君に届くのは、10分の1だけ

美術室の奥。
薄暗い影のあたりに、知らないものが立っている。

人の形をしているようにも見える。
でも、人ではないと分かる。

背が高い、と最初に思った。

それから、ひどく場違いなほど整った黒い服。
笑っているような口元。
目はよく見えないのに、見られている感じだけがある。

私は声を出そうとした。
でも出なかった。

足も動かない。

その影は、ゆっくりこちらへ近づいてくる。

足音はしない。

なのに、距離だけが確実に縮まってくる。

怖い、と思った。
でもそれだけじゃなかった。

その気配には、どこか最初から私を知っているみたいな感じがあった。

初めて会うはずなのに、
ずっと前から待っていたみたいな顔をしている。

そして、そいつは止まった。

私と、途中で止まった絵のあいだで。

口元だけが、少しだけ深く笑う。

その瞬間、耳元で声がした気がした。

——助けたいんでしょう?

息が止まる。

その声が、本当に耳から聞こえたのか、
頭の中に直接落ちてきたのか分からなかった。

ただ、その言葉だけははっきり分かった。

助けたいんでしょう。

私は首を振りたかった。
こんなのに答えたくなかった。

でも同時に、その言葉は、
私のいちばん深いところにそのまま届いてしまった。

助けたい。

当たり前だった。

一ヶ月で終わるなんて嫌だった。
絵を止めたくなかった。
律の未来を、ここで終わらせたくなかった。

その気持ちを、
そいつは最初から知っているみたいだった。

影がもう一歩だけ近づく。

暗いのに、口元の笑みだけが妙にはっきりしている。

——だったら。

そこまで聞いた瞬間、私ははっと目を覚ました。

暗い天井。
自分の部屋。
浅く速い呼吸。

全身に嫌な汗をかいていた。

私は布団の中でしばらく動けなかった。

心臓が、夢の続きを見ているみたいにうるさい。

時計を見ると、午前二時を少し過ぎていた。

夢。

ただの夢だと思おうとした。
でも、うまくいかなかった。

あまりにも気配がはっきりしていた。
声の感じも、目の前の距離も、
全部が変に現実みたいだった。

私はゆっくり起き上がる。
喉が乾いていた。

机の上のスマホを見る。

律からは、まだ何も来ていない。

そのことが、また胸を冷たくした。

私はスマホを握りしめたまま、さっきの夢を思い出す。

助けたいんでしょう。

その言葉だけが、頭の中で何度も反響した。

答えなんて、決まっていた。

決まっているからこそ、怖かった。

窓の外はまだ真っ暗だった。

夜は終わっていない。

でも、何かがもう始まってしまった気がした。