部屋の中で、
律の手だけが現実みたいだった。

あの日、屋上で私の手首をつかんだ手。
絵を描いてきた手。
好きだと言ってくれた手。

その手を離したくなかった。

私はうつむいて、律の指を見つめる。

爪のかたちも、関節の細さも、もう見慣れているはずなのに、
今はひとつひとつが大事なものに見えた。

助けたい、と思う。

何度目かも分からないくらい、同じことを思う。

一ヶ月なんて嫌だ。
終わらないでほしい。
絵を完成させてほしい。
その先も描いてほしい。

そう思うのに、私には何もできない。

その無力さが、ひどく苦しかった。

眠るつもりなんてなかった。

でも、手をつないだまま、ぼんやりしているうちに、
私も少しずつ意識が遠くなっていった。

病室の白さがにじむ。
音が遠ざかる。
律の手の感触だけが最後まで残る。

そして、私は夢を見た。

最初は、病室だった。

白いシーツ。
薄いカーテン。
沈んだ夕方の光。

でも、すぐにおかしいと分かった。

静かすぎる。

機械の音も、廊下の足音もない。
空気が止まっているみたいだった。

私は椅子に座ったまま、律の手を握っている。
そのはずなのに、
いつのまにかベッドの上には誰もいなかった。

空っぽだった。

息が詰まる。

「……律?」

呼んでも、返事はない。

立ち上がろうとする。
でも、足がうまく動かない。

そのときだった。

病室の奥、
本来なら壁があるはずの場所に、暗がりがあった。

最初からそこにあったみたいに、
不自然なくらい自然に、
ひとつの影が立っている。

人の形をしていた。

背が高い。
細い。
黒い服を着ている。

喪服みたいにも見えるし、
舞台衣装みたいにも見える。
どちらにしても、この病室にはまったく似合わなかった。

顔はよく見えない。
でも、口元だけが分かった。

笑っていた。

見た瞬間に、分かってしまう。

人じゃない。

私は声を出そうとした。
でも喉が固まって、うまく音にならない。

影はゆっくりこちらへ歩いてくる。

足音はしない。

白い床の上を、音もなく近づいてくる。

それなのに、
存在感だけはやけに重い。

止まったのは、ベッドの横だった。
ちょうど、さっきまで律がいた場所。

影が、私を見下ろす。

目は見えない。
でも、見られている感じだけがはっきりある。

ぞっとするのに、
視線をそらせなかった。

「はじめまして」

声がした。

やわらかい。
静かで、よく通る声だった。

男とも女ともつかない。
年齢も分からない。

でも、その声を聞いた瞬間、
私は余計に怖くなった。

やさしそうだったからだ。

本当に怖いものが、
最初から牙を見せるとは限らないことを、
どこかで知っている気がした。

「そんなに怯えないでください」

影は少しだけ首を傾ける。

「あなたに会いたかっただけです」

会いたかった。

その言葉が、気持ち悪いくらい自然に落ちてくる。

まるで、前から決まっていたことみたいに。

私はやっとのことで声を絞り出す。

「……誰」

影は少しだけ笑みを深くした。

「そうですね」
「あなたの言葉で言うなら、悪魔、が近いかもしれない」

その瞬間、背中が冷たくなった。

悪魔。

そんなもの、いるはずがない。
夢だ。
夢に決まっている。

悪魔は、空っぽのベッドの横に立ったまま、穏やかな声で言った。

「命の取引をしましょう」